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第十三章 203.暗雲

 それは、平穏な日に突然に起こった。

 誰もが可能性を考えながら、有効な手が打てなかったこと。

 マグヌス自身、立てた誓いを破ってしまっていた。

 

 キュロスは乗馬の上達を褒められて上機嫌だった。


(昼飯は何かな?)


 軽食だがいつも美味しい厨房の計らいに気を取られていると、ここのところめっきり接することの減った侍女が、あわてて声をかけてきた。


「キュロス様、侍女長様が大変です」


 老女はマルガリタが生きている頃からキュロスの養育に携わってきた母代わりだ。


「どうしたのだ?」

「お倒れになって、若様を呼んでおられます」


 窓が閉められ薄暗くなった狭い部屋に老女は寝かされていた。侍女たちの部屋だ。


 灯火に照らされた老女の土気色の顔からは、生気が全く感じられなかった。


「……若様」


 老女は膜がかった目をカッと見開いてキュロスの姿を探した。


「僕はここだ。分かるか?」


 キュロスは寝台に横たわる老女の枕元に膝をついた。

 他の侍女たちは、はばかって室外にいる。


「キュロス様。私はキュロス様と呼ばれる方お二人に仕えて参りました」

「どういうこと?」

「一人は母君マルガリタ様の弟君、キュロス様」


 吹き上がる怨嗟に老女は顔を歪めた。


「マグヌスとやらのせいで命を落とされました」

「……そんな」

「そしてこれは、婆が地下の国に持っていこうと一度は決めたこと」

「……」

「キュロス様の父上はマグヌスとやらではございません」


 反射的に「では誰」と口をつく。


「インリウムの僭主シデロス様と母上の姉君フレイア様の間に授かった、オレイカルコス様」


 老女は笛のように長い息をついた。


「オレイカルコス様も、シデロス様とフレイア様もマグヌスとやらの企みで命を落とされました」


 キュロスは思わず立ち上がった。

 複雑な人間関係に目眩を覚えながらも、彼はどこかで納得していた。


 だから自分はマグヌスに冷たくされていたんだと。


(かたき)ばかりのこの王宮でよくぞ大きくなられました。このお姿を胸に刻んで、婆はマルガリタ様のところへ参りましょう」

「待て、もっと聞きたいことがある!」

「マルガリタ様、おいたわしや。あのように冷酷な異国人(とつくにびと)に妻の礼を尽くそうと」


 優しかった母。

 いつも寂しそうだった母。

 突然に死を選んだ母。 

 父母の睦まじい姿は見たことがない。


「全てお話しいたしました。若様、なにとぞアルペドンをアルペドンの血を引くものに……」


 老女はそこで力尽きたようにガクリと顎を落とした。


「待て、ではマグヌスは不義の子と知って僕を養ってきたのか?」


 返事はなかった。

 

 あまりに唐突に明かされた事実。


 まず衝撃、そして、じわじわとマグヌスに対する怒りがこみ上げてくる。


「僕を養っているふりをして、僕から全てを奪っていたのか」


 正式にはアルペドン王国という国は無い。

 とっくにマッサリア王国に滅ぼされている。


 だが、マグヌスの敷いた穏やかな占領政策のせいで、未だにアルペドン王国という国があるかのように勘違いしている者はいる。


 キュロスは拳を寝台に叩きつけた。


「若様……」


 物音に驚いた侍女たちが顔を見せる。


「お前たちも僕の素性を知っていたのか!」

「……申し訳ございません。マグヌス様に止められて」

「マグヌスの言いなりか!」

「若様、お言葉ですが、血の繋がらぬあなた様をここまで育てたのは……」


 キュロスは激昂した。


「育ててくれと頼んだ覚えはない!!」


 まるで駄々っ子である。

 

 大声に気付いたロフォスが、侍女たちをかき分けてキュロスの前に立った。

 声変わりの終わった低い声でたしなめる。


「何を騒いでいる。飯の時間だ」

「ロフォス、もうお前たちとは一緒に食事をしない」

「何をそんなに怒っているんだ?」

「お前なんかに話しても分からない」


 ロフォスは厳しい顔になった。


「若様、わがままもいい加減にしろ」


 肩に手をかけて揺さぶる。


「うるさい!」


 ビシッと振り払う。


「死の間際に伝えられた言葉は重い。僕は僕に課せられた運命に従う」

「何を言われたか知らんが……」

「知らないなら、出ていけ!」




 今説得するのは無理だなとロフォスは思った。


(親父なら、ぶん殴って連れて行くんだが)


 さすがに若様にはそれはできない。


「イリスが待ってるぞ」


 一言だけ言い置いて、ロフォスは立ち去った。


「あれ、ロフォスだけ?」


 テオドラが遠慮ない口をきく。


 テオドラ、イリス、ミソフェンガロの孤児たちが中庭に顔をそろえている。


 各自の大皿に、切り分けたパンと最近流行りの柔らかいチーズ、キイチゴがいくらか。


 それとは別に素焼きの水差しに入った湧き水。

 キュロスが酒に弱いのと、少女たちがいるために、この集団でワインは避けている。


「若様は、もう俺たちとは一緒に飯を食わないってよ」


 キュロスではなく若様と、ロフォスの口ぶりに多少皮肉が交じる。


「ええ……私、何かしたっけ」


 落ち込むイリス。


「お前のせいじゃないよ。あいつなりに悩みがあるんだ」


 パンをちぎってチーズに突っ込みながら、ロフォスはイリスを励ました。


「そう……でもどうしたんでしょ」


──孤独になるな、キュロス。一人で悩むな。分かち合う仲間がここにいるじゃないか──


 ロフォスの思いはキュロスに届くことはなかった。

 キュロスは、宣言どおり、二度と食事を共にすることはなかった。


明日も8時ちょい前に更新します。

どうぞお楽しみに!!


次回、204話 ドラゴニアの夫

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