第十二章 194.最後の抵抗
カクトスは、コウフォスの初太刀を短剣で受けたが、たちまち警備兵たちの槍に叩き伏せられた。
「顔を上げよ」
顎の下に槍の柄を入れられ、グイッと頭を持ち上げられる。息ができない。
悶絶するカクトスを皇帝は見下ろした。
「余を裏切った者。楽には殺さん」
「火刑にでもいたしますか?」
口を挟んだのは、おそらく藩主パンテラス。
皇帝が返り咲けば、彼の影響力は絶大なものになる。
「その前に右手を切り落とし顔の皮を剥げ。アンドラスめに届けてくれよう」
カクトスは不敵に笑った。
最後の切り札はこちらにある。
「ふふふ、私がどうしてあなたの出した外交文書を持っていたのか、知らなくて良いのですか?」
その一言に皇帝は逆上した。
「マッサリア王国にアンドラスの内通者が居るのか! 言え」
コウフォスの蹴りに、仰向けにひっくり返る。
高い天井に描かれた運命の神のハサミを握る姿が目に焼き付いた。
「言え!!」
無言だったコウフォスが、妙に甲高い声で迫った。
「言わぬ。見えぬ敵に永遠に怯えるが良い」
今度は顔を蹴られた。
「グオッ!!」
暗闇が襲った。
どれほど経ったか……我に返って目を開けたが、やはり暗闇だった。
カクトスは瞬きをする。
何も見えない。
「気が付いたな」
声だけがして、身体を持ち上げられ、ザブンと冷水の中に放り込まれた。
一瞬、溺れるかと思ったが、水の流れる音がして、かろうじて足が立つようになった。
気を緩めると顔が水に沈む。
「知っていることを話せば、出してやろう」
言うものかとカクトスは水をかいた。
肋と脚の骨が折れている。
脳天まで痛みが走った。
「言うまで泳いでいろ」
嘲笑を含んで、声の主はカクトスに水をかけた。
(もう一人、従者はどんな目にあっているか……)
彼が喋れば、カクトスの沈黙は無意味になる。
「殺せ!」
叫びは虚しく響いた。
単純にして恐るべき水責め……カクトスは、ピュルテス河で溺れた四万の無念を思って耐えた。
永遠にも思われる過ぎた時の長さは、暗黒の中では知る術もない。
体力は冷水に奪われ、休息は許されない。
「殿下……」
獅子を担いだアンドラスの姿が見えた。
「殿下、ここにいらしたのですか?」
手を伸ばすと、姿はかき消えた。
意識は朦朧としている。
「カクトス、話せ」
今度は声が聞こえる。
「話しません。殿下のご命令であっても……」
カクトスは幻聴と対話していた。
手も足も感覚は無い。
自覚無く核心を口にしてしまうまで、もうすぐ。
水牢の主はほくそ笑んだ。
「私のことでしたら、良いのですよ」
穏やかな声に救われた心地になる。
「……マグヌス」
「話しませんか……」
「話せない」
その時、カクトスは鬨の声を聞いたと思った。
「あの世からの迎えか……」
そのまま、意識は遠のいた。
カクトスの聞いた雄叫びは、幻では無かった。
皇帝が夏の離宮に居るとの知らせを受け、アンドラス五世は、マッサリア攻めを口実に集めた大軍を率いて、急襲をかけたのだ。
軍の先頭には、戦象を操る彼の雄姿があった。
離宮はもとより防御を考えた造りではない。
麓に残した数万を考慮に入れれば、パンテラスにも皇帝にも勝ち目は無かった。
「パンテラス。皇帝として命じる。私の同志を解放せよ」
あの急坂を象に登らせたのかと、パンテラスは青ざめる。
「カクトスと従者はどこだ!」
象が鼻を振り上げる。
黄金の鎧がきらめく。
「待ってくれ、いや、待ってください」
パンテラスは膝を折った。
「新帝陛下……」
「礼など良い。万一生命に別状あればそなたの生命で償わせるぞ」
「……少々お待ちを」
そこへ、兵士に担がれた旧帝が姿を現した。
「無礼者、これが皇帝に対する態度か!」
相変わらず、キンキンとうるさい。
「黙れ。お前はとっくに廃されている!」
「……アンドラス」
「選ばせてやろう。ここで死ぬか、祖霊神の一神官として聖山で生きるか!」
彼は玉璽を掲げた。
「これを欠いて皇帝気取りか」
「……そんな物は無くてもな、現に私が皇帝なのだ」
象の上から見下ろすアンドラス。
その威圧感は凄まじい。
「えいっ」
旧帝は、玉璽を象に投げつけた。
「死ぬのは嫌じゃ」
「では、決まりだな。聖山にこもって鍛え直せ」
「……断食は嫌じゃ」
「ならば死ね!」
旧帝は細い手足を振るって暴れたが、屈強な兵士に押さえ込まれ、彼我の力の差を思い知った。
泣いている。
ここに至っても自分の事しか考えていないのかと、アンドラスは呆れた。
「コウフォスとやらはどうした。私の顔に傷をつけた男、簡単には死ぬまい」
「逃げました。追っ手を出しております!」
まだ危険は残っているとアンドラスは気を引き締める。
カクトスと従者は、ほとんど溺死状態で水牢から発見された。
身体を拭き、焼いた石を厚く布で包んだ物で温め、よくさすってやると絶え絶えな息がやっと力を取り戻した。
「……殿下」
象から降りたアンドラスの腕をつかむ。
本物だ。
「いや、陛下ですぞ」
ダイダロス将軍が重々しく混ぜ返す。
「行き先がマッサリア王国ではなくパンテラス藩主国と聞いて、皆の驚いた顔を見せたかった」
アンドラスが、もう大丈夫と朗らかに笑う。
「お見捨てになってもよろしかったものを」
「何を言う、大事な同志を見捨てられるか」
カクトスは立とうとしたが、身体がいうことをきかなかった。本人は気付いていないが顔面も腫れ上がり、ふやけた肌の色でやっとカクトスと判別できる有様だ。
「そうだ、ミルティアデスも回復したぞ」
「まさか」
「神官が奇跡だと言っていた」
この人に仕えて良かった……カクトスは横になったまま、目蓋に残る運命の神を思い出した。
応援ありがとうございます。
この章もあと1話となりました。
次回、第195話 私信
木曜夜8時ちょい前をどうぞお楽しみに!




