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第十二章 191.外交文書

 祖霊神の神官たちによって皇帝の冠も宝剣も新しく作られた物に魂が入り、古い物からは霊性が抜かれた。

 アンドラスが持つものだけが神聖性を帯びたものになったことになる。


「だが、玉璽は取り返さねばならない」


 アンドラスは、エウゲネス王宛のあの皇帝の外交文書を見ながらつぶやいた。


 紙葦(パピルス)に乗せた金箔の上から強く印を押し、羽で払うと翼のある竜をかたどった東帝国の紋章が表れる。これがあって初めて正式な外交文書となる。


 旧帝国時代から伝わるという正式な玉璽は、アンドラスが臨時に作らせた印とは微妙に違っている。


「ふうむ」


 高窓から差し込む光が鮮やかに金の色を輝かせる。

 彼は謁見の間の玉座に脚を組んで座っていた。

 周囲に彼の手足たる仲間たち。


 茶色の頭をかしげて見入っているのは、マグヌスがエウゲネスの手元から持ち出してアウティスに託した外交文書だった。

 アンドラスのマッサリア侵略を糾弾し、自分の復位に力を貸して欲しい、ついては満月の夜にリドリス大河の猫の島で会おう……。


 あの皇帝の小さく几帳面な文字である。

 アンドラスはすっかり暗記してしまった。


「猫の島とは厄介だな」


 アンドラスは、臣下を見回してつぶやいた。


 そこは帝国の、西の辺境も辺境、強大な力を持つ藩主パンテラスの領土である。

 当然辺境には前の皇帝に最も忠実な臣下を置いたままにしてある。


「リドリス大河というのも厄介だ」


 大湿地帯を抱え、向こう岸が見えぬほどの大河。

 猫の島はズブズブと泥で沈む中洲の中にあって、一か所だけしっかりした岩礁である。


「満月までには十日以上ある」


 アンドラスたちは額を集めて相談し、仲間のうちから、皇帝側に面の割れていないミルティアデスという軍人を、マッサリア王国の返礼の使者に仕立てることにした。


 まずは港でマッサリア人を捕まえて方言の特訓である。


「これしきのことで音は上げられぬ」


 ミルティアデスとその従者は、明確な発音を特徴とするマッサリア方言を繰り返した。


「猫の島というからには、皇帝は大河沿いの辺境を治めるパンテラスの庇護下にあるものと」

「最大の藩主国。皇帝の忠犬」

「皇帝が彼の懐に守られているうちは手が出せませんな」


 アンドラスが即位しても、彼らが「皇帝」と呼ぶときは先帝を指していた。


「パンテラスを欺き、皇帝をおびき出す」

「ミルティアデスにそこまでの芝居がうてましょうや?」

「当然、我らが支援する」

「マッサリアとの再戦の準備をして見せれば、エウゲネスが皇帝と手を組むのが自然な流れ。そこでミルティアデスがエウゲネスの使者に偽装する」


 アンドラスの言葉をカクトスが補強する。


「焦るな。満月は一度だけではない」


 シュドルスの慎重な意見。


「使節を飛ばしましょう。戦支度を公然と始めるようにと」

「……それがパンテラスの耳に入れば……」

「よし。新皇帝は先の敗戦の不名誉を(すす)がんとして立つ。触れを出せ」

「陛下、陛下、あまりやりすぎると本物のマッサリアを刺激しますぞ」


 あわててカクトスが諫める。

 似合わない青い吏服を捨て、褐色の肌に合わせた鮮やかな朱の貫頭衣が映える。


「そこはお前が上手くやれ。あのマグヌスの学友だろう」

「はっ、これは帝国(こくない)向けと知らせておきます」


 カクトスは指を折った。


「早馬に早船を継いでも、マッサリアまで三ヶ月はかかるでしょう」

「待たねばならぬか」


 アンドラスは高窓を睨んだ。


「ミルティアデスを猫の島まで送らねばならぬ。決行は四ヶ月後の満月の日と定める」


 その前に年が始まる夏至を迎え、帝国の人々は新年にあたって祖霊神を崇める儀式を行わなければならない。


吝嗇(けち)な皇帝がため込んでいた財貨で、盛大に祝ってやろう」


 これは各神殿の神官や執政長官と打ち合わせが要る。


 即位の儀式までは側近の勢いでやり抜いたが、その後は別だ。アンドラスは、理想とする彼の父帝の行っていたように、それぞれの職責に見合った仕事を分担させようと考えていた。


 東帝国は巨大だ。

 多数の官吏を使いこなせなければ生き残れない。


 あの皇帝の短くも澱んだ治世を生き延びた文官たちにも、やっと日の目が当たる。

 

 浮かぬ顔をしているのは、大役を任されたミルティアデスだけで、


「その時期はブユが……」


 と、表情を曇らせた。


 彼には重い責務が課せられている。

 

 まさか猫の島に皇帝自身が来るはずはないから、マッサリアの使者のふりをしながら皇帝の居場所を探り出すこと。

 

(自分は知恵くらべには向いてないのだが)


 愚直な軍人として生きてきた彼。


「私が近くまで同行しましょう」


 カクトスがそう言ってくれたときには、少し安心した。


(最後は皇帝のもとまで案内させて刺し違える覚悟。アンドラス陛下のために、帝国新生のために)


 その決心が定まると、もう、心残りは無かった。


 言葉も、ほぼ習得した。


「息子よ、遠くにでも行くのか?」


 老いた父が息子の様子に心配をする。


「せっかく皇帝陛下のお側に仕えることができたのに」


 アンドラスの配下として先の皇帝に逆らったことは伝えていない。だがそこは肉親、父親には感じるものがあったのだろう。


「親父、心配いらない。この役目が無事務まれば、これまで以上にアンドラス陛下の信頼を得られるんだ」


 そうなれば、もっと広い家を買おう、もっとたくさんの奴隷を買ってかしずかせよう、幼い弟には家庭教師もつけてやろう……そして継母には……身を飾る物でも買おうか。


 自分が作戦中に死んでも、アンドラス陛下は残された家族の面倒を見てくれるだろう。


 帝国をほぼ手中にしたアンドラスに比べれば、あまりにささやかであるが、ミルティアデスはそんな夢を見ていた。


 


次回 192話 猫の島


木曜夜8時ちょい前をお楽しみに!!

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