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第十二章 188.血は水より

 皇帝は逃げたが、その際の無様さが民草の嘲笑を買った。

 謎の太った女は第四皇女、美味に目がなく毎日のように宴会を開いていたという。


 皇帝はそれを特権として認めてやると甘言を弄して利用しようとし、失敗した。


 ひとつながりに、第五、第六皇女とその夫や一族が皇帝派として逃亡に手を貸したことが判明し、アンドラスは次々処断した。皇位継承権を持つものとしては許されない所業に手を染めたものは、裏切りに相違ない。


 一部には見目良き男児をかどわかし宦官をこしらえて皇帝のもとへ送り込んでいた不埒者(ふらちもの)もおり、これは問答無用で局部を切り取った上絞首刑に処した。



 先帝が崩御して以来、徐々に崩れて来たものがいっせいに音を立てて壊れている。

 大遠征も失敗して帝国の威信に傷がついた。そんな印象があった。

 

 だが、民草の中にも希望を捨てぬものはいた。


「アンドラス殿下なら、立て直してくださるかも」


 遠征で大敗北を喫した本人であるにもかかわらず、アンドラスの人気は高かった。

 その当人は数日姿を見せていない。


「皇帝を追って遠くの藩主国に出向かれたのか?」

 

 噂は勝手なことばかりを言う。


 喧騒とは遠い、都の外の聖山の頂上。

 冬枯れの木々が枝を鳴らす中にある祖霊神の白亜の神殿に、話題の人アンドラスはいた。


 部屋の片側は祖霊神に使える四人の女神を模した列柱廊になっており、その外側は切り立った崖だった。


 皇子とはいえ、一般人が入れるのはここまで。

 その神聖なる一室で彼はもう一人の若い男と相対していた。


「兄上、襲うならグダル神の祭礼の折にという助言、お役に立ちましたでしょうか?」


 質素そうで実は高価な純白の衣類をまとった神官。

 頭は慣例により剃り上げられている。


 二人の間には純白の大理石の卓があり、上には雪花石膏(アラバスター)の水差しと器が乗っていた。


 祖霊神の神官はまず酒を嗜まない。

 代わりに吟味した湧水を喜ぶ。

 かすかに泡立つこの水は、さて、どこから取り寄せたものだろう。


「お陰で助かった。グダル神へのとりなしもありがたい」

「グダル神は血を喜ばれます。私とグダル神の巫女二人、神のお怒りが無いか、神殿の奥に据えられた水盤を見つめておりましたが、小波一つ立たず」


 この神官はアンドラスの弟、元の第五皇子テオドシウスが言った。


 幼い日から政争を嫌い、九つの歳に祖霊神の神殿に逃げ込んで庇護を求めてからもう十年を超える。


 今では立派な祖霊神の神官を務める身だ。


 アンドラスは常々、この気弱な弟とも連絡を取り、自分の行動が神々の意向に背いていないかを神託という形で弟に確認してもらってきた。


「グダル神の祭礼の前日なら、神はお許しになるそうです。その証を見せる、ともお告げに出ました」


 季節外れの大雪が神のお告げと、アンドラスたちは確信を持った。


「兄上、無事実権を取り戻され、おめでとうございます」

「いや、まだまだだ。皇帝を逃がしてしまった」

「逃げたのでしょう。勝ったのは兄上です」


 耳に心地よかった。


「もう一つ、お前に願いがある」

「何でしょう? 死者を統べる神以上に恐ろしいものがあるとでも?」


 不意にアンドラスの脳裏に大地を揺るがす洪水の音が蘇った。

 あれはピュルテス河の神の怒りというより、それを巧妙に利用したマグヌスという男の底知れぬ恐ろしさではないのか?


「兄上?」

「……いや。そうだ。私の戴冠式の準備をして欲しい」

「それは……」

「今皇帝を名乗っている愚か者は、怠惰のあまり自分の寝室に祖霊神の神官長を呼びつけた」


 テオドシウスが深くうなずく。


「私はそんなことはしない。聖所に出向いて帝冠と宝剣を授かり、民草にたっぷり楽しませてやる」

「まずは宝剣を打つ準備から。時間がかかります」

「できるだけ急いでくれ」


 耳元へ口を寄せて、


「金銀や宝石に糸目はつけぬ」

「買収で兄上の道を汚すようなことはいたしません」

「分かっている。万一のためだ」


 日はとっぷりと暮れている。

 白い部屋の白い輝きのせいで、残光が感じられるだけだ。


「どうぞ今夜はお泊りに」

「言葉に甘えさせていただく」

「お供の方にも失礼いたしましたが、神々の秘事は漏らせませぬゆえ、ご寛恕(かんじょ)ください」


 寒々とした別室で、水だけ与えられて、やきもきしながら待っているであろうカクトスたちを思い出して、アンドラスはくすりと笑った。


「ありがとう」


 はたして、対話を終えて出てきたアンドラスは、寒いだの暗いだの腹が減っただの、およそ凡人が口にするであろうあらゆる不平をカクトスたちからぶつけられて、苦笑した。


 彼らは身分を隠し、一般の参列者とともに聖堂に(むしろ)を敷いて横になった。


 どういう仕掛けか、床が暖かく巨大な聖堂そのものも暖かかった。


「断食をしない者はこちらへ。断食する者はあちらで聖水を」


 声に誘われて列に並び粥を受け取る。


「麦だけか」


 薄暗くてよく見えないが、匂いに旨味がない。


「さじの立つ粥だ。ありがたくいただけ」


 アンドラスがたしなめる。

 器の中央に立てたさじが倒れないほど濃い大麦の粥は薄い塩味だけで、宮中の香辛料を多用した料理に飽きた口には確かに新鮮だった。


 礼を言って空の器を返し、再び横になる。


「結構腹が膨らむものですな」


 シュドルスが遠慮のない意見を口にする。


「しっ、皆祈っているのだ。邪魔をしてはいけない」


 弟は、グダル神へのとりなしのために今夜も断食して祈るのだろう。

 街に連れ出して美味しいものを食べさせてやりたいが、これが彼の選んだ道。


「無理を言ってしまった……いや」


 甘い考えを振り切る。

 自分は皇帝になる男。

 帝国内全てを支配する者。


「祖霊神よ、我に全てを与え給え」


 小声であったが、それを耳で拾った隣の老人が驚いて振り向いた。


 アンドラスは気付かず、大きく伸びをして寝返りをうつと、床の暖かさに誘われて安らかな眠りについた。


 


 


次回、ついにアンドラスが皇帝へ…


第189話 新皇帝アンドラス五世


木曜夜8時ちょい前をお楽しみに!!

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