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第十二章 187.脱出

 第三皇子アンドラスが皇帝を捕らえ、実権を握ったという噂は、グダル神の陰鬱な祭礼が終わると同時に東帝国(くに)中を駆け抜けた。


 都の辻ごとに兵を立て、街道も、港や都の近郊は要所全てに駐屯所を設けたのだが、噂はそれをすり抜けて広まった。


 肝心な近衛兵の指揮官たちは、多くがアンドラスに忠誠を誓うか、あの雪の日に急襲されて命を落としていた。


 藩主国を見ても皇帝派として明確にアンドラスに従わなかったのはわずか五カ国。

 日和見気味の味方を入れても、アンドラス派を表明したのは八カ国にのぼる。

 もっともこれは藩主国が都に置いている代表部の意向であるから、最悪、本国の指示でひっくり返る可能性はある。

 各藩主国を走り回ったカクトスの努力が試されるわけだが。


「これはもう勝ったようなもの」


 アンドラスは気を緩め、父である先帝が使っていた、玉座のある謁見の間を覗こうとした。


 位置は当然知っている。

 だが、皇帝の威光を恐れ、誰一人近付こうとしなかった先帝の権力の象徴。

 

 何かを封じるように、扉には無数の板が乱雑に打ち付けてあった。

 皇帝のやらせたことである。

 彼は政治の中枢を玉座から自分の寝室に移した。

 一枚、また一枚と、邪魔な板が剥がされていくに連れ、アンドラスは父帝の魂に近付いて行くような気がした。


 重い音がしてゆっくりと扉が開く。

 高窓から光線が差し込み、正面の玉座を照らしていた。

 その距離二十歩あまり。


「父上……」

「アンドラス様、玉座にお座りなさいませ」

「いや、まだだ。正しく帝位を継承してからだ」


 押し込めているが皇帝は今なお生きている。

 忠実な近衛兵も残っている。

 隠れ潜んで再度の転覆を計っている。


「もう良い。誰か扉に油を指しておけ」


 彼は踵を返した。

 感傷に浸っている場合ではない。


(皇帝を、どうするか……)


 最大の難関だった。


「島の離宮に封じてしまえば良いのでは?」


 ダイダロスの案が妥当なところだろう。


 その懸念は、とんでもない形で皇帝自身が解決してくれた。


「なに、皇帝が逃げただと?」


 手抜かりといえば手抜かりである。

 満足に歩くこともできまいと、侍女一人を残して室内には見張りをつけていなかった。


 侍女が灯火に使う火を求めてきたので与えたところ、皇帝か侍女かはわからぬが室内に火を放ち、混乱に乗じて逃げ去ったという。


「まだ皇帝派は多いのだな。気を付けなければ」


 アンドラスは焼け落ちた垂れ絹とくすぶった寝室、もぬけの殻となった皇帝の寝台を見て臍を噛んだ。


「皇帝は、女装して逃げたようですな。侍女が衣装を持ち込むのを見た者がおります」


 緊急事態にもかかわらず、アンドラスたちは苦笑いしていた。


「あの皇帝らしい。さぞかし可愛らしい女であったことだろうよ」





──皇帝が逃げた。注意せよ。

 知らせを受けて駐屯所に緊張がみなぎる。


「通しておくれ」


 高貴な身分にありがちな、鼻にかかった発音で兵士に呼びかける女がいた。

 彼女のあとには大柄な男たちに担がれた輿が一つ。

 数人の荷物持ち。

 輿は垂れ幕を降ろしており女のものと知れる。


 駐屯所の全員が輿を取り囲んだ。


「神聖なるグダル神の祭礼を実家で過ごして、郊外の夫のもとに帰るところでございます」

「夫の名は?」

「スティロス書記官。剣ではなくペンを取る身でございます」

「ふん」


 女の名は聞かない。

 聞いても仕方が無いほど、女は男に隷属していいた。


「輿の中を改める。いいな」

「もちろんでございます」


 侍女らしい先頭の女が答え、輿の垂れ幕をめくった。


「ご主人様、こちらに顔をお見せください」


 恥ずかしそうに、そっと顔を向けたのは……まるまるとよく肥えた、中年というには若い女だった。

 身体は輿いっぱいを占領してはみ出さんばかり。


「おおこれは……」


 明らかに皇帝ではない。


「もう、よろしいでしょうか? ご主人様は他人に見られるのがお嫌いで」

「そのうえ、膝も悪いのです。輿から降りて挨拶できないのを許してください」


 身体に似合わぬ細い声が輿の中からした。

 輿を担ぐ男たちが身じろぎした。

 重いのだろう、無理もない。


「ああ、行っていいぞ。足元は濡れている。気を付けてな」

「ありがとうございます」


 垂れ幕をおろすと、輿はゆっくりと去っていった。


「おい、あの手!」


 駐屯所の兵の一人が、輿の垂れ幕を押さえる細い手に気付いた。


「あの女にあの細い手は無い!」


 わらわらと追いかけて取り囲む。


「手、でございますか?」

「そうだ。輿の中にもう一人いるだろう」

「……はい、年頃のお嬢様が……お年がお年ゆえ軽々にお顔は見せられず……」

「輿を地面に降ろせ!」


 侍女は粘った。


「一度良いとおっしゃったではありませんか!」

「今、怪しい手に気付いたのだ。降ろせ!」


 男たちが輿を道の真ん中に下ろした。


「出てこい!」

「ひえ! お助けを」


 まるまる太った女が転がりだした。

 膝の痛みなど無いかのようだ。


「いたぞ!」


 大きな女の影に、輿の隅に、小さな女の影があった。


「顔を見せろ」


 深く顔を隠している上掛けを剥ごうとした時だった。


 兵士を突き飛ばして、大柄な男がその女の手を引いた。

 応じて、「女」はすぐに立ち上がる。


「神々の罰を恐れよ。余は皇帝じゃ」

「陛下、失礼。背中にお乗りください!」


 大木にセミがとまるように背負われる。

 男は駆け出した。


「待て!」

「コウフォス、早く行って! 私たちには構わず」


 男たちと兵士たちがもつれ合いながら後を追う。


 皇帝を背負うコウフォスと呼ばれた男の足は速かった。

 他の男たちが、彼を逃がそうと順に盾になった。

 そもそも、兵士は鎧の重さで思うように走れない。


「くそっ! 殿下に合わせる顔がねえ」


 追いつけないと諦めた兵士が吐き捨てた。

 

「せめてお前たちに、この計画を詳しく話してもらおうか!」


 足をくじいた男一人と、侍女、太った女……その他を連行しながら、兵士たちは皇帝を取り逃がした悔しさに歯噛みした。







脱走されてしまいましたが、アンドラスたちは余裕。


次回、第188話 血は水より


木曜夜8時ちょい前をお楽しみに!

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