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第十章 156.毒リンゴ

 傷を負った象使いの長の傷は、熱を持って腫れ上がり、膿を出し始めた。

 悪臭が漂う。


「矢尻に汚物でも塗っていたのかもしれない」


 象たちも同様に膿を垂らし、足の裏に深く食い込んだ槍先を抜き取ってやろうと近づくと怒って鼻を振り回して威嚇した。


 ヨハネスが言ったように、最初は三本足で立てた象も体重を支えきれなくなり横倒しになった。


 そして、象使いたちを悲しませたことには、地面と接する肩や腰のあたりが壊死を起こし、腐敗臭のする液体が滲み出始めた。


 もう誰の目にも象たちが助からないのは明らかだった。


「なんと残忍な……」


 戦象部隊の兵士たちは誰もがマッサリア王エウゲネスへの怒りを募らせた。


 象が倒れたせいで、東帝国軍の侵攻は止まってしまった。


「象を始末しろ」


 そういう声も出始めた。


「リンゴはあるか?」


 ある日、シュドルスは聞いた。


「アンドラス殿下のためのものがございますが」


 シュドルスは、メントール将軍と行動をともにしているアンドラスのもとまででかけた。


「おお、シュドルス、象の具合はどうだ」


 シュドルスは力無く首を振った。


「助かりません。せめて楽にしてやろうと思い……殿下のリンゴを分けていただきたく参上しました」

「そうか……象たちには酷いことをしたな」

「あのような仕掛けを考えつくなど、エウゲネスはこの上なく邪悪な存在」

「それもだが、母象から引き離して戦象に仕立てた我々も……」

「いいえ。良いものを食べ、清潔な水を飲み、身を飾られて……不満がありましょうや?」


 ここは議論しない方が良いとアンドラスは思った。


「リンゴはいくつでも持っていけ」

「感謝いたします」


 シュドルスと象使いたちは、リンゴに秘伝の毒を仕込んだ。鉱山の副生成物で味も臭いもなく、砒素に似ているが、砒素以上に即効性がある。


「ほれ、好きなリンゴだぞ、食べないか」


 象使いが渡そうとすると、その、部隊でも一番大きく一番立派な牙をした象は鼻で弾き飛ばした。


「ギャッ!」


 象使いは悲鳴を上げて鼻を避けた。


「どれ、貸してみろ」


 シュドルスは別のリンゴを受け取ると象の鼻先にそっと差し出した。


「すまん、食べてくれ。こうしてやるほか、お前たちを救ってやる方法が無いのだ」


 静かに語りかける。


 バサッと大きな耳が動いた。


「いい子だ……仇はきっと討ってやる」


 象の小さな目から涙がつうっと灰色の皮膚を伝った。


「ほうれ」


 象は赤い毒リンゴを受け取り、口に運んでシャクシャクと咀嚼し嚥下した。

 人には分からない毒の匂いも、敏感な象にはわかるのか。

 シュドルスの言葉を理解したとは思えないが、象も己自身の最期をさとったのであろう。


 この日だけで十四頭の象が薬殺され、リンゴを拒み抜いた六頭も地べたに倒れて身動きできない有り様。


「許さぬ。絶対にエウゲネスは許さぬ」


 巨体の横にうずくまり、最後の息が絶えるまでシュドルスは見守った。


 戦象を失った時点で、この先の遠征をどうするか、会議が持たれた。

 当然、シュドルス将軍はエウゲネスを討つことを主張した。


「だが、兵糧が少ない。このまま内陸へと進んでよいものか?」


 慎重な意見を出したのは、海岸沿いのトレシア藩主国から派遣されたエレンコス将軍。

 出陣に際してアンドラスに忠誠を誓ったが、どちらかといえば日和見だ。

 常に後方に待機して損害を受けないように気を配っている。


「戦果を挙げねば、王都かエウゲネスの首を獲らねば、アンドラス様が皇帝陛下に責められる」


 シュドルスが、アンドラスをかばう。 


「私は、象たちの仇を討ちたい」


 ずんぐり肥えたキクロス将軍は、アンドラス派だが見かけに似合わず気性は荒い。


「このまま退却して王都の包囲に回るという手もあるぞ。王都が危ないとなればエウゲネスも放っておくまい」


 アンドラスが静かに言った。


「殿下!」


 シュドルスが悲痛な声を上げた。

 

「大した戦果も挙げられぬままの象など、ここで朽ちればよいのだ」


 メントールが冷酷な意見を吐く。

 

「会議中失礼します」


 高位の軍人らしい、見事な甲冑に身を包んだ中年の男が、兜を抱えて幕屋に入室の許可を求めた。


「何事だ? 入室を許す」

「先ほど物見から知らせがありました。マッサリアの同盟軍が離反している模様です」


 皆が一斉に床几を蹴った。


「なんと!」

「誠か!」


 シュドルスは戦女神に祈った。


「これは、押せという神々からの配剤、この機を逃してはなりません」


 会議は一気に主戦派が主導権を握った。


「カクトスなら何と言うだろうな?」

「間違いなく押せと」


 同盟国、特にグーダート神国が脱落すれば、マッサリア・アルペドン軍は、この時騎兵一万五千に加え重装軽装合わせて一万、総勢二万数千の兵力。


 対するに東帝国軍は戦象部隊を失ったとはいえ、四万以上の兵力を抱えていた。


「エレンコス、後方が好きなお前に命じる。リマーニ港からの物資の輸送経路を確保せよ」


 アンドラスの命にエレンコスは、


「承知いたしました」


 と、ホッとしたように応じる。

 アンドラスの皮肉よりも、戦象部隊を翻弄し、倒した連中と戦うのが芯から恐ろしい。


「エウゲネスを追うぞ! 象の仇をとる!」


 アンドラスは決意した。

 今もこの幕屋の中に腐臭が漂ってくる。


 外に出ると、象使いたちが斧を使って象の牙を外そうとしていた。


 象牙は金銀にも負けず高価に取引される。


「象の死体を損壊することは許さぬ」


 アンドラスはきっぱり言った。


「戦死者を辱めるに等しい。恥じ入れ!」


 象使いたちは当然与えられるはずの代償を失い、斧を置いてひざまずいたまま上目遣いにアンドラスを(にら)んだ。



戦いの悲劇は駆り出された象たちにも及びます。


次回、第157話 虫


木曜夜8時ちょい前をお楽しみに!

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― 新着の感想 ―
[良い点] こんにちは お久しぶりです! 毒リンゴのエピソード 何処かの動物園で 戦争中に象を殺そうとした時のエピソードと同じですね 相変わらず 緻密な設定の小説と思います これからも期…
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