第九章 143.裏切り
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インリウムの軍を率いていたのは僭主シデロス本人だった。
右翼の最先端に配置されたため、彼は苦笑した。
「やはり裏切りを恐れているのか」
彼は麦畑を踏みながら、一応指示どおりの布陣を敷いた。
騎兵二千、軽装歩兵三千、重装歩兵一万。
メラニコスが合流し、騎兵千と重装歩兵一万を加え、両軍合わせて騎兵、軽装歩兵それぞれ三千に重装歩兵二万、これでおおよそ帝国軍一万五千余りを迎え撃つ。
両者ともに難敵とみなし、にらみ合いが続いた。だが、シデロスは、眼前の敵より本陣の動きに注意を払った。
戦象部隊が丘の上に駆け上がるのを見ると、シデロスはいよいよ動き始めた。
「期待に応えてやろうではないか! 全軍後退、マッサリア軍の橫腹に攻撃をかけよ! マッサリアはたびたび我らに軍役を強要し、被害を与えた。今こそマッサリアの軛から逃れる時!」
シデロスの鼓舞に大半の兵士が「おう!」と応える。
「母殺しの王、エウゲネスを狙え!」
インリウムの兵は転進し、帝国軍とメラニコス軍を残して方向を変え、丘の上を目指し始める。
「逃げるのか! インリウムの犬ども!」
異変を察知してインリウムを食い止めようと動いたのは、まずピュトンの隊だった。
「メラニコスとエウゲネス様に、インリウムが裏切ったと告げろ!」
伝令を飛ばすとともに、彼の指揮下の五百の重装歩兵はインリウム軍へと向きを変え、彼方のエウゲネスの本陣との間に立ちふさがる。
数では劣るピュトンたちだったが、一瞬の足止めには成功した。
その間に、初動は遅れたもののメラニコスがさらに厚い戦列を敷こうと動く。
「チッ、やはり警戒されていたな」
本陣急襲の勢いを削がれたシデロスは舌打ちする。
当惑したのは帝国軍だ。
眼の前で始まった同士討ちに、兵の動きを止める。
「報告を!」
「丘の上を見てください! 我らの戦象が占拠している。マッサリア軍は堕ちた!」
シデロスがすかさず帝国軍に使者を走らせたのはこの時だった。
「我々はインリウム軍。マッサリアを裏切ってお味方申す」
「インリウムか!」
ならば裏切りに一理あると、帝国軍のダイダロス将軍は攻撃の手を緩めた。
「インリウムに戦わせよ。我らはその後から丘を目指せ!」
労せずして勝利の果実を得よう。
ほくそ笑みながら手出しを控えた。
数の上では有利なはずのメラニコスだが、インリウムの裏切りに動揺し、戦列は乱れていた。
ピュトンは、随伴している若い奴隷を気遣いながら、馬上で槍を振るった。
「マグヌスめが、余計なことをしなければインリウムは寝返らなかったに違いない」
「ピュトン! 戦列交替を!」
みるみる削られていくピュトンの部下を見かねてメラニコスが指示した。
「メラニコスよ、インリウムを押さえるのも大事じゃが、エウゲネス王の援助に回ってくれぬか。テトスがいるから大丈夫とは思うが、不吉な予感がしてたまらぬ」
「それではここの守りが……」
「丘の上の象が見えよう。エウゲネス王は有利なはずの陣地を手放した」
メラニコスは苦慮した。
戦術的に王が後方に下がったなら問題はない。
だがそうでない場合……。
「テトスも一緒ですぞ」
「儂の勘が異変を伝えている。頼む、メラニコス、王を守ってくれ」
ピュトンの中でエウゲネスは成人ではなく幼い少年王に戻っていた。許さない、いつか越えてやると自分に鋭い目を向ける存在。ならば儂の上に立ってみよ、とあえて試練を課した若い日々。
「かしこまりました。王のもとに参りましょう」
メラニコスは退却の合図を送るようラッパ手に命じた。
「エウゲネス王のもとへ!」
真っ先に騎兵が動いた。
重装歩兵がそれに続く。
インリウムの騎兵隊も後を追って走り始めた。
丘の上の象はもういなくなっていた。
メラニコスも不安に苛まれた。
「王がご無事なら良いが……」
丘の周辺、そこはすでに戦場ではなかった。
近付くに連れ、陰惨な敗北の跡があらわになった。
倒れているのはマッサリア兵ばかり、矢を浴び、盾を手放し、槍も剣も取り落として……。
「しっかりしろ。王はどこだ」
わずかに身動きしているマッサリア兵に、馬を飛び降りて声をかける。
「後方へ、象が……」
言い残すと兵はメラニコスの腕の中でこと切れた。
「ピュトン、象をかわせず、陣地を下げたことまではわかった」
しかし、その後が分からない。
「どこまで下げたのだ……テトスはどうしている?」
西に向かって、打ち捨てられた槍、盾、人や馬の死骸が散乱している。
象はさらにその先に巨体を揺らしている。
「エウゲネス王を探せ!」
しかし、インリウム軍がそれを許さない。
ひと呼吸遅れて丘の麓に到着したシデロスは、一方的なマッサリアの敗戦ぶりに我が目を疑った。
「この混乱ぶりは指揮官を失ったためか?」
シデロスは、まずエウゲネス王を、ついでテトス将軍を探させた。
どちらの姿も無かった。
マッサリア軍は、西へと逃げていく。
「王の後を追うぞ、西へ!」
移動と方向転換が続いたため、メラニコスの軍は秩序を失っていた。
それにインリウム軍が追撃をかけ、さらに後を無傷で追う帝国軍。
冬の短い日は落ちかかっていた。
空は夕焼けで、大地はマッサリア兵の血で赤く染まり、その境目の地平線めがけて敵も味方も殺到した。
海上でも、まるで打ち合わせしていたようにインリウムの船は離反した。
船団を組んだまま、逆方向に舵を切る。
「どこへ行く!」
ゲナイオスが、インリウム海軍の旗艦と思しき船に声をかけるが、一切無視して後退した。
「もとから当てにはしておらん」
嘯くも、果たして帝国軍と戦えるのかの自問に答えは出ない。
「今日の航海はここまで。停泊地を探せ」
海が荒れる冬の航海は海岸沿いに限られる。
すぐに手頃な浜を見つけ、三段櫂船はそこに乗り上げた。
提督ゲナイオスは不吉な予感に襲われていた。
「提督、どうしました?」
「いや、空が赤いなと思って……」
適当に誤魔化したが、彼の胸の内には戦象に蹂躙される味方の幻が、払っても払っても去来し、止むことがなかった。
【突発更新まつり】やってます。
さて何日続くでしょうか?
次回第144話 夜はまだ明けぬのか
明日夜8時ちょい前をお楽しみに!!




