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第九章 139.乾杯

「そうか、決戦は冬至の前後になるか」


 マグヌスは、芦毛の愛馬ににじんだ汗を拭いてやりながらヨハネスに答えた。

 以前は灰色だったが、年月を経て馬体は白に近かった。


「この戦いが終わったら、お前は引退だ」


 トントンと背を叩いてやる。


「良き軍馬でしたね。引退後は牧場に?」


 牧場というのは、これまでにマグヌスが集めた優秀な種牡馬と肌馬を集めた特別な国立牧場のことを指す。例外はロバのヒンハンで、年老いて安穏な生活をここで送っている。


「いや、軍馬にはおとなしすぎる」


 元々優れていたアルペドンの馬をさらに改良し、優秀な騎兵隊を育てる──そのマグヌスの夢はこの数年で現実に近づいた。


 幼い頃から馬に慣れた富裕層の子弟以外にも、志願者を募って馬に乗らせた。

 必要な者には、馬具屋と一緒に改良した鞍と(あぶみ)を使わせた。


「あんなものは無くても乗れる」


 昔気質(むかしかたぎ)の騎兵には嫌悪された。

.

 それでも、鐙を補助具として使いこなす新規の騎兵は徐々に力を付け、肩を並べるまでになり、そればかりか、鐙に足を踏ん張って馬上で自在に得物を取り回す姿に、志願して鐙の使い方を乞う者が徐々に増えてきている。


 アルペドンは一万五千という途方もない騎兵隊を運用できるようになっていた。

 彼らは、襲撃だけでなく、左右への転回や後退も整然と行なうことができる。

 馬上からの攻撃も十分に出来る。


「これなら戦象部隊を相手にやれる」


 マグヌスは、確信していた。

 戦象部隊の話はまだ、上の者にしかしていない。

 その名を聞いただけで恐れおののく者が多い。


「象を止めるには……」


 マグヌスは千人隊長を集め、少しずつ説明した。


「マグヌス様、よくご存知で……」

「……そんなにうまくいくだろうか?」

「まずは、象を恐れぬ訓練ですな」


 帝国の侵攻という未曾有の危機を前に、農民たちは重装歩兵として武器を取った。


「出陣は次の満月」


 マッサリアまでの行軍を頭に入れての決定だった。


「出陣の宴は任せて欲しいとマルガリタ様がおっしゃっていますが」


 急にマグヌスは気が重くなる。


 彼は胸の烙印(スティグマ)を嘲笑ったマルガリタを許せないでいた。

 さらに、夜の女神の神官を巡る一件がのしかかる。


 神官として許されない堕胎の呪術をマルガリタに用いたこと、そして気が変わったマルガリタがその呪術の戒めを破ったこと……夜の女神の怒りを恐れた神官は、恐怖で正気を失い、すべての秘密を自分から民衆の前で話してしまった。


 市民たちは、神官にあらざる行為と王女マルガリタを害そうとしたことが許せず、マグヌスに処罰を求めた。


 生き埋め──。


 女神官はむしろ嬉々として深い穴の縁に立った。


 マルガリタに非があるとして放免しても、怒り狂った市民たちに石打にされるだろう──。


 マグヌスにしてやれるのは、慈悲の一刀、すなわち、穴に落ちる前に神官が苦しまずに死ねるよう、一刀のもとに生命を絶ってやることだけだった。


 その一方でマルガリタは我が子キュロスを溺愛しながら、のうのうと生きている。その理不尽。


 心を入れ替えたというマルガリタがいかに赦しを乞うても、マグヌスは許す気になれなかった。


「どんな祝宴になることやら」

「マルガリタ様は本気でマグヌス様のお赦しを待っていらっしゃいます」


 二人の不仲をよく知っているヨハネスは、恐る恐る言った。


「マルガリタは、外壁から崩していく気だな」


 ルークにも、ゴルギアスにも、果ては踊り子のペトラにまでマグヌスとの仲の取り成しを頼んでいる。


 皆が、マルガリタがマグヌスに愛を感じている証拠と言うのだが、マグヌスは鬱陶しいとしか思わなかった。


「祝宴には出よう」

「ゴルギアス様が安心されます」

「また留守を頼まねばならないからな。頭が上がらん。それにテラサのことも」


 テラサは市街に住居を移し、街の女たちの相談に乗る事業を始めていた。


 子どものおねしょから、逆子の出産まで、幅広く気さくに対応する。

 アルペドンの女たちも最初は警戒していたが、テラサの顔の傷がマッサリア兵によってつけられたものと知って心を許した。

 それに、解放奴隷たる彼女の後ろ盾はマグヌスだ。


 彼は、女たちの役に立ちたいというテラサの希望を受けて建物の手配から事業立ち上げの資金まで援助してやった。

 資金は市中の高利貸しや神殿からも借りることができるが、テラサはマグヌスの好意を受け入れた。


「これで口吻(くちづけ)の分の借りを返していただきました」


 事業は無事軌道に乗り、テラサはとても忙しい。

 最近は医術を学びたいという少女たちに指導までしている。


 彼女は、時折マグヌスに挨拶しに来るだけになっていた。


「出陣祝いにはなんとかして参上します」

 

 身近に彼女が居ないのは寂しいが、マグヌスは彼女の自立を喜んだ。

 入浴の係も、テラサと同期の古株の侍女が引き受けて事足りた。


「全く、テラサにもゴルギアスにも頭が上がらん」


 ヨハネスはクスクスと笑った。


「自分も指揮官の役割をマグヌス様から奪ってみたいものです」

「大きく出たな。だが、それくらいが良い」




 それから五日後、祝宴は、まず、祖霊神への生贄の儀式から始まった。


 場所を屋外の祭壇から王宮の広間に移して、指揮官クラス十五人ほどの宴会が始まる。

 数々の料理が運ばれてきた。

そしてワインを薄めるための水指(みずさし)混酒器(クラテル)


 マルガリタは、自分の部屋を出て、自ら宴会の差配を行った。


「マグヌス様、こちらの黄金の混酒器をお使いください」


 マルガリタはかいがいしく、酒を薄めた。

 二人の不仲を知らぬ者には似合いの夫婦と見えるだろう。


「皆様の酒を……」


 給仕係の奴隷に耳打ちする。


 皆には、大きな銀製の混酒器からワインがグラスに注がれる。


「さあ、皆様、グラスを掲げて」


 主人であるマグヌスの影が薄くなるほど、マルガリタの勢いは良かった。


「乾杯!」




所要があって更新遅れました。申し訳ありません。


アルペドンにも戦いの影が……。


次回、第140話 暗転


どうぞお楽しみに。

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