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第九章 138.老兵は去らず

 冬の弱い日に磨いた盾をかざして見た。

 表面に貼られた青銅は、往時の輝きを取り戻し、主を満足させた。


 ピュトンは、この度の東帝国の侵攻に対し、出陣の意向を固めていた。


 すでに引退した老将である。

 動かせる兵員はわずかに五百。

 

「儂の代でこの家は絶える」


 奴隷たちは解放し、リュシマコスに預けた。

 敵対することも多い相手だったが、責任を持って身の振り方を考えてくれるだろう。


 どうしても離れるのを嫌がったのが一人いた。

 この奴隷に特に目をかけた覚えは無い──というか、本人の名前さえ知らぬ。

 孤独の中で奴隷が示してくれた愛着の情は、人としてピュトンの胸を打った。

 ピュトンは彼に亡き息子の武具一式を与え、戦場に伴うことにした。


「儂は馬で征くがお前は(かち)だ。遅れず付いてこい」


 ルテシア人の奴隷はにっこり笑ってうなずいた。


 ピュトンは武装し、奴隷を連れてメラニコスの宿所に現れた。驚く相手に、


「メラニコスよ。息子同然の愛しい将軍よ。儂を戦場に伴ってくれ」

「まさか、ピュトン……」

「儂に死処を与えてくれ」


 メラニコスは黙り込んだ。

 名誉の戦死か、平穏な老後か──。


「あのオオカミの遠吠えが聞こえないか? 先の王妃が儂の死を喜んでいる」

「聞こえません」

「無駄死にする気はない。戦い抜く覚悟は決めている」


 軍の編成に関わることだ。


「エウゲネス様に申し上げてみないと」

「部下は五百の重装歩兵。一人でも多いほうが良かろう」

「分かりました。ピュトン様とお付きの方はここの宿所でお休みを。手勢は?」

「儂の空き家を自由に使わせている」


 メラニコスは、ピュトンたちの相手を妻の一人に任せるとさっそくエウゲネス王のもとに出向いた。


「ピュトンが出ると?」

「しかも、生命を失う覚悟です。部下は五百」

「そうか……」


 王の間で一緒に作戦を立てていたテトスが不審そうな顔をしている。


「自分とともに戦って良いでしょうか?」

「そのほうがピュトンには嬉しかろう。任せる」


 すぐにテトスの方を向き、ふと思いついたように顔を上げて、


「そうだ。あの、消えぬ火の作り方を聞き出しておけ」


 多島海の海戦で、ルテシア海軍に致命的な損害を与えた火玉。

 それに使う、水では消えぬ火を放つ油の作り方はピュトンしか知らない。


「どうした、メラニコス?」

「秘中の秘が明かされれば、ピュトン殿は用済みですか?」

「メラニコス、エウゲネス様が世間でどう呼ばれているか、知らぬのか」


 メラニコスは黙り込むしかなかった。

「母殺しの王」──それを強いたのはピュトンだ。

 恨みつつ、憎みつつ、十二歳の王は成長し、ピュトンの傀儡(かいらい)の殻を破って自立した。


 その間の複雑な応酬は、本人たちしか知らない。


「──言葉が過ぎました」 


 言い残してメラニコスは去る。


(母上、あのピュトンが死ぬと言っています。今度こそ冥府でお休みを)


 エウゲネスは祈った。

 王妃の怨霊と恐れられる黄色いオオカミがもう現れないように……。

 しかし、なんの返事も返って来なかった。


 ところで、家を絶やさない努力は誰もがするものだが、一気に親族すべてを失ったピュトンはその気力さえ失っていた。

 こういった場合、残された土地や家屋は国の物になる。


「ゲランス鉱山の責任者も別の者にしなければ」


 エウゲネスは次々に現実的な問題を思い浮かべる。


「エウゲネス様、まずは私の故郷エウレクチュスで帝国軍を迎え撃ってから」


 テトスはより喫緊(きっきん)の課題に王の心を向ける。


 逆にメラニコスは、ピュトンに見出され、将軍にまで登り詰めた過去を感傷的に振り返っていた。


 彼がまだ頬にヒゲも生えぬころ、二人は鍛錬場(ギムナジウム)でであった。


「組み討ちする者はいないか」

 小柄ながら鍛え抜かれた肉体、肌脱ぎになった彼に、怖い者知らずのメラニコスは挑んだ。


 指を絡め掌を合わせて二人は組み合った。

 ぐいぐい押すメラニコスだが、ピュトンの体勢は崩れない。

 

「えいっ」


 上体を右にひねり、同時に右足でピュトンの足を払う。

 ピュトンはひねられた力に逆らわず、そのまま上体の重みをメラニコスにかけた。


「あっ」


 体勢を崩したのはメラニコスの方で、思わず鍛錬場の土の上に膝をついた。

 ピュトンが腕を絡める。

 関節を取られて腕と肩がきしむ。

 自由になっている方の手でピュトンの足をつかんだが、力が入らない。


「参った……」


 メラニコスは降参した。

 解放された腕をさすりながら悔しそうに唇を噛む。


「土で汚れたな。公衆浴場へ行こう」


 メラニコスは言葉に従い、肩を入れながら同じ敷地の中の浴場に付いて行った。


「見どころがある。今度、儂の屋敷に来い」

「ありがとうございます」

「儂はピュトン。この国の第一人者だ」

「ピュトン様……存じ上げております」


 メラニコスも、彼が先の王妃を処刑してエウゲネスを王位に就かせた次第は知っている。


「ご家族は不運で……」

「運命じゃよ」


 その日から、互いに相手が鍛錬場に居るのを見かけると、どちらからともなく、組み討ち、木剣での剣術、槍術などを挑んだ。


 風呂上がりには、戦術や用兵の心得を語りあった。


 初陣はピュトンの陣だった。

 隊列を組む際、最前列の右端……最も危険の多い部署……を任されて名誉のあまり涙がにじんだ。


 隣国の小さな挑発の鎮圧で、勝負はあっけなくマッサリアの勝利となったが、このときの感動は常にメラニコスの心にある。


 そこから、族隊長、区隊長と順調に出世し、ピュトンの推薦で若くして将軍にまで登り詰めた。


 敵国から寝返った智将テトス、名門リュシマコスの娘竜将ドラゴニアとともに、マッサリアの四ツ星と呼ばれ、黒い鎧に身を固めて黒将メラニコスと恐れられて何年経ったか。


「おお、帰ったか。エウゲネス王はなんと?」

「ともに侵略者に立ち向かいましょうぞ」


 ピュトンは嬉しそうに笑った。

 それを見てメラニコスも笑みをこぼす。


 かたや老獪、卑怯とそしられ、かたや残忍、無慈悲と憎まれる。

 この二人の間に断ち難い絆があることを人々は知らない。



老将ピュトンがついに……。


次回、第139話 乾杯


木曜夜8時ちょい前をお楽しみに!

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