第九章 137.警告
エウゲネス王は、マグヌスを渡せというインリウムの要求を拒否した。
彼も、まさかインリウムごときに本当に東帝国を動かす力があるとは信じていなかった。
実際、インリウムの力というよりは東帝国内部の要素が大きかったのだが、東帝国五万の兵は動いた。
おびただしい兵が湿原を越え、リドリス大河を渡り、ルフト侯領を飲み込んで、東帝国はマッサリア王国目指して侵攻を開始した。
海岸沿いに進む帝国軍は、略奪と、連動する海軍とで食糧や物資の補給を満たし、ゆるゆると軍を進める。
「来たか」
ルフト侯領からの知らせを受けたエウゲネス王は平然と答えた。
そして、素早く評議会と連携を取り、この度の戦争に関する全権を譲り受けた。
今回は後顧の憂い無く戦うことができる。
「動員された敵兵の数はおよそ五万、俊敏な騎兵隊と……戦象部隊を含みます。戦象部隊に戦陣の中央を突破され、我が国は降伏しました」
「数は思ったほどでもないが……象は、厄介だな……」
最強のマッサリア王国軍の一翼を担うルフト侯領側が、一度の陸戦だけで敗走してしまったのだ。援軍を送る間もなく、同盟国の東端を失ったことになる。
「戦象は確かに大敵ですが、アルペドンの優れた騎兵隊で翻弄できましょう」
テトスが落ち着いて案を出した。
とは言え、彼も戦象と戦ったことはない。
戦象部隊は往々にして最も防御の厚い部分に正面から突撃することが多い。落ち着いてそれをかわして直接の攻撃を避け、他の方向から攻撃して、全体的に有利になるようことを運べば勝利の可能性がある……そう聞いている程度だ。
「海上は?」
新たにマッサリア五将の一人となった、提督ゲナイオスのもっともな疑問。
彼のもとでマッサリア海軍は、三百隻を超える三段櫂船を有し、徴発したルテシア人の奴隷を漕ぎ手として鍛え上げ、多島海に並ぶものの無い威容を誇るまでになっていた。
アッタリア水道、オロス島周辺航路は言うまでもなく、各要所から海賊の脅威をも排除している。
東帝国と戦うのは初めてだが、恐るに足らずという自信に満ちていた。
「多数の輸送船を確認しておりますが、それ以上は……」
「海上では接触なしか」
「ルフト侯領軍に残存勢があれば、マッサリア軍と合流していただきたいところだが」
竜将ドラゴニアが柳眉をひそめ、期待はしていないと言外に匂わせる。
「かろうじて五千ほど、指揮するものもなくマッサリア方面へ逃走している様子」
エウゲネスが顎をなでた。
「ドラゴニア、ご苦労だが迎えに行ってやれないか?」
智将テトスは相談役として側に置きたい。
気性の激しいメラニコスは、気が立っている敗残兵をなだめるには向いていない。
気は強くとも細心さを兼ね備えるドラゴニアが適任だろう。
「かしこまりました」
「糧食を忘れずにな」
マッサリア王国内で略奪を働かれては、味方にできるものもできない。
「無法な東帝国軍との緒戦、私がねぎらってやります」
分かっているようだとうなずいて応える。
「頼んだぞ」
見送る間もなく、テトスが、
「東帝国は旧帝国正統を自負する強大な国。動かす人員もマッサリアとは比較になりますまい。我が国だけで対応できる相手ではありません。属国アルペドンはもちろん、他の同盟国にも動員を願いましょう」
「しかし、冬だぞ」
「非常事態です。帝国軍に踏みにじられれば麦も育ちますまい」
「分かった。連絡役を頼む」
「承知しました」
テトスの呼びかけに応え、半月のうちにすべての同盟国から参戦の返答があった。
属国であるアルペドンは言うまでもなく、小国ミタール公国、グーダート神国、インリウムまで、国力に応じて軍を出すことを了承した。
「インリウムが?」
エウゲネスもテトスも不審に思った。
僭主シデロスの息子の不審死を追求して、マグヌスの身柄を渡せとまで主張している国が、招集に応じるとは思わなかった。
「……オレイカルコスのことは私怨、東帝国はゲランス銀山を狙っているのだと」
「やっと効き目が出たか」
エウゲネスが、ニヤリと笑った。
マグヌスが発見し、ピュトンが整備した大銀山、銀の産出が安定してからずっと、エウゲネス王は東帝国を銀貨で挑発し続けていたのだ。
彼に知恵を貸したミタール公国の奴隷たち──とっくに給金を貯めて自分自身を買い取り、自由民になっていたが──は十分に役割を果たした。
「ゲランス銀山を取らせはしない」
「インリウムは宣誓状を送ってきましたな」
手渡されてエウゲネスが広げてみると、マッサリア王国を裏切るようなことはしないと祖霊神に誓う文言が上質な紙藺にきれいに書かれていた。
「重装歩兵一万、騎兵五千、三段櫂船百隻を出すと」
「うむ」
「裏切りを計算に入れても、欲しい戦力でしょう」
「確かに」
エウゲネスはしばらく考えていたが、
「よし。インリウムの援軍を受け入れよう」
「知らせによると帝国軍の進行は遅いようです。本格的な戦端が開かれるのは冬至前後になりましょう」
テトスの読みはめったに外れない。
「祖霊神にうかがいを立てよ。出陣の日時を決める」
「心得ました」
国の中心に打撃を受けるのはなるべく避け、東方で迎え撃とうとエウゲネスは考えた。
元々エウレクチュス国のあった土地、智将テトスの故郷である。
(テトスの庭のようなもの、有利に布陣できる)
「私の故国を思い出しておられますか?」
テトスが微笑みながら尋ねた。
エウゲネスも微笑み返してうなずいた。
老将ピュトンとこの国を攻めた昔の日々が蘇る。
テトスにさんざんに翻弄され、苦しめられた日々。
粘り強い攻勢に、ついに国の上層部から裏切りが出て内部分裂し、テトスが盾を叩きつけてマッサリア側に寝返って戦いは終わった。
マッサリアとエウゲネス王は初めての広大な領土と得難い人財を獲得した。
「この地で東帝国と初めて刃を交えるのもなにかの運命か」
初めて強大な国を倒したときの思い出が、エウゲネスの脳裏に蘇り、思い出は一瞬過去に飛んで、喜びに打ち震える。
蘇った全能感のままに、エウゲネスは東帝国に立ち向かう兵士たちを鼓舞した。
「戦乱も知らず、贅沢三昧の東帝国、大軍とはいえ恐るるに足らず」
マッサリア側の兵力は、冬にもかかわらず同盟国を合わせて七万に膨れ上がっていた。
加えて、王妃ルルディの実家、ミタール公国からの潤沢な資金がある。
「この戦いは、帝位に就いた暴君に対する自衛の戦い」
エウゲネスとテトスの考えは一致していた。
その主張を同盟国内で共有し、団結を図るために、マッサリアはさらに使者を飛ばした。
「勝てる」
あわよくばルフト侯領をも取り返し、完全に東帝国をリドリス大河の向こうに封じ込めてしまおう。
東帝国軍を率いる第三皇子アンドラスの切羽詰まった立場も、それ故に戦果に貪欲になっている事情も知らず……エウゲネスはそう断じた。
ついに侵攻開始。
次回、第138話 老兵は去らず
来週も木曜夜8時ちょい前をお楽しみに!




