第八章 125.凶作
カクトス自身は飢えた経験は無い。
南の大陸が実り豊かな上、彼の実家は裕福な塩商人だからだ。
彼にとって凶作とは、道端に見苦しい行き倒れが増え、「善意の寄付」を求められる、うっとうしい行事に過ぎない。
もちろん、為政者が民草を救わねばならないことは頭ではわかっている。
彼は愚かではない。
「西半分の凶作、どの程度のものなのだろう?」
カクトスは首を傾げた。
そういえば、今年の東帝国の穀倉地帯の様子を知る術も無い。
奴隷たちを使役した大規模な生産が行われていることは書で読んで知っている。
旧帝国の西半分が小規模な自作農を基本としているのと対照的だ。
広大な農地から毎年滞り無く穀物は流入し、宮殿に住まう限り飢えることは無い。
「そうだ、マグヌスと、よくどのような生産体制が効率的か議論したな」
しばらく、彼は思い出に浸った。
「カクトス! 馬は?」
子どもの甲高い声に我に帰る。
「皇子様、お食事は済まされましたか?」
「うん、美味かった」
「その食べ物がどこで採れるか、興味はございませんか?」
「宮殿の庭で採れているのだろう?」
確かに宮殿の庭の一角には養魚場や野菜畑がある。
「そればかりではございません、パンのもとは……」
「馬、早く、馬だ」
カクトスは、ため息をついた。
かつての自分以上に世間を知らない。
「皇子様、上に立つ者はいろいろと知らねばなりません」
「ああ、そうだ、兄上の皇帝が、自分に小馬をくれるとおっしゃっていた」
話にならない。
「小馬に乗って庭を走ると楽しいだろうなあ」
「皇子様!」
「それまでは、お前が馬だ」
カクトスは床に両手をついた。
紐が口に食い込み、背に遠慮ない重みがかかる。
「走れ!」
唯々諾々と従いながら、カクトスは考えた。
(このわがままな皇子に、人の上に立つ器は無い。現在の皇帝は病身で猜疑心深く、新たに人を抱えることはしないだろう。切れ者だった皇女は死んだ。仕えるなら誰が良い?)
狂人か、神官か、酔っぱらいか……。
(後継者が凶作だな)
誰かを担いで裏で実権を握る者が出るか?
その辺はまだ、新参者のカクトスには分からない。
賢帝の側に仕えるという夢は、潰えたかにみえる。
(だが、マグヌスが仕えたマッサリアだって小国だったじゃないか)
それが、銀山を入手し、抵抗しがちだった周辺諸国を武力で圧倒し、多島海も平定した。カクトスはその中で活躍を続けるマグヌスに砂糖を贈って応援を続けてきた。
(まあ、あいつは王の血族だからな)
急に紐が引かれ、カクトスは這うのを止めた。
「皇子様、どうかなさいましたか?」
宦官が駆け寄る。
「リンゴが食べたい」
「かしこまりました」
神速の速さで、炊事場から艷やかなリンゴが運ばれ、侍女がすぐに皮を剥き、一口大に切る。
「馬にも一つ」
床に座り込んでいたカクトスにも一切れ下賜される。
「ありがたき幸せ」
押しいただいて口にする。
甘味の強いリンゴは、皇帝一族御用達なのだろうか。
「あれまあ、カクトスごとき新参者をひいきなさって」
侍女が袖を引き合う。
情けないな、と思う。
たかがリンゴ一切れにこの騒ぎである。
「皇子様、休憩が終わりましたら、勉強の時間です」
「分かっている。今日も書き取りだろう」
教師はカクトスではなく、立派なヒゲを蓄えた初老の男だった。蝋板を抱えて準備している。
東帝国に伝わる神話を少しずつ皇子に書き取らせ、文字の勉強をさせている。
「今日は、神々が人間に火を与えた物語です」
皇子は差し出された水盤で手を洗い、これまたすかさず出された絹布で拭いた。
今日はおとなしく言うことをきくらしい。
机に向かい、蝋板に青銅のペンで、教師に言われたことを書く。
「神々は、動物たちに欲しいものを尋ねた。ライオンは見事なタテガミが欲しいと答えた」
「……みごとななたてがみ……」
「象は立派な牙が欲しいと答えた」
「……」
「鹿は速く走れる脚が欲しいと答えた」
皇子はいらだった。
「人間は?」
「人間は、火が欲しいと答えました」
書く手は止まっている。
教師は話し続けた。
「神々の家を明るく照らしていた火は、太陽神が分け与えたものでした。人間は、それが欲しいと言ったのです」
「それで?」
「約束通り、人間は火をもらいました。その代わり、牙も毛皮も速い脚もありません」
続きはカクトスも知っている。
人間は火を賢く用いて他の動物たちより優位に立ち、その感謝の証として、祖霊神に生贄を焼いて供えるのだ。
ただ、人間がどうやって神々の家が明るいと知ったかには議論がある。
灯りが漏れ出ていた、人間が覗き見た、神々が人間を家に招いた、などである。くだらない議論に思われるがそれが学派の違いになって対立しているから面白い。
「なんで一つずつしか貰えないの?」
「それは……」
教師は真っ赤になって口ごもった。
神話に屁理屈が通用する訳がない。
カクトスも笑いをこらえた。
「神々がそう決め給うたのです」
危ういところで教師は立ち直った。
「ふうん」
つまらなそうに、皇子はペンを投げ出した。
「皇帝陛下はいつも他人に手紙を書かせているのに、どうして文字を覚えなきゃならないの?」
また、駄々が始まった。
「いつでも私がお書きします。お命じください」
宦官の一人が名乗り出る。
「私も、です」
「私だって文字くらい書けますわ」
教師の目に悲しげな光が宿る。
周囲が甘やかして、勉強はいつも頓挫するのだ。
「教師殿、今日はこのくらいにして、茶でもいかがです?」
思い切ってカクトスが声をかけた。
「皇子様、小馬もよろしいが、決闘ごっこも楽しいですぞ」
「カクトス、どこへ行く?」
「馬も少々お休みをいただきます」
教師の肩を叩いて、
「中庭の四阿に茶を運ばせましょう」
自分より宮邸歴の長そうなこの教師からいろいろと聞き出してやろう。
カクトスの野心は、ささやかな抵抗から形を取り始めた。
馬係の屈辱からカクトスはどう成り上がっていくかご注目ください。
次回、第126話 インリウムの僭主
狡猾な人物の登場です。来週も木曜夜8時ちょい前をお楽しみに!




