第八章 123.赤い部屋
皇女は伝統的な衣装を身に着けた。
真紅に金の縫い取りのある長い絹の布を両肩に留め──留め具はもちろん黄金のブローチである──黄金色の帯でゆったりと身体に巻き付ける。
首元と耳には、多島海でも限られた場所でしか採れない真珠の宝飾具を。
宝冠には紫水晶とエメラルドで造られた花々。
最後に黄金造りの短刀を腰に。
ただし、一番下に着込んだのは、鋼片を縫い込んだ肌着である。
侍女や護衛の兵も同様に、一見無害そうに見えてしっかり防御を固めている。
「私が先頭に」
そう名乗り出た兵を先に立たせて、皇女は、およそ一年ぶりに彼女の縄張りから足を踏み出した。
護衛の兵は二十名。
「変わらぬもの……」
彼女は灯火に照らされた宮廷の廊下を見てつぶやいた。
「仮に輿入れしてみるのも悪くはない」
そこは話し合いの条件次第と彼女は考えていた。
いよいよ皇帝の領域に入る。
咎められるかと思った短剣も、いざとなれば武器になるブローチも、そのままで通され、やや拍子抜けした。
(もしかしたら、本当に宴だけなのかもしれない。それとも毒か?)
油断してはならないという気持ちと皇帝が何も罠を張っていなければ良いという気持ちがせめぎ合う。
気が遠くなるほど歩いて、廊下の突き当り、前室と言っても宴会ができるほどの広さのある部屋に案内される。
皇帝が病んでから模様替えされたらしく見覚えのない一室である。
左右の壁に窓はなく、代わりに燭台が置かれて、部屋全体をぼんやりとした明かりで照らしていた。
その奥の黒い木材と黄金で飾られた扉の向こう──そこに皇帝は居るはずだった。
皇女は遠慮なく奥へ進む。
扉が細く、それから大きく外へ向けて開いて、小さな寝台に乗せられた人物が姿を現した。
皇女も流石に深く礼をする。
これが、旧帝国の正統、現東帝国全土、人民のすべての命を握る皇帝その人である。
寝台は扉のすぐ外に据えられた。
そこを一番の上座に、ついで皇女、そして第三皇子の席、来客であるインリウム国の使者たちはまだ姿が見えないが、一番の末席になるのだろう。
「構わぬ、とおっしゃっている」
皇帝の上にかがみ込んでいた宦官が顔を上げて言った。
「第三皇子は来ないのか?」
皇帝の背の当て物を直しながら、皇帝の代弁者たる宦官が語った。
「酷く酔うておりました。みっともない」
皇女が吐き捨てるように言う。
「余に何かあればあれが皇帝となる。言葉が過ぎよう」
皇女は真っ赤になって面を伏せた。
「これは失礼を……」
赤面の半分は恥であり、半分は自分が蔑ろにされた怒りである。
ちょうど救いの神のように、末席側の扉が開き、インリウム国の使者たち十五名が入ってきた。
インリウムの紋章の入った文箱を捧げ持っている。
「海路はるばる、インリウムより参りました。国書を皇帝陛下のお目にかけてさせていただきたく」
同じ旧帝国の分裂した国家。
訛はあっても言葉は難なく通じる。
「良きところへ。今日は余の心の棘を除く日とならん」
「は?」
皇女が皇帝の言葉の真意を計りかねて問い返す間もあらばこそ、インリウムの使者たちは文箱を投げ捨て、衣服の下に隠し持っていた剣を抜いた。
「殺れ!」
皇女たちは混乱した。
インリウムの使者がこんな狼藉を働くとは考えられない。
「皇帝よ、計ったな!」
皇女が真っ先に短剣を抜いた。
絶望しながら彼女は悟った。
使者は偽物、自分たちは皇帝の罠に誘い込まれたのだと。
唯一の出口は廊下へと続く出入り口。
そこは「インリウムの使者」が塞いでいる。
「どこから妾を騙したのだ?」
短剣で相手の剣を受けながら問う。
「インリウムで船を仕立てるところからだ。港からは道々調べられても良いようにすべて細工してきた」
文箱を持っていた長らしい男が答える。
ギリギリっと刃が擦れ合う音がして、皇女は押される。
「殿下!」
男に後ろから組み付く兵。
皇女は危うくその場を逃れた。
短剣しか持たぬその兵の脇腹にめり込む敵の長剣の切っ先。
皇帝の寝台は即座に寝室に運び込まれる。
無情に閉まる扉。
「出てこい! 卑怯者!」
扉を叩きながら皇女は絶叫した。
背中から何ヶ所も刺されながらも、防具の肌着が功を奏して致命傷には至らない。
しかしながら、武器の差が決定的であり、皇女たちは徐々に力を失っていった。
本格的な長剣に、短剣やちょっとした暗器では勝負にならない。
最後まで扉を引き開けようとしていた皇女は、偽インリウムの使者に組み敷かれ、無防備な喉元に刃を受けた。
刃は抵抗を排してゆっくりと白い首筋に食い込み、皇女は血を吐いて絶命した。
扉を叩く音が弱まり、悲鳴が少しずつ聞こえなくなるのを耳にしながら、皇帝は勝利を確信した。
「余自身を餌にした大仕掛けの釣りじゃった。見事に釣れたの」
そしてぽつりと付け加える。
「本物の釣りはやったことが無いがの」
前室は後々「赤い部屋」と呼ばれるようになった。
それはこの部屋で起きた惨事そのものを指すと同時に、この部屋に現れ、皇帝はどこかと問う血塗れの女人にちなむ名でもあった。
第三皇子アンドラスは、この惨事を知ってか知らずか、相変わらずフラフラと宮中を彷徨っていた。
「ふふ、陸の釣りも一興。餌に食いつくなど御免こうむる、おっと」
四つん這いになったカクトスが幼い皇子を乗せて全力で前進してきた。
それを避け、
「あれは……」
ふらつく足元に似合わない鋭い眼光が、カクトスたちを追った。
遅れました。申し訳ございません。
次回 第124話 友からの手紙
木曜夜8時ちょい前をお楽しみに(今度は遅れないようにします)




