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第八章 121.カクトスの嘆き

 カクトスは四つん這いになり、口に紐を(くわ)えて背中の重みに耐えていた。


「走れ! カクトス!」


 かかとの蹴りが脇腹に入る。

 宮廷の磨き抜かれた廊下に惨めな自分の姿が映り、ぽたりと熱い涙がこぼれた。


 彼にまたがっているのは先帝の第八皇子、まだ子供である。

 

「カクトスめ、走らないようでしたら、鞭をお持ちしましょうか」


 宦官が甲高い声で入れ知恵をする。


「ぐうふっ」


 カクトスは這い始めた。


「皇帝の残された御子の相談役に……」


 その言葉に嘘はないとはいえ、分別も分からぬ子どもの遊び相手とは思いもよらなかった。


 カクトスは、マッサリア王国のマグヌス将軍と同じく、南国はナイロの高名な学者、メランの弟子である。


 古今の諸賢の言葉を語れと言われれば、すぐにも語ってみせよう。

 敵に負けぬ布陣をと言われれば、いくつでも布陣してみせよう。


 そんな矜持は、わずか十歳の幼子にズタズタにされた。

 そればかりではない。

 当初着任の喜びを学友マグヌスに綴った手紙が、宮廷で定められた正規の手順で出したにも関わらず戻ってきて、


「他国に人事を漏らすなどもってのほか」


 と、燃やされてしまったのだ。


 マグヌスたちマッサリア王国は多島海で戦っているらしいが、その情報も切れぎれにしか入ってこない。


 宮廷内で取りざたされるのは、もっぱら、


「どの御子がどの侍女に手を出した」

「皇帝のご気分がことのほかお悪いので、管弦は慎むように」

「お触りする宦官を退治する方法は……」


 といったもので、カクトスが、ナイロのメランの一番弟子として身につけた教養が活きることはない。


「マグヌスのやつ、一国を預かるまでになったというのに」


 自分は、皇子の馬係である。


「カクトスは遅い。他の者はいないか?」


 皇子はじれて、声を荒らげた。


「私が……」

「いえ私めを……」


 宦官たちが競って馬になりたがる。

 濃い化粧を施した侍女たちが嬌声をあげる。


 カクトスは、太い石柱の影に隠れて、汗と涙で汚れた浅黒い顔を拭った。

 天井を見上げれば、壮大なアーチは闇に隠れて目に入らない。


 彼は背は高い方、癖の強い黒髪、足首まで隠れる支給された青い絹の吏服をまとっている。

 吏服は身分を現し、お前のは高いほうだと言われたが、なんの慰めにもならない。


「これでは、故郷だからといって小国に戻るのかとマグヌスを笑った自分の立場がない」


 彼は深いため息をついた。


 今はアルペドンという広大な公領を任されているマッサリアの将軍マグヌスとともに南国ナイロに学び、頭脳を活かすために雇われたはずなのにこの有り様だ。自分を招聘したはずの賢帝は、東帝国についてみれば世を去っていた。


 東帝国では、何もかも違っていた。


 この国では人は平等ではなく全てに身分の差があり、言葉ではなく小さな仕草が深い意味を持つのだ。対面した瞬間に相手との身分の上下を計って、深く身をかがめるか、上から見下ろすか決めなければならない。


 頭を下げねば尊大な奴だと叱られ、見下さねばかえってこちらが舐められる。


(南とも西とも相容れぬ気質よ)


 南国ナイロの自由闊達(じゆうかったつ)な学問の世界で、名を揚げたカクトスには戸惑うことばかりである。


 カクトスを招聘(しょうへい)した前の賢帝は、不運なことに彼が着任する前に世を去っており、今の皇帝は病身で、迷路のような広大な宮殿の奥深くにその身を横たえているという。


 誰がどんな過程を踏んだのか分からないままに、カクトスは「第八皇子の教育係」と言う名の馬になっている。


 宮殿は、出入りも自由にならない。

 東西南北の門の脇には二十人ずつの衛兵が付き、門の脇には怪しまれた者の死骸が晒してある。


 せめて自由に宮殿から出て街に出て気晴らしできればというカクトスの願いは、その半ば腐りかけた遺体を見て潰えた。そもそも臭気が人を近づけない。


(門に入る前に回れ右するべきだった)


 東帝国は巨大である。


 リドリス大河でマッサリア王国などの旧西帝国と区切られ、南は砂漠で南方諸国と分かたれる、広大な領地。

 北部に大穀倉地帯が広がり、南国とともに穀物の大輸出国である。


 広いだけに特産品も多く、夏には北部から氷が、冬には海岸沿いから脂の乗った魚が生きたまま流通する。


 各地それぞれは皇帝に貢献した十五の藩主が治めていた。

 しかし藩主の独立の度合いは低く、主要都市は整備された道路と駅伝制で皇帝の住まう首都に結ばれ、ひとたび不穏な動きがあれば、首都から親衛隊が殺到して制圧する仕組みである。


 当然頭では国の仕組みは分かっていたが、中に入ってみると窮屈(きゅうくつ)さは想像していたのとは大違いだった。


 旧帝国の正統を自認する東帝国に仕えることができるという歓びに舞い上がって、彼は師であるメランの言葉を聞き流してしまった。


「象をご覧なさい。大きな生き物ほど相手は大変になりますよ。出来上がった組織の中に入る大変さをよく考えなさい」


 カクトスは、メランの指摘の的確さに今更ながら苦い思いに顔を歪めた。





 カクトスは元々裕福な塩商人の末っ子である。

 幼い頃から利発だったが「賢すぎるのは商売に向いていない」と、学問の道を勧められた。

 あてがわれた家庭教師が「教えることはない」と手を上げ、彼はナイロに留学することになった。恋しいはずの家を振り返りもせずにナイロへの道を歩んだというので実家では語り草になっている。


 そこでマグヌスと出会うことになるのだが、二人は対照的な生い立ちにもかかわらず、気が合った。


 マグヌスが、学問を中断して母国マッサリアに帰還することになった時、カクトスは高価な砂糖を贈ることを約束した。


「ありがとう、カクトス」


 そう言いながらマグヌスは必死でペンを走らせている。


「何を書いてるんだ?」


 時刻は夕方、別れを言うために露店で一杯やろうと誘いに来たカクトスは、鼻白んだ。


「地図です。この先、必ず必要になりますから」


 手を止めない。


「申し訳ないが、時間が無いんです」


 そう言う友の机の上には、ナイロの大図書館が所蔵している地図が山積みになっていた。

 旧帝国の失われた技術で描かれた精緻な地図。


 マグヌスが帰ろうとしているのは、旧帝国統一を目指して戦い続けている義兄(エウゲネス)の国である。

 待ち受ける戦争に地図は不可欠だろう。


「感謝しています、カクトス。これまでありがとう」

「今生の別れみたいなことを言うんじゃない。再会して、その時こそ酒を酌み交わそう」

「ええ、必ず」


 その時になって、彼はやっと振り向き、いつもの人懐こい笑顔を見せた。


 その笑顔を思い出しながら、


(マグヌスに比べて、俺は心構えができてなかった)


 と、カクトスはおのれの至らなさに肺腑(はいふ)を噛まれる気がした。



埋もれていく才能……カクトスの嘆きは経験のある方も多いかと思います。


次回、第122話 皇子と皇女と


木曜夜8時ちょい前をどうぞお楽しみに!

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