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第七章 120.インリウムの蠢動

 侍女はマルガリタに陣痛が来たと伝えた。

 しかし、夫であるマグヌスにできることはない。


 途方に暮れて、王の間を行き来していると、テラサが書類の束を抱えて、息せき切って通りがかった。

 マグヌスは思わず呼び止める。


「テラサ、こういう時、どうしたら良い?」 

「父親として振る舞われるのですか?」


 テラサは、山のような書類を抱え直し、その際にバラリと紙片が床に散らばった。


「失礼を……」

「いや、手伝おう」


 テラサはひざまずいたまま髪をかき上げた。


「街に作られた祭壇で、祈ってみられてはいかがでしょう?」


 言われるがままに部下も連れずに祭壇へ行ってみると、ちょっとした騒ぎが起きていた。


「マルガリタの子は呪われた!」


 中年の女神官が、半裸になって死んだカラスを振り回していた。

 黒い羽が飛び散る。


「神を冒涜した者の末路を知れ!」


 豊かな乳房がぶるぶる揺れ、幾筋も血が流れる。


「気が触れたか? 取り押さえよ」


 マグヌスが、祭壇の警備にあたっていた兵士に命じた。


「触るな!」


 彼女はわずかに正気を取り戻し、マグヌスの方へ歩み寄った。


「私を待っているのは深い地中の穴、マルガリタと子の運命は神の手に委ねられた」

「神官殿、お気を確かに」

「哀れな夫よ、夜の女神に呪われた子が無事産まれると思うか?」

「不吉な……正気に帰るまで、王都のはずれの砦に監禁しておけ」


 神官は、カラスをマグヌスに叩きつけた。


「お前はこの子を一生恨むことになるだろう!」


 ぽとり。 

 足元に、半ば引き裂かれたカラスの死体が落ちた。


「連れて行け!」


 顔に張り付いた、血に濡れた羽を払い落としながら、マグヌスは毅然と命じた。

 神威を恐れて腰が引けていた兵士も、やっと動き出した。カラスもつまみ上げて一緒に持っていく。


「さあ、産室を守る女神に、祭壇を浄めてもらおう」


 ざわめきが収まらない群衆にマグヌスは呼びかけた。

 人々が盾になったので、幸い火の灯された祭壇は穢されていなかった。

 避難していた安産を祈る巫女が呼び戻されて、念入りに周囲の地面を松明で叩き浄めた。


「お妃様の安産を祈ります」


 顔を(ぬぐ)っていたマグヌスに告げる。


「よろしく頼む」


 言い捨てて、マグヌスは祭壇から離れた。

 ここにも居場所はない。


 マルガリタが産気づいた噂が広まり、街中が浮足立っている。

 マグヌスは再び王宮に戻り、執務室に閉じこもった。


 大きな地図を広げ、一人思案する。


 グーダート神国との和議は成った。

 これまでの表面的な取り決めではなく、確実に両者に利益をもたらす平和の締結である。

 これで、大陸の西の果までマッサリア王国の影響力が及ぶようになった。


 ヨハネスの報告によると、ピュルテス河の三日月湖は徐々に水かさが減り、湖底の豊かな泥地が現れている。

 レステスら山賊一行は、それを見ながら配給された穀物で腹を満たし、時には氷を割って魚を獲って穏やかに過ごしている。


 マグヌスが気にしなければならないのは、インリウムの出方だ。

 アルペドンの穀倉地帯を奪いながら、マルガリタと密通したオレイカルコスの死後、興味を失ったかのように消極的な経営しかしていない。

 マルガリタの子は、乳離れを待ってインリウムに送ってやろうと考えていたが、アルペドンのこの騒ぎ、密かに事を進めるのは無理だ。


(インリウムに、全てを打ち明けるか)


 決心がつく前に、王宮に元気の良い産声が響いた。


(産まれた!)


 マグヌスは、執務室から飛び出した。


「おめでとうございます」

「神々の祝福を」


 口々に祝の言葉がかけられる。

 

 対照的に、厳しい顔で腕組みをし、王の間の壁に寄りかかっていたルークが、


「無事産まれたぞ。マルガリタも元気だ」

「それで……」

「男児だ」


 ひくりと、マグヌスの頬が動いた。


「男児……」

「育てるかどうか、決めるのはお前だ。(いにしえ)の法がそれを許している」


 ルークは、ゆっくり言い聞かせた。


「決めるのはお前だ。他の誰も代わってやれん」


 マグヌスは、まず、あの気の触れた神官の言葉にもかかわらず、無事安産だったことに感謝した。

 そして、産褥の穢れも気にせず、マルガリタの部屋に向かった。


「マルガリタ様、マグヌス様がお見えです」


 老女の言葉に促されてマグヌスは部屋に入った。

 戦場を思わせる生臭い血の臭いに満ちていた。


「マルガリタ……」

「マグヌス様、お願いです、子を抱いてください」


 弱々しい声でマルガリタがささやく。

 

 父親が子を抱くという行為は重い。

 それは、産まれた子を我が子と認め、養育していく意志を示すことになる。


 老女が、産婆から布に包まれた赤ん坊を受け取り、マグヌスに差し出した。


 赤ん坊は泣いてはいなかったが、「ふにゃあ」と声をもらした。

 黒髪の赤子には転落死したオレイカルコスの面影が宿っていた。


 マグヌスは両手を後ろに回し、抱き取るのを拒んだ。


「抱けぬ……私には抱けぬ……」

「マグヌス様……」


 マルガリタが哀願した。


「無理だ」

「王子を見捨てるのですか?」

「いや、お前たちが育てるのは構わぬ。だが、私には無理だ」


 マグヌスは後ずさった。

 老女が、赤ん坊を突きつける。秘め事を全て知っての上の行為に、マグヌスは激しい怒りを覚えた。


「お前たちで育てれば良かろう。大切なアルペドンの血筋だ!」


 彼は身を翻して、血の臭いのする部屋をあとにした。

 マルガリタの細い悲鳴がその背を追った。 



 半月ほどかけて、知らせはインリウムにももたらされた。


「マルガリタが子を産んだそうだ」

「征服者も、血の繋がりができれば安泰」


 マルガリタの姉にあたるフレイアは、感情を交えずに言った。


「私たちの子、オレイカルコスの死の謎、ときあかしてはいただけませんか? 落馬などと怪しさ極まりない」

「うむ。同時に護衛の兵士たちが消えているのもおかしい」


 インリウムの僭主──名はシデロスという──はうなずいた。


「しかし、今、マッサリアと事を構えるのはまずい」

「いつから、そんなに臆病になられました?」

「亡命してきたセレウコスから聞いた。マッサリアにはエウゲネス王を中心に知恵者がそろっている」


 フレイアは、妹のマルガリタそっくりの豊かな黒髪をほどき、振り乱して怒りをあらわにした。


「あのような臆病者!」

「待つのだ、フレイア。時の利を待て」


 フレイアの髪を手で()きながら、


「必ず報いは受けさせる」


 シデロスは有能な僭主として成り上がった。

 その言葉を、北風がさらっていった。







遅れました。

申し訳ありません。

これにて第7章完となります。

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