第七章 117.艦隊集結せず
北風は北方のボイオス国で生まれるのだと、人は言う。
山がちな土地柄で人々の気性は荒い。
普段は穏やかな風が、冬には北からの暴風となり、低く垂れ込めた鉛色の雲とともにやってきては湿った雪を降らせる。
さらに十数年に一度、忘れた頃に猛烈な冷え込みで大地を凍らせ、凍死者を出す。ちょうど、先の王妃の処刑後の冬のように。
ルークは、先にシュルジル峠を超えた時、遥かに霞むその母国の山々の連なりを目に焼き付けて来た。
とっくに捨てた故郷、「クマ殺しのルーク」として剣に物を言わせ、諸国を渡り歩く日々。
彼の母国を知るものは少ない。
「故郷か……」
シュルジル峠の山賊に居住地を提供しようというマグヌスの案は、彼には甘やかしに思えた。
「力づくで追い払ってしまえば良いだけなのに」
ピュルテス河の流れを変えて、誰のものでもない土地を作り出すのに要したのが、二年。
親友の先見の明もさることながら、諦めずに取り組む姿に、ルークは舌を巻いた。
マッサリアとアルペドンの主力が合同し、かじかんだ手に盾と槍を持ってグーダート神国へと進軍を始めた頃、マッサリア本国では恐慌が起きていた。
見たことのない五十櫂船の一群が、レーノス河の河口付近の浅瀬を占領しようと、沖合に集結しているのが見て取れたからだ。
「グーダート神国の船だ……」
「なぜ彼らに船がある?」
船尾の指揮所に掲げられた旗が強風にはためいている。
マッサリア側には、ルテシアのリマーニ港に三段櫂船が十隻あまりあるが、漕ぎ手がいない。
かつて訓練したルテシアの解放奴隷たちは使うのが危険とみなされて、未決勾留中だ。奴隷身分に落とすかどうかも正式に決まってはいない。
このような状態では、ネオ・ルテシアの船倉に納めた三段櫂船を引っ張り出す余裕はない。
対処は、留守を任されたテトスの双肩にかかっていた。
「海戦は無理だ……」
「解放奴隷どもをもう一度使ってはいかがかと私は思うが」
「背の低い五十櫂船ならともかく、冬場風に流される三段櫂船をリマーニ港からこちらへ回すことはできない。どうだ、メラニコス?」
黒づくめの鎧が不気味なメラニコスもうなずく。
「上陸させて迎え撃つ。陸戦ならこちらが優位」
テトスは、マッサリアの艦隊を動かさないと決めた。
市民たちは沖合の船影になすすべは無いのかと怯えた。
怯えたものがもう一人。
屋敷から出てこないピュトンをテトスが叱りつける。
「この国難に軍務を拒むとは卑怯者!」
将軍職を解任されてこの方、彼は一回り小さくなった。
まばらなあごひげを撫でつつ、ため息をつく。
「テトスよ。時というものは残酷じゃな。エウゲネス王を戴いて立ったあの日、儂はまだ若かった」
「今はそんな昔の話をしている場合ではない!」
「異国の艦隊が現れたか。だが多島海で戦った儂には分かる。艦隊は虚仮威し、補給基地のない五十櫂船や三段櫂船は恐れなくともよい」
そこの分析は正確なだけに、テトスは黙る。
「補給船を伴っていない確信でもあるのか?」
改めて問う。
「当然大量の丸船(貨物船)が一緒じゃろう」
「レーノス河を遡って来れば、放置できんぞ」
ピュトンは、虚ろな視線をさまよわせた。
壁にかけた戦道具に、ホコリが積もっている。
「儂は解任された。一方的に、弁明の機会さえなく。いつの間に評議会は変わってしまった?」
「繰り言を……」
寝椅子に座り込んだまま、テトスを見上げる。
「エウゲネス様を押し立てた儂が間違っておったのか?」
テトスはその横に座る。
「先の王妃のことか?」
「祟るなら、儂に祟れば良いものを。我が子、我が妻、兄弟、皆、疫病でこの世を去った」
ふと、目に光が戻って、
「マグヌスの息の根を止めなかったのは失敗だった。あれは賢い。自分が手を下さずとも、時を司る神が復讐を果たしてくれると分かっておったのじゃ」
テトスは当時、エウレクチュスというマッサリアの敵対国にいた。
政変の詳細は知らないし、興味もない。
「迫る敵から国を守る気は無いのか!」
マッサリア生え抜きの軍人に、敵国から寝返ってきた、いわば中途採用組のテトスが愛国心を語る皮肉。
「マグヌスめ、考えおったわ。敵が迫れば、民は実績のあるエウゲネス様につく……」
「マグヌスの策だから気に入らんのか?」
「気に入らんな。あれはグーダート神国に伝手がある。この戦い、どこまでが本気なのか?」
そこまで考えて動かぬ気なら、と、テトスは説得を諦めた。
「ご老人、書でも読まれよ。戦いは我らが引き受けた」
テトスは、広場に他の将軍たちとともにおもむき、怯える市民たちを励ました。
「マッサリアは元々陸軍が強い。敵が上陸してくれば、たちまちに叩き伏せてくれよう」
メラニコスが盾を掲げて、
「グーダート神国のものらしき船がなかなか上陸して来ないのがその証拠。彼らはマッサリアとの陸戦を恐れている」
市民が声を上げる。
「マッサリア海軍は動かないのか!」
「多島海の海戦を制した我らが艦隊はどこへ行った?」
テトスが落ち着いて反論する。
「挑発に乗って安易に軍を動かすのが愚かということは、戦の経験のある諸賢ならご理解いただけよう。それは船も同じ。いかがかな?」
声は北風に吹かれて市民たちの耳に届く。
「マッサリア海軍は集結しない。今は待つ時である。辛抱していただきたい」
海軍は動かないのではなく、動かせないのだが、そこはものの言いよう。
広場の人々は不承不承、その言葉を飲み込んだ。
(ゲナイオス王、エウゲネス様、そしてマグヌス……グーダート神国と上手く交渉してくれ)
人気の無くなった広場に立つ将軍たちは、西の空に祈った。
そして、残された手勢をかき集めて、レーノス河の河口付近の湿地を防衛すべく急行した。
艦隊も動かせず、成り行きを見守る留守番組。
本隊はどう動くか?
次回 第118話 シュルジル峠再び
来週も、木曜夜8時ちょい前をどうぞお楽しみに!




