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第七章 114.目覚め

 マルガリタは、夜の女神が腹の子を流してくれるのをジリジリしながら待っていた。窓から見える中庭の木々はつややかに美しいがそれも目に入らない。月が経てば流産を起こすのは難しくなる。


 ポロン、ポロンと、物憂げな竪琴の音が響く。


 腹は随分ふくらんでしまった。

 アルペドンの民は熱狂的に彼女の出産を支持し、宰相ゴルギアスが(しつら)えた安産祈願の祭壇には犠牲を捧げる者が引きも切らない。


 王宮の外から聞こえる民の歓声があまりににぎやかなので窓を閉めながら、老女は語りかける。


「お妃様、お聞きになりましたか? あれがアルペドンの血の力です」

「誰の子か言えばもっと……。」

「父母ともにアルペドンの血を引く御子ですから」

「……マグヌスがどう言うか」

「この熱狂を見て手出しをできるものですか」


 老女はあくまで強気である。


「マグヌス様もお見えにならず、ルークもいない今、いっそうのびのびとお過ごし……」

「アッ」


 マルガリタは腹を押さえた。


「動いた!」


 胎動である。

 今まで気づかなかったのかも知れないが、今度ばかりははっきりと、ポコンと腹を内側から打たれる感触があった。


「この子は……」

「お妃様、御子は生きようとしています」


 マルガリタは試しに腹を叩いてみた。


──ポコン。


 返事のように蹴り返す。


(一人の生きている子がいる)


 マルガリタは不思議な感触に囚われた。

 無力で、存在さえ曖昧なままで、流してしまおうとさえしたのに、自分を頼って育つ者がいる。


「この子は私の子……」


 「子に罪はない」と言ったマグヌスは王宮に帰ってきたが、自分に会おうとはしない。

 腹の子をどうするか、相談もできないまま半月が過ぎた。


 だが、彼は、自分の代わりに舞踏団をよこした。無視しているわけではない。


 舞踏団は、ときににぎやかに歌い踊り、ときに──今のように──静かに黙って竪琴を弾く。


「良い楽しみができた」


 マグヌスの出方を想像すれば薄氷を踏む思いながら、マルガリタは、この配慮に感謝した。


 黒髪に翠の目をしたペトラという乙女は、よく、マグヌスの知略を歌にして弾き語りしていた。彼女の歌に歌われるマグヌスは、優しく、賢く、剣の腕も立って、実に魅力的な男だった。


 重い身体を寝椅子に横たえながら、マルガリタは尋ねた。


「お前、マグヌスとはそんな人なのか?」

「お妃様がご存知ないとはおかしな話ですね。そうですよ」

「あの胸の烙印、お前は知っているのか?」


 ペトラは不思議そうな顔をした。

 今日は、異国風の髪飾りを着け、晩秋に差し掛かろうという肌寒い風に揺れる。


「噂で知らぬ者はおりませんからね。歌にしましょうか」


 彼女は膝の上の竪琴を抱え直して、小さな声で歌い始めた。


 (マグヌス)が十二歳の成人の祝に事件が起きたこと……。

 政敵(ピュトン)の手によって、そっくりな義兄(エウゲネス)と区別をつけるために胸に屈辱的な死刑囚の烙印を押されたこと……。

 処刑前に、義兄王と予言者の手によって救い出され、南の国に逃れたこと……。

 南の国で、学問と武術を身に着けたが、義兄王に乞われて本国へ戻り、帝国再統一のために戦っていること……。


 歌を聞きながら、マルガリタは眠りに落ちたようだ。


 夢に現れるのは初夜の場面。


「あなた……」

「明かりを消して欲しい」

「ええ」


 暗闇の中で彼女を抱擁するたくましい腕。

 そのまま彼女はがっしりした胸に頬を寄せた。

 見えなければ分からない。

 なんと皮相的なところで人は人を判断しているのだろう。


 手探りで唇を探し、触れ合う。

 そして……。


 肝心なところで、浅い夢は終わった。


 遠くで憎らしいルークの声がする。

 グーダート神国から帰ってきたようだ。


「いつも邪魔をする……」


 マルガリタは寝椅子から身を起こした。

 また胎動を感じる。

 彼女は腹を撫でた。 


「マグヌスの子だったら良かったのに……」


 ペトラたちの歌を聞き続けているうちに、少しずつマグヌスへの感情が変わっていったのは自分でも不思議だ。

 今は、以前のような嫌悪を感じない。


(ペトラは優しい人だと言った……謝ればこの子のことも私のことも許してくれるのではないかしら……)


 夢の余韻でそこまでぼんやり考えてから、ハタと恐ろしいことに思い当たった。


(この子を流すようにしてしまった!)


 マルガリタは慌てて老女を呼んだ。


「あの神官を呼んできておくれ。今すぐ」

「かしこまりました」


 程なく、夜の女神の神殿からあの女神官が連れて来られる。


「いくらお妃様にしても、すぐ来いとは無礼であろう」

「そこは許しておくれ。そして先日の、月蝕の夜の願いを、どうか無かった事にしておくれ」


 言葉もなく立ち尽くす神官の膝に(すが)らんばかりにして、マルガリタは哀願した。


「この子は生きている。動いている。私に訴えている、生きたいと!」


 神官は突き放すように言った。


「取り返しはききませぬ。神はあなたの願いを聞き給うた」

「では……」


 マルガリタは、寝椅子の布団の下から、禍々しい模様の描かれた革を引っ張り出した。


「これはもう要らぬ。持ち帰って……」

「神よ! なんということを! 人目に晒してはなりません」


 マルガリタの勢いは止まらなかった。


「これを、家の守りの炉の火に()べておくれ。腹の子の生命を守るため!」


 止めようとした神官を突き飛ばして忠実な老女は走る。


「愚か者!」


 神官は倒れたまま、叫んだ。


「神々を蔑ろにする愚か者ども。この報いをきっと受けるであろう。人に過ぎぬお前たちが思いもよらなぬときに、思いもよらぬ形で!」


 神官は立ち上がって居住まいを正した。

 その凍るような黒い目に、マルガリタは震えた。


「我が子を守るため……何の理不尽があろう」


 射るような視線を避けようと両手で顔を覆ってつぶやいた。


「もう遅い」


 神官はそれだけ言うと、もはや一瞥(いちべつ)もせずに王宮を後にした。


「酷い臭いだな、何だ?」


 表の方が騒がしくなってきた。

 ルークの声だ。


「革でも焼けているのか? どこだ?」


 と、マグヌス。


 二人がそろってマルガリタの部屋に近付いてくる。


(返事をしてもらえるかどうか……)


 恐れはある。

 彼女は勇気を振り絞った。そして、


「お帰りなさいませ」


 あの初夜のあと、初めて素直な気持ちになってマグヌスに声をかけた。




マルガリタの心境の変化にマグヌスは気付いていません。それがどんなドラマにつながるか。


次回 第115話 嵐の前に


毎週木曜夜8時ちょい前をお楽しみに!

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