第七章 110.民会招集
見事な地紋を織り出した紺の上着を秋風になびかせながら、評議会議長セレウコスは議事堂前の階段に立ち尽くした。
「周辺諸国は恭順の意を示している。多島海の海賊どもも大人しくなった。これからは、平和の時代である」
王として立つ時に演説しようとしている言葉が、自然に口に出る。
ひれ伏す聴衆。
思い描いて、彼は微笑んだ。
波打つ黒髪を丁寧に編み込んで花冠を乗せ、これが王の冠でないのが唯一の不満といった表情である。
「セレウコス様、輿の用意ができました」
無数に抱えられている彼の家の奴隷たちのなかから、屈強な男たちが声をかけた。
セレウコスは、アルペドンとの戦いの後に、エウゲネスが行った粛清──親ルテシア派の追放──が忘れられなかった。
(軍隊の力を背景に議会に圧力をかけるのは間違っている)
そう信念が芽生えた。
粛清後に新たに評議会議員となったものもセレウコスに同調し、以前から力を持っていたピュトンには反対の立場を取るようになる。
彼の家は陶器を扱い、裕福であった。
今回、ピュトンが考案した火玉に用いた一万個の陶器も、彼の家が一手に扱って富を増やした。
(それはそれ。これはこれ)
豊かな富を背景に、彼は評議会に圧力をかけ、自身の支持を取り付け、議長にまで成り上がった。
彼にしてみれば幸いなことに、老将ピュトンはルテシア人の漕ぎ手の対処に失敗し、そして最終戦を前にして思わぬ苦境に陥った。
新たな勢力と自身の失策とで、議会への影響力を失ったピュトン。
「武断派にばかり任せているからこうなる」
セレウコスは声を大にして言い放った。
「広場へ運んでおくれ」
剣を握ったこともない柔らかい手で、奴隷たちに銅貨を渡す。主人がご機嫌なのは奴隷にとっては何よりの幸い。足取りも軽く広場へ向かう。
広場は、市がたち、市民らが集う交流の場。
ここで一つ、演説を打とうとセレウコスは考えていた。
だから、彼より先に群衆を集め、熱心に何事か語っている人物を見てたちまち不機嫌になった。
「降ろせ」
別人のように甲高い声で怒鳴る。
「そら言っただろう。ゆるゆるとお見えだ。こんなことでは、櫂も握れまい」
どっと群衆が笑った。
セレウコスは、事態が飲み込めず、ただ自分が虚仮にされたことだけはさとって真っ赤になり、
「なぜ、私を笑い者にする!」
と訴えた。
「馬にも乗れまい。見ろ、あのでっぷりした腿を!」
嘲笑は続いた。
「何者だ! この私を、評議会議長セレウコスと知っての狼藉か!」
「もちろん。エウゲネスを追い落として、王になるつもりのセレウコス殿」
「……」
セレウコスは、怒りのあまり、声が出ない。
「何者かと訊かれたな。我が名はゲナイオス。遠く祖霊神の神官長の血筋にて、諸王の一族」
「……諸王の一族だと。まさか……」
ゲナイオスは、引き締まった肉体を見せびらかすように外套を脱ぎ捨てた。
「一つお相手願おう。王の座をかけて!」
「……暴力に訴えると言うのか? マッサリアは文明の国ではないのか?」
ゲナイオスがまた笑った。
「文明だと。南国の、ナイロのメラン殿に聞いてみるがいい。相手にしてもらえればだがな」
「その、大切な南国の植民市を捨てた卑怯者!」
じわりと、真顔になったゲナイオスがセレウコスの方に近寄り、彼は思わず、二、三歩下った。
「お前たちに何がわかる。俺たちが太陽に灼かれ、波に命を預けていた間、木陰で涼んでいたお前たちに!」
「我々には槍を振るうしか脳のない今の指導者にはない叡智がある!」
「王位につく資格の一つである血統を欠いているとも判断できない叡智か?」
「諸王の一族」であるゲナイオスの痛烈な皮肉。
セレウコスの奴隷たちはとっくに逃げ出してしまっていた。
彼は、広場に来るのが一歩遅かったことを悔やんだが、本質はそこではない。
「多島海同盟の盟主ソフィアを仕留めたのは他でもない、エウゲネス殿だ。彼とともに多島海で戦った者たちが平和をもたらしたのだ。果実のみを喰らおうとする盗人に、誰が王の冠を渡そうか?」
セレウコスは、かろうじて踏みとどまった。
「軍隊の思い通りにする平和など、真の平和ではない! 皆も思い出してくれ。先の王妃の時代を。軍隊の力によらず、交易で保たれた平和を!」
「我が義母上の時代とは、また、昔のことを」
マグヌスがゲナイオスと共にいた。
「私も戦いたくはない。だが、自分の仲間に危害が加えられようとするとき、黙って見ておられようか?」
挑発的なゲナイオスと違って、穏やかな口ぶりである。
「戦友のために戦った者たちを悪し様に言えるのも平和のおかげか?」
セレウコスはうなだれた。
「平和とは何か。メラン様なら一言で言ってくださるでしょうが、不肖の弟子には難しすぎます」
うつむいたままのセレウコスの手をとる。
「さあ、一度、屋敷へお帰りください」
群衆から野次が飛んだ。
「歩いて帰れ! いつも輿の上から見下ろしやがって!!」
ゲナイオスが外套を羽織り直しながら、見送った。
そして、マグヌスの方を向いて
「戦いたくない、とは、お前らしいな」
「自分の手を汚さないところが、でしょう」
自嘲的な言葉が返ってきた。
植民市では、自分たちは退却し、原住民と海賊を戦わせた。
策としては上々だが、彼自身、自分のそんなところを嫌っているのが、ありありとわかった。
ゲナイオスは、マグヌスの頭を小突いた。
「何を言う。智将テトスが舌を巻くこの頭の持ち主が」
エウゲネスの次の王にと立った者はこの二人。
議長セレウコスと植民市から引き揚げてきたゲナイオス。
広場での一件が尾を引き、評議会での演説も、セレウコスは終始精彩を欠いた。
候補者を締め出した状態で、どちらを王に選ぶかが、一日がかりで議論され、結論は夜になった。
翌日開かれた評議会にはゲナイオスが呼ばれた。
「儀式は後日行うが、ただ今からそなたを王に任命する。これは評議会の総意である」
ゲナイオスはにこやかに議員たちの座る席を見渡した。
「帰国したばかりのこの身には光栄極まりないこと。喜んで受けさせていただきます」
彼は、エウゲネスが投げ捨てた王冠を仮の議長からうやうやしく受け取った。
「今から王ということでよろしいか?」
「間違いなく」
ゲナイオスは改めて議場を見回すと、戦場で鍛えた大音声を張り上げた。
「王の権限、そして、マッサリアの市民権を持つものとして、まず、民会の招集を要求する!」
いよいよ民会開催。ほとんど言い伝えになっている全市民による最高意思決定機関が動き出します。
次回 第111話 旧劇場
民会の議場が整備され、そしてある企みが動き出します。




