第七章 109.新王の候補者
夫が失脚したという悲しい知らせを、ルルディ妃は北の館で聞いた。
心待ちにしているエウゲネスは一晩明けてまだ帰ってこず、彼女は自分の戦場で奮闘していた。
第一王子テオドロスは目が離せぬ年頃、第二王子は産まれたばかり。彼女は昨夜寝ていない。
「テオドロス、ばあやを打ってはなりません」
いつもは卑屈な笑顔を浮かべている「ばあや」は、今日は様子が違っていた。
自分を叩いたテオドロスから鞭をひったくると、ピシャリと幼児の背をそれで打ったのである。
「ばあや……」
「私は滅んだとはいえアルペドンの王妃。先の王妃となったあなたの子に黙って打たれる筋合いはありません」
ルルディは絶句した。
こんなところに早くも影響が出ている。
彼女は泣きわめく我が子を引き寄せ、元王妃をにらんだ。
「自由の身になったとでも履き違えているの? 奴隷部屋に行きなさい。あなたの新しい主人が決まるまで」
元王妃はルルディをせせら笑い、背筋を伸ばして退出した。
(いざとなったらお父様のところへ帰ればいいわ。心配いらない)
しかし、昨夜の月蝕、先行きを占わせてみるかどうか、彼女は迷っていた。
そこへ、
「王妃様、ご無事で良かった」
ドラゴニアが、着物に剣だけを着けてやってきた。
「聞きましたわ。夫が追放されると」
「それだけではありません。将軍たち全員、職を解かれました」
「ええっ」
「ルテシアの解放奴隷の反乱の責任を全員が負わされたのです」
ドラゴニアは、黙礼すると水指の水を器に汲み、一気にあおった。
「評議会が態度を変えました。ピュトンの力が及びません」
「マグヌスは?」
「マグヌスのアルペドン代官職は取り上げられていません。必要とあらば、アルペドンまでいったん引きましょう。今彼はテトスとともに善後策を練っているところ──王もご一緒です」
アルペドンまで。
マグヌスの元まで。
それだけでドクドクと心臓が踊った。
「ドラゴニア、少し子どもたちを見ていてくれる?」
「は、私で良ければ構いませんが」
「お願い」
頬の火照りを抑えるために、一人になりたかった。
彼女は、北の館の塔に登った。
窓の外には、高い青空を背景に、秋も盛りの紅葉が見える。
あれはスモモだろうか、アーモンドだろうか?
上気した頬を秋風がなでる。
心が浮き立つのを、ルルディは自分で叱った。
「エウゲネス様の妻なのにね」
麦畑の細い道、たった一人で五人の護衛を倒して自分を救い出してくれたマグヌスの勇姿。
「ボロボロの将軍」
思い出すだけで勇気が湧いてくる。
「もう、大丈夫。ドラゴニアに子どもの世話は無理だわ」
予想通り大汗をかいているドラゴニアを解放してやり、ぐずるテオドロスをなだめていると、やっと王が帰ってきた。
酒はすっかり覚めたが、頭を押さえている。
「二日酔いですか、冷たい水でもいかがでしょう?」
「ルルディ、お前が気落ちしていないか心配だったが、無用だったようだな」
「私はあなたを救おうと夜道をロバで駆けた女ですわよ」
「そうだったな。救われたのは実は自分を演じていたマグヌスだったが」
髪型さえ変えれば二人はそっくり。
「あなたを信じておりますわ」
「うむ。俺はもう少しテトスの館に世話になるが、お前はどうする? 私を王位から追い落としたとはいえ、セレウコス議長も産褥の女性を追い立てることはしないだろう」
ちら、と失望の色が見えたのにエウゲネスは気付いたかどうか?
「奥方が許してくださるなら、私もテトス様の元へ」
「メリッサは歓迎すると言っていた。当分はあそこが我々の司令塔だ」
「二人目の王子に名をつける暇もなく……」
「すまぬ、すまぬ。多島海の海賊どもはなかなか手ごわくてな。頭が痛い。休ませてくれ」
通常の手続きなら、こんなにのんびりしていることはできない。
すぐに兵士たちがやってきて、追放の宣言を受けたものを槍先で追う。
エウゲネスは元王である。兵士たちは、評議会に命じられたものの、王宮を取り巻くだけで、手出しはしてこなかった。
「あなた、きっと大丈夫ですわ」
まだ名のない赤ん坊を抱えたルルディは、そっと夫の短く刈られた黒髪をなでた。
二日酔いのエウゲネスが立ち去った後、申し合わせたわけでもないのに元将軍たちはテトスの館に集まり、善後策を協議していた。
テトスはピュトンを責めたてた。
「解放奴隷の反乱を招いた上に、評議会の説得にまで失敗するとは」
「詫びるしかない。評議会の顔ぶれがすっかり変わっていて、言うことを聞いてくれない。幸い、評議会は自分たちで新たな王を立てるまでまとまってはいないようだ」
「幸いというなら、連中はマグヌスの代官職を解くところまで頭が回っていない。それとも、臣下として虐げられた異母弟ならエウゲネスに反感を持っていて当然と読み違えているか」
「刺激しないように慎重に行動します」
と、マグヌス。
「それより、次の王です。ドラゴニアの父君リュシマコス殿によれば、議長セレウコス自身が王になるつもりだと」
セレウコスは陶器の生産で財を成した有力者だが、これまで王をだしてきた、いわゆる「諸王の一族」の一員ではない。
親ルテシア王国の議員たちが処分された先の粛清のあと、新たに評議会議員となった議員たちに影響力を広め、議長となったが、それに飽き足らず王位まで狙おうとしている。
皆があきれ顔になって溜息をついた。
「評議会は小物ばかり。万一エウゲネス様が蜂起を呼びかければ、逆らえるものはいない」
「メラニコス、待ってください、あくまで合法的に事を進めましょう。エウゲネス様を僭主になさるおつもりですか?」
僭主とは、正当な手続きを踏まずに実力で支配権を得た者のことを指す。例えばインリウム国のシデロスは、市民たちの支持を得て議会を解散させ、権力を握っている。
寝椅子の上でちびちびと酒をなめていたテトスが身を起こした。
「よし、対抗馬を立てよう。我々ではまずい。あの男に頼もう」
マグヌスが破顔した。
「彼しかいません」
「俺?」
ひそかに呼ばれたゲナイオスが当惑していた。
確かに彼の家系は王を出してきた、いわゆる諸王の一族である。
植民市の指導者として責任を担ってきたのには、そういう背景もある。
「是非立って王位を得てください。そして……」
「……まさか民会か」
「そうです。市民たちの大多数は王とともに戦ったことがあります。貴族きどりの評議会の言うことは聞かないでしょう」
「民会の決議なら、エウゲネス殿を王位に戻せる。追放も解ける。ただ、どうやったら確実に民会をエウゲネス側につけることができるか?」
「私に考えがあります」
マグヌスは、彼には珍しく険しい顔で言い切った。
エウゲネスに続く王の座を巡って、きな臭くなってきました。
次回、第110話 民会招集
木曜夜8時ちょい前をどうぞお楽しみに!




