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第七章 108.月蝕の夜に

 エウゲネスは王の座を追われた。

 自分たちが命がけで戦っているとき「木陰で涼んでいた連中」に、勝利が確定したとたんに追われたのだ。


「留守が長かったとはいえ、ピュトンの信用がここまで落ちていたとは」


 彼に議会工作を任せっぱなしにしておいた間に、評議会の世代交代が進んでいた。

 先の王妃を処刑してピュトンがエウゲネスを王として立てたことを知るものも減った。

 ドラゴニアの父リュシマコスは、ピュトンとエウゲネスを支持していたが、新興勢力に押され気味だった。


「ルテシアに(くみ)した評議員に懲罰を与えたのが、今頃になって反発を招いているかも知れませんな」


 エウゲネスを一時的に屋敷に招き入れ、身柄を保護しているテトスの弁。

 一番良い寝椅子と食卓を提供し、エウゲネスの怒りを鎮めようと心を尽くす。

 また、彼の妻メリッサは、かいがいしくワインの用意をする。


「薄めなくて良いぞ」


 エウゲネスは酔うつもりらしい。

 もっともだ、と、テトスはメリッサに目配せした。


「王妃様に連絡を。王は今日はお戻りにならぬと」


──ガシャン!


 器の割れる音が響いた。


「今は王ではない!」

「これは失言を」


 途中でメラニコスが、芸女(ヘタイラ)を連れて合流する。


 薄めない強い酒に酔い潰れたため、エウゲネスは気付かなかったが、その夜、月蝕が起きた。


 満月は、登り始めて間もなく欠けていく。

 見上げる位置に来るまでには全てが欠けてしまい、赤銅色の月が大地を見下ろす。


 月の女神の神殿も祖霊神の神殿も、抱える暦者が予想できなかったことなので、混乱は大きかった。


 ほとんどの者が、赤い月の光を恐れて室内に閉じこもる。

 そして、心のなかで何が神々の怒りをかったのか、指折り数えてみる。


 言うまでもなく、ここ最近で一番大きな事件は、エウゲネス王の追放である。




「これで、評議会の勢いが止まってくれれば良いのだが」


 仮住まいの幕屋の隙間から、暗い月を見つつ、マグヌスはつぶやいた。


「マグヌス様、不吉なことはお止めください」


 マグヌスの身を守るため、というより、自分が不安に耐えきれずにマグヌスのもとに駆けつけたヨハネスが、情けない声を出す。


「月蝕は満月の晩に起きると決まっているよ。本当に神々が自然の(ことわり)を曲げたと言うなら、半月が欠けるさ」

「そんな、恐れ多いことを」

「実際、ナイロではほとんど予想通りに月蝕も日蝕も起きていた。マッサリアの暦の精度が足りないんだ」


 大胆な言葉にヨハネスは震え上がった。

 神々のわざに人が口を挟むなど、彼にしてみればもってのほかである。


「夜の神を冒涜することはお止めください」

「違う。人の(わざ)が足りていないと言っただけだよ」


 頂天に届く頃に、月はいつも通りに戻っていた。


「大丈夫だ、ヨハネス。もう休みなさい」

「いえ、異常が無いか、点呼してきます」

「ありがとう」


 ヨハネスが垂れ幕をばたつかせて去っていくのと入れ替わりに、テラサが入ってきた。


「お話、女たちにもしておきました。心配いらないと」

「お前は、怖がっていないようだな?」


 少しからかうような声に、


「予測が外れる例は父から聞いて知っております。これまでにもあったことですし」

「そうか。評議会が今度はどこに矛先を向けるかよりも、天の動きのほうが読みやすいのかも知れないな」

「戯れが過ぎます」


 二人は寄り添って明るい月を眺めていた。



 ゲランスの銀鉱山では歩哨以外に赤い月を見るものもなく、皆、泥のように疲れて眠っていた。


 ルテシアに残った戦争捕虜たちは、海に逃れた同胞の運命を嘆き、マッサリア王国への復讐を誓っていた。


 西の果て、インリウムでは僣主の妻フレイアが若くして死んだ息子オレイカルコスのために泣き、その死の報いを然るべき者に受けさせようと念じた。


 逆に東の果て、東帝国では独自の暦に予知された通りの月蝕に祈りを捧げていた。


 アルペドンの王宮でも、マルガリタが同じ月蝕を見ていた。


 少しずつ東の空の月が欠ける。


「月が!」


 あわてて窓を閉める。 


 マルガリタは恐れおののいたが、その足元で、女神官は平然と床に広げた革に血で模様を描き続けていた。


「だから今夜と申し上げたでしょう」


 描き終わる頃には満月は光を失い、鈍く紅い円となって宙に浮いていた。


「さあ、お妃様、ここからは引き返せませぬぞえ」


 低く抑えられた声に、返事は喉に引っかかったように出ない。


 皮の周囲に置かれた三つの手燭が、禍々しい女神の姿と周囲にぎっしり書き込まれた呪文を照らし出していた。


「魔力を司る夜の女神よ、汝の真の名を知るものとして命ずる。ここに降り立ち給え。」


 女神の姿からゆらゆらと陽炎(かげろう)のようなものが立ち上る。


「汝、この女、アレイオの娘、マルガリタの願いを聞き届け、腹の子を無き者に戻し給え。急げ、急げ、早く、早く」


 入り口が開いているわけでもないのに、一陣の風が吹き、手燭の明かりが一度に消えた。


「神は聞き届け給うた。願いは叶うであろう」

「ありがとう」

「明日、夜の女神に黒いヤギを捧げなさい」

「分かりました」


 まだ月は暗いままである。

 女神官は革を丸めると立ち上がった。

 建物の中はかすかな星明りを除いて、ほぼ暗闇と言ってよい。


「これを他人に見せぬよう大切に持っていなさい」


 乾いた革を手に押し付けられる。

 意外に重い。


「誰か、灯りを」

「はい、すぐに参ります」


 新たに火を起こさねばならなかったため、時間がかかったようだ。

 この術は、家を守る(かまど)の火まで消してしまわねば効力が無い。


 ズシリと重い革袋を手に、分厚いベールで顔を隠した女神官は、マルガリタお抱えの侍女の捧げる松明の明かりに導かれて建物の外に出た。


 そのわずかな間に月は輝きを取り戻し始めた。

 女神官を待っていたお付きの奴隷が立ち上がる。


「神官様、ありがとうございました」

「マルガリタ様は、なぜ子を流したいのだ? 皆が待ち望んでいるのに」


 侍女は、もう一袋付け加えた。

 中で硬貨の触れ合う音がする。

 合わせて二袋、結構な荷物を奴隷に持たせる。


「どうぞ、ご内密に」

「言うまでもない。禁じられた術を行えば、生きたまま地中深く埋められる」

「差し出がましいことを申しました。お許しください」

「よい。祈りの刻限までに、神殿に帰らねばならぬ」


 刻々と月は明るくなる。

 人の密かに犯した罪を暴くように。

 

 短い影を踏んで神殿に戻る二人の姿を、侍女は頭を下げて見送っていた。



思わぬ天変地異。同じ月に人々は異なった思いをはせる……。マルガリタの子の運命はいかに?


次回、第109話 新王の候補者


木曜夜8時ちょい前をどうぞお楽しみに!

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