第六章 105.ネレイデスの大洲
秋風が立つようになると海は荒れ始める。
なんとか体制を立て直したマッサリア海軍は、決戦を急ぎ、陸上での版図に合わせて南下していった。
他方、北上を続けるルテシア海軍は、ネレイデスの大洲を回ったところでマッサリア海軍と出くわした。
小島をマグヌスたちに占拠された不利の中、操船に絶対の自信を持つソフィアたちは、ネレイデスの大洲を背にマッサリア海軍に挑んだ。
ほぼ満潮、大洲近くの暗礁の迷路に誘い込めば、有利に運ぶと読んだのである。
船の数はいずれも三十隻あまり。
半年がかりの勢力の削り合いの結果がこれである。
あわよくば風の力を利用しようと、いずれも帆を巻き上げた姿であった。
あの火攻めは無いと判断したソフィアの旗艦が先頭を切って、マッサリア海軍の船列に突入する。
「櫂を引き上げろ! 折られるぞ」
マッサリアの船内に、船長の声が響いた。
鞭の音がバシリとそれを追う。
絶望の中でルテシアの漕ぎ手たちは命令に従った。
本当に奴隷身分に落とされるのだろうか。
解放奴隷であれば、庇護者の許可を得て大幅に自由が許されるが、奴隷として一生この暗い船倉に閉じ込められるのだろうか。
「働きぶりによっては解放してやろう」
甘い言葉ももはや信じられない。
味方だと思っていたマグヌスが裏切って罠をかけた。
ソフィアの船は、引き上げがわずかに遅れたメラニコスの三段櫂船の櫂をススキでも折るかのようになぎ倒しながらすれ違った。
「このままでは、我々がやられる」
強気のエウゲネスも技量の差に冷たい汗をかいた。
「そうだ、あれを逃すな! 必ず仕留めろ!」
彼は標的を切り換えた。
純白の麻鎧に白衣をなびかせた指揮官に指をさす。
ソフィアも真紅のマント姿に、これは、と船を回す。
ほとばしる殺意を乗せて、互いに衝角攻撃を仕掛ける機会を狙い、左回りに同じ一つの大きな円を描いて航行する。
「あの船の横腹を狙え!」
卑怯の汚名をあえて着て、旗艦どうしの一騎打ちを妨害しようとするドラゴニアの命令一下、彼女の乗る三段櫂船はソフィアの旗艦の右舷に突進した。
それを察知したソフィアの旗艦は、櫂の向きを急反転させて船の勢いを殺した。
「しまった!」
ドラゴニアの三段櫂船はソフィアの船首の衝角をかすめる形で衝突し、突進の勢いのままぐるりと左へ傾く。そして勢いは止まらず、旗艦の衝角に横腹をえぐられながらなおも左前に前進した。
本来の攻撃とは違う角度で敵船に打ち込まれることになった衝角は異様な抵抗を受け、船全体が震えた。
「ソフィア様! 衝角が敵船の肋材に引っかかりました」
「後退を」
「できません!」
三段櫂船の肋材は丈夫な樫で組まれている。びくともしない。
ソフィアの旗艦を引っかけたまま、横腹から流入する海水の勢いで沈みゆくドラゴニアの三段櫂船。ついに双方の船がメリメリと分解する兆しの音を立て始めた。
「任せろ」
勇敢なルテシアの兵士が一人、斧を持って船首に走り、相手の船に飛び乗って露出した肋材に、力いっぱいそれを打ち込んだ。
肋材は弾け飛び、船の骨格が分解する。
自由になった勢いで跳ね上がるソフィアの船の船首。
それを見届ける間もなく、兵士は槍を持ったドラゴニアの部下に突き殺された。
縛めから逃れた旗艦は、次に、エウゲネス王の乗るマッサリア側の旗艦に追われた。
「船首の裂け目から浸水しております!」
「後退を!」
「後退するな! 暗礁がある! 瀝青を塗り込めてふさげ!」
衝撃が船を襲う。
暗礁に触れたのだ。
「砂地に、なんとか砂地に船をつけろ!」
「帆を下ろして風を受けます」
「漕ぎ手も全力を出せ!」
ゆらり、と旗艦は風の力で暗礁から離れた。
船底に大穴が空いた状態では距離も稼げず、しかし奇跡的にネレイデスの大洲の砂地に、沈みながら突っ込んだ。
「ソフィア様、避難を!」
甲板の隙間から、銀色の髪をなびかせた白衣の女性が改めて姿を現す。
兵士に手を引かれ、斜めになった甲板に登ろうとする。
「あれだ!」
エウゲネス王は叫ぶ。
「暗礁に乗り上げてもよい、近付けて船を安定させろ」
ガッと船全体に激しい衝撃があって、甲板から乗員が転げ落ちる。
王は帆柱を支える麻綱につかまって踏みとどまった。
「弓を!」
王の愛用する強い弓と矢が、すかさず手渡される。
彼我の間はおよそ八十歩あまり。
かしいだ甲板を踏みしめ、キリキリと引き絞って、狙いは彼方の船の白い人影。
ビョウッと空気を切り裂く音がして、矢は見事にソフィアの胸を射抜き、背後の帆柱に突き刺さった。
手を引いていた兵が頭を抱えるのが見える。
必死に矢を引き抜こうと無駄な努力をする者も。
王は彼らにも矢をみまった。
矢を受けて、海の中へと真っ逆さまに転落していく。
「首領の遺骸を持ち帰った者には褒美を出す」
数名が鎧を脱いで海に飛び込んだが、たどり着く前に、帆が風にあおられて旗艦はひっくり返った。
「無理か」
王の船も座礁し、沈没は時間の問題。
「エウゲネス様、こちらへ!」
テトスの船が、巧妙に暗礁を避けて接近した。
渡り板がぎりぎりで届かない。
エウゲネスは海に飛び込み、テトスたちが垂らした麻縄まで泳いだ。
麻縄は輪にして海に垂らしてあり、そこに足をかけて引き上げてもらうことができた。
「もう少し近寄れないか?」
王は残りの船員たちを気遣う。
「波で船が安定しません。これ以上近づくと逆にぶつかります」
沈む前に抜け出し、泳ぎついた者だけが助かった。
そこかしこで、激しい衝突が起きていた。
「ソフィア様の船が沈んだ!」
「ルテシア再興の希望の光が……」
真っ先に盟主ソフィアを討ち取られたルテシア海軍は、もはや戦意が維持できない。
時が移るに連れ、暗礁は海面に残忍な姿を現し、大洲もうっすらと視認できるようになる。
大洲に退路を断たれ、沈鬱な空気の中、残るルテシアの三段櫂船は、次々とマッサリア海軍の衝角の餌食となった。
難所を避けて小島を回ろうとする船は、マグヌス率いる陸上部隊から激しい攻撃を受けた。
優位に立ったマッサリア海軍は、逃げるルテシアの船を容赦なく追い、ほど近い丸船に残っていた女子どもを奴隷として確保した。
秋というには冷たい北風が吹くこの日、海面は激しく波立ち、破損した三段櫂船を容赦なく岩場に叩きつける。
ルテシアの旗印を掲げた船は、海上から姿を消した。
勝者であるはずのマッサリア海軍も難所を潜り抜けた生き残りはわずか十隻という有様。
砕けた松材の破片、溺れた乗組員の遺体などが、風と海流に流されるままに、ネレイデスの大洲を越え、彼方の島に流れ着く。
さながら、落ち葉が波に弄ばれるがごとく。
かくして、ルテシアの遺民たち対マッサリア軍の多島海を巡る戦いは結末を迎えたのであった。
──灰ならず、墓石の重みも知らず、彼の人の眠るは波の彼方にて、行方を知るはただカモメのみ──。
遅れてしまいました。
申し訳ございません。
第6章 多島海の死闘
これで「完」となります。




