序章 1.囚われた娘
どっしりした大理石で作られたアーチがそびえる大門を離れてはるか。
青年は優美に湾曲した剣の柄に手をかけ、じっと麦畑に潜んでいた。
緊張の汗が硬い表情の額ににじむも拭おうとはしない。
一歩向こうは、アルペドン王国に続く舗装された道だ。
この地では麦は人の背丈ほどに育つ。
爽やかな風が吹き抜けると、刈り入れ前の麦は柔らかくたわんだ。
日に焼けた黒髪が青年の頬にかかる。
彼は頭の後ろで髪を束ね直した。
「……来た」
蹄の音が近付いてくる。
一頭、いや、二頭だ。
危険をおかして、伸び上がってみた。
麦の海から見えるのは、隊長と思しき馬に乗った革鎧の兵士一人と、着物を着た金髪の町娘姿との二人分の上半身。
それから槍の穂先がいくつか、キラキラと陽光を反射している。
「歩兵と合わせて、四人、いや五人か」
確認するとすぐに麦畑に身をかがめる。
蹄の音と人の足音が近づいてくる。
最も接近したと判断した時点で、青年は、一気に道に飛び出した。
洗いざらして灰色になった上衣が翻る。
見通しの悪い森とオリーブ林を抜けたことで緊張が緩み、弛緩していた兵士たちが驚愕の表情を浮かべる。
瞬間、抜く手もみせず鞘走った青年の剣は、馬上の隊長の腿を切り裂いた。
驚いた馬が棹立ちになり、隊長は振り落とされた。
「て、敵襲……」
隊長が声にならない声をあげる。
あわてて槍を構える革鎧を着た四人の兵士たち。
青年は先頭の兵士の槍を跳ね上げ、一気に間合いを詰めて革鎧の胸を鋭く突いた。
「グウフッ……」
衝撃で兵士は崩れ落ちる。
「……まさか、こんなところで……」
残り三人のうち一人が震える声でつぶやいた。
いくらでも隠れるところのある森や林を抜け、見晴らしの良いはずの麦畑から奇襲をかけた……その時点で優劣は決まっていた。
さらに一人、なす術もなく下から上へと斬り上げられ、地に伏した。
「来るなぁ!」
めちゃくちゃに槍を振り回した兵士が後ずさり、娘の乗った馬の横腹にぶつかった。
馬はひと跳ねしてもと来た道を走り始めた。
娘が悲鳴を上げて馬の首にしがみつく。
「ああっ! 娘を逃がすな」
兵士が追いかけようとするが、青年の剣技の凄まじさに圧倒されて足が動かない。
その様子を一瞥し、もはや抵抗する気は無いと見極めると、青年は娘の後を追った。
娘はオリーブ林にある、赤い実のなったキイチゴの藪に投げ出されていた。
起き上がろうともがいている。
青年はそのそばに膝をついて、
「お怪我はありませんか?」
と、丁寧に尋ねた。
娘は首を振って青い目で見返した。
「失礼ながら、ミタール公国はメイ城のルルディ姫でいらっしゃいますよね。マッサリア王の許婚の」
娘は目をそらしたが、青年はそれを肯定ととらえた。
「大丈夫。私はあなたを助けに来ました」
「あなたは……」
娘──ルルディは震える唇でやっと言葉を発した。おびえるのも無理はない。
「そうですね、マグヌスと呼んでください。乱暴な手段を取ったことをお詫びいたします」
マグヌスと名乗る青年は、ルルディのおびえを吹き飛ばすように快活に笑った。
「姫、こちらへどうぞ」
丁寧に手を差し出す。剣を握っているときとはまるで別人だ。
ルルディは手を引かれるままに歩き出す。
「あのままでは、あなたは、反乱を起こしたアルペドン王国のアレイオ王のところへ連れていかれてしまう。マッサリアに対する人質です。それを避けたかったのです」
話し始めるとマグヌスは饒舌だった。
「メイの城が叛徒の手に落ちてしまったのには驚きました。あなたのご両親、メイの城主と奥方もアレイオの部下に囚われているそうです。ただ、ご無事だとのことですから、ひとまず安心してください」
オリーブ林の向こうは深い森になっていた。
「……こんな中、あなたがここまで一人で逃げ延びられたのは神々のお導き」
「いいえ、伴はいたのですが……」
マグヌスは森の中をすいすいと歩いていく。
「どこへ?」
「いいから付いて来てください」
マグヌスはいたずらっぽく笑った。
相当な距離を歩いて、二人は崩れかけた神殿の前に出た。
「隠しておいたのですよ」
石組みの裏から、ロバ一頭と振り分け荷物が現れた。旅の支度は万全というわけだ。
マグヌスは得意げにロバを紹介した。
ロバは、背に奇妙な革製の、脚のない椅子に似たものを背負っている。
「名前はヒンハンと言います」
応えるようにロバは「ヒー、ハー」と鳴いた。
「森の中を行けば、追っ手には分かりません。安心してください」
「今度は、どこへ行くのです?」
マグヌスは怪訝な顔をした。
意外に表情豊かである。
「ミタール公国近くにマッサリア軍が来ています。保護を求めましょう」
ルルディは町娘の姿の粗末な着物についた枯れ葉を払い、しばらく黙った後で、ぽつりと言う。
「それより、ミタール公国外れにあるチタリス城の叔父を頼ろうと思います。そちらに送ってくれませんか……」
「チタリス城ですか? マッサリア勢ではなく?」
青年……マグヌスは小首をかしげた。
木漏れ日がまだら模様に彼の粗末な衣服を照らす。
「あなたはマッサリア王の許嫁ではありませんか。大国マッサリアが協力を惜しむとは思えませんが」
「チタリスでいいのです!」
それもそうかとマグヌスは思い直した。
『母殺し』と悪名高いマッサリア王よりも、親戚の方が気は楽だろう。
「分かりました。大丈夫です」
ホッとルルディがため息をつく。
「かなり歩いたことですし、今日はここで夜をあかしましょう」
マグヌスは古い枯れ葉を藪の下からかき出して集め始めた。そして、それを毛皮でまとめたものの上にルルディを座らせる。ふかふかの特等席だ。
彼女を休ませておいて、マグヌスは振り分け荷物の中から、次々と旅の必需品を取り出した。
上掛けの厚手のマント、固く焼きしめたパン、小鍋に器。
そして地図。
「森の中の古道を行きます」
「あなたに分かるの?」
「これは旧帝国時代の地図の写しです。当時は空から見下ろすように地図が描けたとか。詳細に分かります」
よく見ると、二人が歩いてきた森の道の所々に敷石の名残が見られた。
マグヌスは地図に描かれた古道の跡をたどったのだろう。
かつては賑わった街道も、今は森に呑まれ、知る人はいない。
神殿のもとの正面付近に、古い人工の泉があった。そこからは今もこんこんと清水があふれている。
マグヌスは泉から小鍋に水を汲み、慣れた手つきで火をおこした。
いつの間にか太陽は傾き、初夏の日は暮れようとしていた。
焚火が明るく揺れる。
「夕食はパンだけですが」
マグヌスの手の中にキラリと光る物があった。
黄金の鞘と柄を持つ短剣……。
みすぼらしいマグヌスの身なりにはそぐわない。
彼は無造作に、気品あふれる短剣でパンを切り分けようとした。高価な短剣で旅行用のパンを切ろうとすることに驚いて、ルルディは思わず声を挙げた。
「これですか?」
気に留めずパンを切り分けたマグヌスは、一切れのパンとともに短剣をルルディに渡した。
「きれい……」
柄には小さな鷲を形作る、親指の先ほどのルビーが嵌め込まれ、その意味を知るルルディは息を呑んだ。
「……この紋章は!」
マグヌスがにこりと笑った。
「そう、マッサリア王家の紋章、そして私の身の証。信じていただけましたか?」
彼は茫然としているルルディに、いい香りのする金属製のカップを渡した。
「お茶です。お口に合えばよいのですが」
「……マッサリアから、たった一人で?」
「あなたは私にとってそれだけの価値がある方なのです」
マグヌスは、自分のカップのお茶に固いパンを浸して食べた。
ルルディも真似をする。
「このパン、甘いわ!」
「南の国にいる私の知り合いが貴重な砂糖を送ってくれるのですよ」
目を丸くするルルディをマグヌスは微笑んで見守った。
「休んでください」
簡素な食事が終わると、マグヌスは枯れ葉を包んだ毛皮の上に横になるように勧めた。
上掛けを掛けてやる。
「あなたはどうするの?」
地面に座り、神殿の石壁に背をあずけて、マグヌスは答える。
「私はこのまま寝ます」
「でも……」
「このあたりはオオカミが出ますので念の為に。もし来ればヒンハンが知らせてくれます。明日はこのロバに乗ってもらいますが、よく休んでおいてください」
アルペドン王国の手から解放してもらい、夕食もご馳走になり、獣からも守ってくれる……そんな彼の献身を信じる以上に、単純に疲労感からとろとろと眠りに落ちるルルディを、マグヌスは見守り続けていた。




