272 【SIDEサヴィス】10年前 3
その時、母の私室で、オレは指一本動かせない状態に陥っていた。
完全に薬が効いていて、意識が昏倒しそうなところを、必死で耐えているだけの状況だ。
シリルも同様のようで、隣からは荒い呼吸音だけが聞こえてきた。
そんなオレたちを満足そうに見つめると、母は椅子から立ち上がった。
「サヴィス、私は筆頭聖女なの。誰よりも聖女として優れているから、人々から崇拝されるために完璧な姿を保たなければならないわ。それなのに、忌々しいこの右目のせいで、私の姿は完璧と言えやしない。だから、ずっと右目を隠していたの」
カツリと音を立てて、母が一歩近づく。
「シリル、あなたの母親は私の妹で、力の強い聖女だったわ。もしかしたら私より力が強かったかもしれない。だからね、あの子が生きているうちは何もできなかったの。私がしようとしていることが分かったら、邪魔をされることが分かっていたから」
そう言うと、母はサザランドがある方向を向いて、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「妹が生きている間は、私が何をしたとしても、聖女の治癒力で全て台無しにされてしまうかもしれないという恐れがあったわ。だから、私は待ったの。十分待ったから、これ以上は一日だって待てないわ」
オレはつい先日、シリルの母親が亡くなったという訃報を受け取ったことを思い出した。
それから、その訃報を受けてから初めて母と顔を合わせるということを。
「ぐっ」
腹の奥から不快な感情がせり上がってくる。
同時に、オレは生まれて初めて母を気持ち悪く感じた。
目の前にいるのは普段通りの母なのに、これまで気付かなかった相手を蔑むような光が目の奥に灯っていることに気が付いたからだ。
ああ、目の前にいる女性は本当に母なのか?
これが、慈愛に満ちた筆頭聖女の姿なのか?
己が望む聖女像に近付くため、ただそれだけのために、実の息子を傷付けようとしている、この姿が。
全身を覆う痺れと、気持ちの悪い吐き気に耐えながら、無言で母を見上げていると、カツリと音が響き、さらに一歩近付かれる。
「妹は亡くなったわ。そして、サヴィス、あなたは私のもとに帰ってきた。私はずっとこの瞬間を待ち望んでいたの」
母は両手を伸ばしてきて、オレの顔を包み込んだ。
「ああ、本当に何て綺麗な金の瞳かしら。サヴィス、私はあなたに何度も言ったわよね。あなたを一目見た瞬間、私が待ち望んでいた子はあなたなのだと分かったわ、と。あの言葉は嘘じゃないわ。あなたの金の目は特別なのよ」
母の表情はいつも通り穏やかで、その顔は美しく、そのことがさらに気持ちの悪さに拍車をかけた。
しかし、オレは意識して目を見開くと、何一つ見逃すまいと母を見つめる。
オレはこれから起こる全てのことを、この目で見届けなければならない。
生まれてこのかたずっと、存在しないものを見続けてきたのだという事実を受け入れるため、目を逸らさずに真実を見つめなければいけないのだ。
「サヴィス、あなたは私が産んだのよ。だから、あなたが持っている全てのものは私のものだわ。さあ、大聖女と同じ金の瞳を返してちょうだい」
そう言うと、母は胸元からきらりと光る短剣を取り出した。
王家に代々伝わる加護を受けた短剣だ。
「体が痺れているでしょう? 安心してちょうだい。あなたが痛みを感じることはないはずよ」
そう言うと、母はオレの目の前で短剣を握り直した……
◇◇◇
全てが終わった後、母は微笑みながらオレを見た。
母の右目は金色に変わっていた。
つい先ほどまで、オレの右目に入っていた金色の瞳に。
「できるだけ腕のいい聖女を呼んであげるわ。私は自分の右目の治癒に専念しないといけないから、今日ばかりはあなたの治癒をすることができないの。ごめんなさいね」
母はすまなそうにそう言った。
片目で見ることに慣れていないのか、オレの左目に映る母は、本気で申し訳なく感じているように見えた。
「恐らく、私の妹が生きていれば、聖女の力でサヴィスの右目を治したでしょうね。もしかしたらこの私の右目と全く同じ金の瞳を再生させたかもしれない。けれど、同じものが2つあってはいけないの。私の金の瞳の神聖さが半減してしまうから。だから、あの子が生きている間、私は動けなかったの」
母の言葉の端々から、大聖女と同じ姿を保つことへの執念を見たような気持ちになって戦慄する。
ああ、オレはこれまで母の何を見てきたのだろう。
これが、オレが必死になって守ろうとしていた聖女の姿だったのだ。
体はまだ痺れており、指一本すら動かすのは難しい状態だったが、痺れた口を動かして何とか一言だけ言葉を紡ぎ出す。
「あなたは……絶対に、今日の行為を後悔します」
言い終わった瞬間、これほどのことをされたのに、まだオレは母に希望を抱いているのかと愕然とする。
ああ、オレは母に後悔してほしいのだ。
母の行動の一部始終を目の当たりにし、聖女は醜悪なのだと何度も己に言い聞かせたにもかかわらず、オレはまだ母の裏切りを受け入れることができずにいた。
母との17年間の記憶がオレを混乱させ、母には親としてオレを思う愛情があるはずだと、朦朧とした頭で考える。
ただ聖女としての気概が、オレへの愛情を上回っているだけなのだと、母のための言い訳を探すオレの前で、母は考えるかのように首を傾げた。
「私が完全な聖女になったことを後悔すると、あなたは言うの? ふふふ、一体どんな状況であれば、あなたの言うことが起こり得るのかしら。……そうね、あなたの言葉は質問として預かっておくわ。そして、筆頭聖女の地位を降りる時に、答えを返しましょう」
母の表情からとっくに答えは出ており、絶対に今日の行為を後悔しない、と確信していることが見て取れた。
そのことを理解し、胸の中に鉛を詰め込まれたような気持ちになる。
ああ、オレは未だ母の行為を受け入れることができず、裏切られるための正当な理由をみっともなく探しているのに、母は既に終わったことだと切り捨てている。
その事実がどうにも我慢ならず、オレは意志の力で顔を上げると、残った隻眼で母を睨みつけた。
「あなたが聖女として何人の人間を救おうとも、オレはそれを上回る者を救います! そして、そんなオレの目をえぐったことを、必ず後悔させてみせる!!」
母はおかしな話を聞いたとばかりに、声を出して笑った。
「ほほほ、それは無理よ! だって、この国で最も尊いのは聖女だもの。あなたがどれほどの功績を残したとしても、筆頭聖女の功績を上回ることはできないわ」
その言葉はいつまでもオレの中に残り、消えることはなかった。








