13.嫌がらせ、そこまでやるのは犯罪です
香澄は、反省の真っ只中にいた。
せっかく普段から忙しくしているアッシュのためにと『癒し系ツアー』を敢行したにも関わらず、自分が寝てしまっては意味がない。
プログラムが終わるまでぐっすり熟睡してしまった彼女は、目が覚めて悲鳴を上げんばかりに驚いた。
隣に座っていたはずのアッシュが、彼女の頭に顎を置いて凭れるように眠っていたからだ。
元々がそういうカップル向けのコンセプトだからか、あからさまにいちゃついているカップルもいたのは知っている、だが明るくなってもまだ起きないアッシュにさすがの彼女も困り果て、申し訳ないと思いながらもパシパシと背中を叩いて彼を起こした。
自分も寝ていたのに悪いなとは思ったのだが、とにかく恥ずかしくて居たたまれなかったのだ。
「いや、カスミがあまりに気持ち良さそうに寝ていたから……同じように目を閉じてみたら、そのまま寝入ってしまった。あの椅子はずるいな、柔らかいしほのかに温かいし気持ちよすぎだ。もしベンチだったらまだ起きていられたかもしれないが」
「……とにかく、寝てしまってすみませんでした」
「私も寝たからこれでお相子にしよう」
これで、と言いながらアッシュは香澄のケーキからイチゴをひょいと取り上げ、そのまま口に運ぶ。
イチゴのなくなったイチゴショートはただの生クリームケーキと化し、香澄はそれを丁寧に切り分けながら「ずるいです」とぽつりと口にした。
「ずるい?」
「シュナイダーさんがイケメンすぎてずるいです。思いっきりもてなすつもりが、ただのデートになってしまってるみたいで……ちょっと悔しいです」
「だから言っただろう、私は君をデートに誘っているんだと」
「でも今日は、私がおもてなしをする約束でした。……できませんでしたけど」
リラクゼーションサロンにプラネタリウム、隠れ家カフェでのランチを挟んで今度は一般の企業が経営するこじんまりとしたアクアリウムに立ち寄り、公園で少し休んでから最後はレストランでリゾットのコース。
今はそのレストランのデザートに出されたケーキを堪能中だ。
癒し系と銘打たれたデートのコース自体は恐らく完璧だった。
完璧でなかったのは香澄の体調だけだ。
「仕事が、忙しい?」
「それもあります、けど」
「けど?」
「……精神的に、ちょっとキてまして。いつ何をどうされるのかもわからないのに、『気をつけろ』って一言に踊らされてるような気がするんです。もしかしたらあの忠告自体罠だったのかなって、最近そんな風に思えてきてしまって」
わざわざ忠告に来てくれた山崎を疑うことなどしたくはないが、彼が自暴自棄になっていた可能性は否定できない。
リーダー格だった西園寺が脱落、参謀的役割だった笹野も脱落、薔子は情緒不安定、滑川は何かを企んでいそう、そんな状況で香澄にああして忠告しに来てくれたのは本当に善意からだったのか。
香澄を疑心暗鬼に陥らせることで、憂さを晴らそうとしたとは考えられないか。
そんなとりとめもないことを考えていたら、眠れなくなってしまった。
寝たら、悪い夢を見る。
もう顔も、声すらも曖昧になってきている滑川にひたすら追いかけられ、最後には捕まって殺されるという悪夢を。
(本当はそれだけじゃない。でもそんなことは絶対に言えないから。だから)
だから、と彼女は口に出して言う。
「もう、過剰な警戒はやめようと思うんです。リリーナやシュナイダーさんが気を遣ってお休みの日に誘ってくださってることは知ってます、帰りも無理のない程度に時間を空けてくれてるのも。でもこれまでも何もありませんでしたし、ずっと続けるわけにもいかないでしょう?」
「……もう必要ない、と?」
「はい。これまでありがとうございました。今後もちゃんと警戒はしますから、心配しなくでください」
警戒していても、一人でいるところを狙われればあっという間に取り押さえられてしまう。
それはわかっているが、いくら滑川が香澄を恨んで狙っているといってもまさか法に触れるようなことは公にはしないだろう、という自信もある。
彼らは総じてプライドが高すぎるのだ、だからこそ挫折を知ればすぐにその心は折れてしまう。
そんな紙装甲のプライドを身に纏った男が、彼女に直接何かを仕掛けてくるとは思えない。
やるならば自分の安全が確認できる位置から、誰かをけしかけて高みの見物を決め込む、くらいでないと。
結局店を出ても、アッシュは彼女の提案に是とも否とも答えなかった。
彼がそれに対して口を開いたのは、香澄の自宅マンション前の駐車場に車を止めた時。
彼ははぁっと大きくため息をつき、小さくだがはっきりと「わかった」と口にした。
「他ならぬ君がそう望むなら、この警戒態勢は解こう。だが忘れないで欲しい、私も妹も恐らくヒビキも君の伯父上だって、自主的にそうしていたことを。君を守りたくて、ただそれだけだったことを。だから君が気に病む必要なんてないんだ。いいね?」
「シュナイダーさんは本当にずるいです」
「うん。ずるい言い方をしている自覚はある。……ずるいついでにもうひとつ。今後もこうして君を誘うことを許して欲しい。警戒しなくなったからはいさようなら、では何とも寂しいからな」
「……え、と……」
その誘いは、社交辞令だろうか?
それともケヴィンの父親としてのものだろうか?
今回の失態のリベンジをと言われれば彼女は喜んで頷くのだが、どうにもそういう雰囲気でないことはわかる。
今度は香澄が黙り込み、アッシュがその返事を待つという形で沈黙が訪れた。
だがどうにも待ちきれなかったのか、彼はダッシュボードにしまいこんであった細長い箱を「失礼」と断ってから手を伸ばして取り出し、そのまま彼女に差し出した。
「欧州ではバレンタインになると互いにプレゼントを贈りあう。これは私が、君のために、君を想って選んだものだ。どうか受け取って欲しい」
「私の、ために……」
そのいかにもアクセサリーですと主張するサイズの箱を見つめながら、香澄は以前山崎から貰った自分に不似合いなゴールドのネックレスのことを思い出していた。
ゴールドにルビー、それはいかにも薔子に似合いそうなデザインのものだった。
それを見た瞬間、山崎の心が自分から離れていることも気づかされ、虚しさを感じたのを彼女は今でも鮮明に覚えている。
アッシュはそういった経緯を知っていたからこそ、香澄のために選んだのだと強調したのだろう。
(どうしよう……高価すぎて受け取れないフラグが立った気がする……)
アッシュは御曹司ではないにせよシュナイダーの一員であり、アジア担当責任者でもある。
それは所謂セレブというもので、そんな彼が選んだものとなると当然安物であるはずがない。
とはいえ、受け取れませんと返せば彼はきっと傷つく。
結局、こうも綺麗にラッピングされているということは、名のある宝石店で買い求めたものだという予測が立てられるわけで、だとするならもし『受け取ってもらえなかったから返品を』と申し入れれば、アッシュの顔に泥を塗ることになることも想像がつく。
それなら、受け取るしかもう選択肢は残されていなかった。
こわごわそれを受け取ると、開けて欲しいと期待のこもった眼差しを向けられる。
まるで子供のような、わくわくしているその視線から逃れることなどできるはずもなく、香澄は震えそうになる手でそっと丁寧にラッピングをはがしていった。
ぱかり、と開けたジュエリーケースに入っていたのは、恐らくプラチナ製だろう銀色の三日月を模った、品のいいネックレス。
その月の先端あたりに、丸く小さな青色の石がはめ込まれている。
「これ、ラピスラズリ……ですか?」
「あぁ。香澄の誕生石だろう?店員にはダイヤが付いたものなんかを勧められたんだが、普段使いするならそれほど値がはらない方がいいと思ってね。あまり高価だと、君が気後れしてつけてくれない気もしたし」
「あぁ、えっと、そうですね……」
その通りですと認めると、アッシュは得意げな顔で「だろう?」と笑ってみせる。
彼は香澄の性格もちゃんとわかった上で、本当に彼女のためにとこのネックレスを選んでくれたようだ。
そう自覚すると、嬉しくも恥ずかしくなる。
「…………つけて見せてくれないか?」
「え?」
「次に逢う時まで、似合うかどうかわからないのは正直辛い。贈った側としては、できればすぐにつけてもらいたいのだが……ダメ、か?」
「え、えぇっと、ダメではないですが」
「そうか、良かった」
ならつけてあげるから動かないで、と香澄が驚いてあたふたしている間に彼はネックレスをつまみ上げ、留め金を外して両手で香澄の首元へとあてがう。
今香澄の目の前にはアッシュの首元。
両腕で囲い込むようにして留め金をとめようと四苦八苦しているイケメンの、時折漏れるあえぎ声のような息遣いが酷く心臓に悪い。
「留まった!」
「それはよかっ、……!!」
感極まったのか、ぎゅうっとそのまま抱きしめられて息が出来なくなる。
つけているのを見るどころか、これでは香澄もそのチェーンの感触を味わうどころの話ではない。
「ちょ、シュ、シュナイダー、さん、っ!」
「あぁカスミ、カスミ……」
「いえあの、ですから、ちょっと、離し」
「カスミ、君が好きだ」
「ですからわかりましたから離れ……え?」
(え、今なんて…………?)
抵抗するどころではなくなった香澄から、アッシュはあっさりと腕を離す。
そして至近距離から真っ直ぐに瞳を覗き込み、もう一度。
「君が好きだ、カスミ。兄のように、家族のように、友人のように、恋人のように……伴侶のように、君を愛してる」
その後、ドイツ式のバレンタインの意味を教えられた香澄は、茹蛸のように赤面した。
『ドイツでは、この日は夫婦や恋人限定で贈り物をするんだ。勿論、その意味をこめてこれを選んできた。だから……気に入ってくれたなら、ずっとつけていてくれないか』
ずっと身につけているということは、彼の気持ちを受け入れるのと同義だ。
香澄の気持ちは既に彼に傾いているが、それでも素直にそうですかと受け入れるにはどうしても最後の一歩が踏み出せずにいる。
だから、卑怯だとわかっていて彼女はこう返した。
『私、何もお返しできるものなんてありません。だから、ドイツ式じゃないのはわかってますけど、ホワイトデーまで待っていただけませんか?』
その日にはちゃんとお返事しますから、そう告げた香澄の言葉にアッシュはいいよと頷いた。
(シュナイダーさんを待たせるなんてナニサマ、とかそういうのはわかってるんだけど……)
けどねぇ、と香澄は呆れたようにロッカーの惨状にため息をついた。
彼女が今いるのは、業務推進室のメンバーと秘書室の合同で使っている女子更衣室。
これまでもたびたび嫌がらせのように警告メッセージがロッカーに入れられていたり、それを警戒して鍵をかけてみれば今度は扉の隙間から絵の具のようなものを注入されていたりということはあったが、まさか鍵をこじ開けてロッカーの中を荒らすようなおバカさんがいるとまでは思っていなかった。
リリーナとお揃いで買い揃えたブーツはお茶っ葉や吸殻などでぐちゃぐちゃ、お気に入りのコートはリキッドファンデーションや口紅が塗ったくられてべとべと、シャツは切り刻まれ、セーターも破られている。
幸い、この日はたまたま途中で合流した業務推進室の同僚が一緒で、彼女もこの惨状を見て「ナニコレ!?」と悲鳴をあげていた。
ここまでエスカレートするとは予想していなかった香澄は、温い目で空笑いするしかできない。
「いやー……予想以上の珍百景ですね……どうしましょう?」
「って香澄ちゃん、妙に悟り開いてるけど……これ、初めてのことじゃないのね?」
「まぁ、そうですね。主に、シュナイダー社のお二人に近づくなとかいい気になるなとか、そういった類のご忠告を受けたことなら何度か」
「はぁ……今までよく隠してこれたもんだわ」
業務推進室にいるメンバーは、良くも悪くも率直かつ実直、喧嘩を売るなら堂々とがモットーの性格を持った者が多い。
そういう度胸がなければ社長をバックにつけたまま一般社員に混じって働くことなどできず、またどこへ行っても即戦力を求められるためただ大人しいだけではやっていけないのだ。
香澄も大人しそうに思われがちだが、それはただ単に面倒ごとを引き起こさないように一歩下がって『負けて勝つ』を体現しているだけである。
しかしここまでされては、さすがに彼女も黙っているつもりはない。
もし彼女が引き下がっても、この友人想いの面倒見のいい同僚が上司である社長に上告し、こういったこそこそとした不正を嫌う社長が社内の一斉捜査に乗り切るだろうことは、恐らく間違いないわけで。
なにより、香澄のモットーは『やられたら、やられた分だけやり返す』である。
彼女の私服一式プラス会社の備品であるロッカーを破損してくれた、そして彼女の心にダメージを負わせてくれた責任はきっちり取ってもらわなければ収まりが付かない。
「で?ぼんやりしてるように見えて実はしっかり者の香澄ちゃん、犯人の見当はついてるんでしょうね?」
「買いかぶりすぎですよ。とはいえそうですね、目星は付いてますし多分証拠も……あぁ、あったあった」
「そのどっかで見たことあるような形状……もしかして」
「はい。前職で活躍してくれたペン型ICレコーダーです」
盗られてなくてよかったです、と彼女はその軸をくるりと回して決定的な音声が入っているのを確認すると、大事そうに鞄にしまいこもうとして…………ハッと何かに気づいたように鞄を手で漁り、目的のものがないと気づくと泣き出しそうな顔で項垂れた。
(ネックレスが……ない。なくさないように御守り袋の中に入れておいたのに!)
ご丁寧にロッカーの中を、そして鞄の中まで漁っていったその犯人が、ただの御守り袋を持っていくとは思えない。
ということは、朝着替える時にはずして鞄に入れるのを見ていたか、もしくは出勤時につけているのを見たか、とにかくその存在を知っていてわざと盗んだということだろう。
「等倍返しだなんて生温い気がしてきた……よろしい、ならば倍返しだ」
「か、香澄ちゃん?」
「土下座して泣きを入れるまで絶対に許さないんだから」
ネックレスを盗られたという物理的被害よりも何よりも、贈ってくれたアッシュの気持ちを踏み躙られたような気がして、香澄は久々にふつふつと沸き起こる怒りに身を委ねた。




