一.カガヤ
花川春樹が堺麻子と談笑していると、数少ない春樹の友達、加賀屋蓮が現れる。彼は自らの抱えた問題を解決するため、春樹を頼りにやってきたのだ。
加賀屋蓮は、かなり運が悪い。
浅黒い肌。しっかりした体格。どこからどう見てもバリバリの体育会系。腕っ節が良くて、がらの悪い人たちとも平気で渡り合える。華奢な体躯の僕としては羨望の眼差しで見ざるを得ない。
だけどまあ、どれだけ腕に自信があろうと、神の定めた運命に逆らうことはできないのである。有り体に言うと、運が極端に悪いのだ。
その厄運を羅列していくときりがない。
見に覚えのない罪を着せられたり、陸上部員として大事な時期に骨折したり、松葉杖を突いている状態で凶悪犯と鉢合わせしたり、挙げ句の果てには気になる娘に逃げられる。彼の先祖が禁断の果実でもつまみ食いしたのだろうか。
友人の僕としては彼の行く先が心配である。つまらぬことで人生の道を誤らなければいいのだけど。将来、通勤電車の中で痴漢と間違えられそうだなあ、あいつ。
まあ、どうして加賀屋蓮について言及しているのかと言うと、それは彼にまた厄災が降りかかったからに他ならない。
加賀屋が現れる十数分前。一年六組の教室には僕と堺さんしかいなかった。
直前に教室を飛び出していった人の残像でも見えるのか、閉められたばかりのドアのほうに視線を向けながら、堺さんは僕の名前を呼ぶ。
「花川さん」
「なんだ」
「真鈴さんが言っていた『命令』とはなんのことですか?」
眼鏡が似合うその横顔に軽く説明する。
「諸事情で僕が真鈴の命令を聞くことになったんだ」
「諸事情……」
堺さんは反芻してから、何か納得したように呟いた。
「まあ、『王様の言う事は絶対』と言いますしね」
「……それはつまり、僕があいつに仕えていると言いたいのか?」
わかっているように言うけれど、的外れだぞ。
最後に教室を出て行ったのはその真鈴あやめだ。つまらぬ賭け事が原因で、僕は真鈴の命令にひとつ従わなければならなくなってしまったのである。断っておくけれど、決して僕より真鈴のほうが地位が高いとか、そんなことではない。
大変迷惑なことに、真鈴は命令の内容を話す前にどこかに行ってしまったから、僕たちはまだその詳細を知らない。どうやら小学生時代に関係することなのだろうけど。見当もつかない。
「それにしてもどこに行ったんでしょう?」
「さあ。それらしいことは何も言わなかったし」
ひとつだけ、『すぐに戻ってくるから』と残していったけれど、人の感覚によって『すぐ』の長さはまちまちだ。さすがに僕たちを忘れて下校しちゃうようなことはないだろうから、それならばとここで堺さんと待つことに決めたのだ。
――って、あれ?
「堺さん、真鈴を待つのか?」
なんか成り行きで堺さんも違和感なくここにいるけれど。
堺さんがやっとこちらを向いた。
「駄目ですか?」
「駄目というわけじゃないけれど」
残りたいらしい。だけど、懸念していることがひとつある。――二人きりでずっと黙っているってことになったら、なんか気まずくないか? 僕は口下手なのである。
間を持たすことができなくて、僕の視線は普段見慣れているはずの教室を観察するようにあっちこっちへ動く。中々滑稽だ。
あー何か当たり障りのない話題……。
「堺さんは何かクラブに入っているのか?」
「花川さん。今まで欠席していた、ある意味不登校の十年生に部活なんてありませんよ」
「そりゃそうか。……ん?」
遅れて違和感をおぼえた。
「十年生?」
すると堺さんは慌てたように口をおさえて、
「あ、間違えました。一年生ですよ、一年生! ゼロがひとつ多かったですね」
口頭でそんな間違いをするものなのだろうか。
「ところで花川さん」
「ん」
「花川さんと真鈴さんはどういう関係なのでしょうか」
やけに唐突だ。
「幼馴染のようなもの。ぎりぎり友達レベルに達しているか、達していないかぐらい」
「そうなんですか。かなり親しく話しているから、てっきり……」
いや、そこで口をつぐまれても困るのだけど。
「てっきり?」
「……て、てっちりが食べたくなりましたね、花川さん」
話題の転換が恐ろしいほど下手な堺さんである。ふぐの毒くらい恐ろしい。
「いやまあ、堺さんが何を言おうとしたのかぐらいは察しがつくんだけどな。残念ながら堺さんの予想は外れだ」
「あ、そうなんですか。仲睦まじそうに見えますのに。苗字で呼び合っているのが不思議なくらいです」
堺さんの言葉がきっかけで思い出した。
「小学生時代はニックネームで呼ばれていたな。僕は今と変わらずに真鈴と呼んでいたけれど」
堺さんがそれに食いついた。
「へえ。なんと呼ばれていたんですか?」
「ん……『ハルくん』」
改めて口にすると、中々どうして恥ずかしくなってくる。
「名前が春樹ですから、『ハルくん』ですか。いいじゃないですか、可愛くて」
可愛い……。返す言葉が思いつかなくて苦笑いをするしかなかった。
「ちなみに私の場合、名前を文字ったニックネームは『アサちゃん』だけです」
「ああ、堺さんの下の名前の麻子は『アサコ』とも読めるもんな」
「名前を文字ったものでなければ、『メガネ』とか『真面目』ですかね。安直ですけど」
いや、それはおそらく悪口だ! ……本人は気づいていない様子だけど、言わないほうがいいのだろうか。
ハルくんいいですねえ、と呟いているので、今度はこちらから話題を振ってみる。
「ところで堺さんって、どこの中学校出身なんだ?」
高校一年生の僕たちにとっては、よくある定型的な質問のひとつだ。堺さんはもったいぶるように間を置いてから、口を開いた。
「坂月市立第三中学校です」
「嘘つけ!」
それは僕の母校だ!
「というか堺さん、知っていたのか。僕が坂月三中出身だってこと」
「ええ、まあ。私、花川さんのことならほとんど見落とせますから」
「何も分かってないじゃん! 見落とすなよ! 見通せよ!」
こほんと咳払い。柄にもなく大声を出したことを恥じる。
「それで、どうして知っているんだ?」
「花川さんの噂を耳にしたことがありますからね」
「噂……?」
校外まで広まった噂といえば、ひとつしか心当たりがないのだけど。
「花川さんが参加していたらしい探偵コンビについてです」
ビンゴ。
僕の探偵ごっことしての行動範囲が広まった中学時代。僕はとある人に無理矢理探偵コンビなるものを組まされていたのだ。ちなみに真鈴ではない。あいつとは中学校が違うのだから。
そのとある人に振り回され、他校や廃ビルの中にまで無断侵入をしたことも多々あったし、考えてみれば、噂が広まらない方がおかしいかもしれない。
「で、その探偵ごっことやらだけど、どこまで知ってる?」
堺さんは考えるように人差し指をあごにあてて、上、右、下、左と眼鏡の奥の瞳をゆっくりと一周させる。
「詳しくは知りませんよ。花川春樹という少年と何某の二人とが街中の事件という事件に首を突っ込んでいたということぐらいでしょうか。もう一人の名前は伺っていませんけど」
……僕の名前だけが伝わっていたのか。主犯(?)はもう一人のほうなのに酷すぎる。
でもこれで疑問が一つ解消された。
「なるほど。だからか。楠居先生の結婚指輪に関する件で頑なに楠居先生の個人情報を守っていた堺さんが僕に事のあらましを話してくれたのは」
「はい、そうです。噂通りの方なら、もしかしたらと思いました」
会話が一段落したところで、教室に静寂が降りてくる。そういえば結局堺さんの出身校を聞いていないなと思ったところで一足先に堺さんが口を開いた。
「真鈴さん、遅くないですか? お花摘みだとしても、時間がかかりすぎているような気がしますけど」
「そうだな、まだ帰ってきそうにない」
なんとなくそう思った。
「じゃあ、あと話のひとつぐらいする時間はありますね」
それから、堺さんは姿勢を正した。手は行儀良く膝の上で重ねて、目は僕をじっと見据える。これ、そのまま証明写真にできるんじゃないか。というか、僕のケータイの待受写真にしてみたいとか邪なことが頭をよぎる。
真剣な瞳に射すくめられ、僕も自然に背筋が伸びる。
「世の中にはほとんど奇跡と呼べる邂逅というものが存在するのです。今日、私が花川さんに出会ったことがまさにそれです。でも、勘違いをしている可能性も捨てきれません。確かめさせてください。――花川さんは、あお」
堺さんは中途半端にそこで言葉を切った。ドアが勢いよく横に開いたからだ。その爆竹のように大きな音に驚いて、僕と堺さんの視線は出入口のほうへ向けられる。先週に引き続き、また真鈴が乱雑にドアを滑らせたのかと思ったけれど、そこに立っていたのは真鈴あやめではなかった。
男子生徒だ。
ボタンを外して適度に着崩した夏服の袖から覗く日焼けした健康そうな肌。握力が五十代を軽々越していそうな大きな手、太い腕。見るからに喧嘩の強そうな角張った顔。身長も僕より高い。
その大男は教室に僕たちしかいないのを確認すると、ずかずかとこちらに迫ってきて、容姿に似合った図太い声を張り上げた。
「春樹! 助けてくれ!」
彼が加賀屋蓮である。ちなみに一年八組。坂月三中出身。
「だ、誰ですかっ?」
当然の反応を見せる堺さん。挨拶もなしに詰め寄ってくるんだから、驚かないほうがおかしい。加賀屋は不器用な奴なのだ。
「加賀屋だ。僕の友人」
この坂月高校で唯一のと心の中で付け加える。
「加賀屋、こちらが堺さん」
当然、堺さんを加賀屋は知らないだろうから、紹介しておいた。
「よろしく」
加賀屋は不愛想にそれだけ言った。かたや堺さんは礼儀正しく頭を下げているというのに。
彼女を一瞥すると、加賀屋は僕に向き直った。
「お取り込み中だったろうから、それを済ましてからでもいいのだが」
「そうだな」
しかし堺さんは首を横に振る。
「いえ、あのことは忘れてください。加賀屋さんのほうがよほど深刻でしょうし」
献身的だな、と改めて感心した。
しかし、真鈴は依然戻ってきてない。……まあいっか。早く帰ってこないほうが悪い。
「じゃあ、聞こう。その焦り具合を見ると、どうやらのっぴきならない用みたいだし」
「ありがとう。助けて欲しいんだ。力を貸してくれ」
今の僕は以前の僕と違って、極力利益やメリットを求めるようになった。だけど、数少ない友人の頼みを断る道理はない。長い付き合いになるかもしれない加賀屋に見返りを求めるほうが筋違いというものだ。
「……いいよ。できることなら何でもしよう。何をすればいいんだ?」
「ああ、春樹にしてほしいことを平たく言うとな」
また、彼に何か厄災が襲いかかったのだろう。そしてその予想は的中する。
「俺の無実を晴らして欲しいんだ」
続きます。




