三.結婚指輪物語
前回の続き、解決編です。
終礼終了のチャイムが鳴る。今から放課後だ。席を立ち、僕はバッグを肩にかけた。
そうだった。ついさっきまで忘れていたが、今の僕の最優先事項は真鈴から逃げ切ること。あいつの命令を回避するのだ。もし昔の僕だったら、回避しようとはしなかったのかもしれない。だが、そのころはそのころ。今の僕は違う。損をしないように、利益を求め、行動する。
とにかく僕は走る。ひとまず教室後方のドアまで。これでも走りは得意なのだ。中学最後の体育祭ではクラス代表リレーを務めたこともあった。
隣席に座っている堺さんは急に駆け出した僕を見て呆然としている。走りながら視界の隅で真鈴を捉えた。席を立とうとしている。前を向いたままだ。まだばれていない。あともう少しで、ドアに手が届く。三メートル、二メートル、一メートル。ドアに手をかける――しかしその刹那、僕の勢いが死んだ。感覚で分かる。誰かが僕のバッグを後ろから掴んだのだ。バカな……、真鈴はまだ席の近くにいて、周りをキョロキョロと見回している。
とにかく真鈴ではないのなら、一体誰が僕のバッグを捕まえたというのか。振り返る。そこにいたのは――堺麻子だった。彼女の両手は僕のバッグをわし掴みにしていた。
いや、ちょっと待て。さっき堺さんは、椅子に座って呆然としていたんじゃないのか。終礼終了と同時に全力で走り出した僕より速いとは。
「説明するべきだと思いますが、花川さん」
僕のバッグから手を離さずに堺さんが静かに言った。目つきがちょっと怖いのだけど。
「な、何を」
「楠居先生の指輪のことです」
僕らの担任教師はもう落ち込んでいない。もちろん机に突っ伏したままでもない。完全に回復したのだ。それはもう、堺さんのケータイに保存されていたピースサインをしている先生並に。
大人と話すことが苦手な僕のかわりに堺さんは僕からの伝言を楠居先生に伝えてくれた。楠居先生はそれを聞いた後、授業そっちのけで教室を飛び出した(元々授業そっちのけだったが)。そしてどうやら奥さんに電話をかけて、許しをもらったらしい。僕の推理は当たっていたわけだ。
「元気になってよかったな。もうすごい回復力じゃないか。うなぎのぼりなんていうレベルの勢いじゃない。人工衛星の打ち上げレベルだ」
「人工衛星はまた落ちて来るんですけどね」
笑など少しもない。クールを超えてコールドな堺麻子。
「説明は明日でもいいか?」
「明日は休日です。いますぐ説明しなさい」
命令形に変わっているんだけど……。
男子生徒と談笑している楠居先生に目をやりながら言う。
「ほら、あれだ。マジックなんかでタネを知った途端、存外にくだらなくて幻滅する場合があるだろ? 今回の件も知らないままでいたほうが魔法を目撃したみたいな感じで楽しいじゃないか」
「私を怒らせると怖いですよ」
……火に油を注いでしまったらしい。
「自分が釈然としないまま、楠居先生に感謝されたんですよ。これでは感謝の喜びも半減です。花川さんは私に頼み事をしました。ならば花川さんは私の頼みを受け入れるべきです」
真っ直ぐな瞳がじっと僕を見据える。やろうと思えば、振り払って逃げることもできるだろうけど。
「…………だはあ」
仕方がない。
それにいつまでもこうしてドアの栓をするように立っているわけにはいかないだろう。教室を出でいく生徒たちにすれ違いざま物珍しいものを見る目で見られているし。
加えて、ほら。
真鈴が僕を見つけたようで、はつらつと手を振っているのだから。
「楠居先生に伝えてほしいと言ったこと、覚えているか」
自分の席に戻り、最初にそう言った。堺さんも自分の椅子に座っている。不思議にふてくされた気持ちもない。素直に諦めたからか。
「『可及的速やかに奥様にお謝りください。指輪のことよりも昨日の飲み会のほうを中心に、正直に』ですよね」
……あ、忘れていた。『花川より』も伝えてもらわなければ、僕の手柄ではなくなってしまうじゃないか! ……うう、これじゃあ骨折り損のくたびれ儲けだ。
しかし、悲しいかな、話し終えるまでは帰らせてくれそうにない。
「どこから話すか」
「そうですね、まずは何の話なのかを聞きたいですね。花川くん」
今の丁寧語は堺さんではなく、僕たちの横で仁王立ちをしている真鈴あやめ。最初からそこにいた。話が終わるまで黙ってくれるのかと思っていたのだけど、口をはさんできた。
「さきほどの授業、楠居先生が急に教室を出て行ったでしょう。その話です」
堺さんが素早く手短に答えた。
「ああ、なるほど。まさか楠居先生が離婚の危機に瀕していたとは。で、それを花川くんが助けてあげたと」
「おいおいおいおい。真鈴、お前知っていたのか!」
真鈴は平然と近くの椅子を引いてそこに腰掛けた。
「そこの彼女がね、楠居先生を起こして話をしていたでしょ? わたし、最前列なんだから、ちょっと聞き耳を立てれば容易に聞き取れるよ。それに断られたけれど、わたしも楠居先生に話を伺おうとしていたんだから」
そうとは思っていたけれど、楠居先生にもおせっかいを焼いていたらしい。
それから、堺さんそっちのけで真鈴が僕に耳打ちをした。
「それで花川くん。彼女、誰なの? 初めて見るし、他のクラスの子だと思ったけれど、でも授業の途中にいたし……。花川くんがナンパしてきたの?」
「なぜそうなる」
「美人さんだし」
そこは否定しないけど。
「これが花川くんの好みかあ」
「憶測で喋るな」
「あ、あの!」
一向に話が進展しないことにしびれを切らしたのか、堺さんが口を挟んできた。
「私、堺麻子と申します。私も一年六組です。これからよろしくお願いします」
そう言って、軽く会釈した。真鈴と違って実直さが挙動に出ている。
「転校生なの?」
やっぱりそう思うよな。
「今まで欠席していたらしい」
「へえ、そうなんだ。……あ、わたしは真の鈴と書いて、真鈴あやめ。花川くんのお友達です」
そしてこちらも堺さんに感化されたのか、それともただの負けず嫌いなのか、深々と頭を下げた。
「自己紹介も済んだところで、話を戻そうか」
「私、肝心の指輪の行方を知りたいんです。一体どこで失くしたんですか?」
「いや、『失くした』はちょっと正確じゃない。本当のところは盗られたんだ。いや、違うな。盗られたというか、預かっているというか」
「はっきりしないね」
うるさい。
「とにもかくにも、今、結婚指輪を持っているのは楠居先生の奥さんだ。だから、奥さんに謝れと言ったんだ」
「奥様ですか。でもなぜ? それにいつどうやってですか?」
「昨日か今日に、楠居先生弁当箱を奥さんが洗おうとしたときだろう。指輪は――弁当箱の風呂敷に引っかかったんだと思う。そのときしか指輪がかばんから落ちる瞬間はないのだから。程度は知らないけれど、酩酊状態だったのは間違いがないそうだから、弁当箱を取り出した時に気づかなくても当然じゃないか」
なるほどそうですね、と堺さんが返す。
「すると今度はどうして楠居先生のお嫁さんは結婚指輪を見つけたことを隠しているのかって疑問が出るよね」
「それに楠居先生が指輪を財布など小物入れにしまわずにかばんの中に放り込んだことにも疑問を覚えます。だって大事なものじゃないですか」
「二人の質問には、一つの答えで応じることができる」
これは楠居先生のプライバシーに関わるのだけど……。堺さん曰く、『口止めされていなければ、多少は話しても大丈夫』だしな。
「奥さんは先生が指輪をなくしただけで離婚しようとしていたんだ。よく考えてみるとおかしいと思わないか?」
「そういう方がいないと言い切ることはできませんけど、少数派でしょうね」
真鈴もうんうんと頷く。
「それなら、奥さんがご立腹している本当の理由はなんなのかということになる。――と、その前に、先程の堺さんの質問に答えよう。無造作に指輪をしまった理由は焦っていたから」
「なぜ焦っていたんですか?」
はあ、と息を吐く。あまり言いたくないんだけど……まあ、仕方ない。一度吐いてしまえば楽になれるはずだ。決心して、僕は一息に言った。
「それは――友人が誘った飲み会の正体が合コンだということを知ったから」
「は……」
真鈴と堺さんの表情が凍りついた。
「どうした?」
「え、いえ。そういう単語がまさか飛び出してくるとは思いもよりませんでしたから」
ぶんぶんと真鈴が首を縦に振る。
「これなら、全部うまく説明できるんだ。合コンっていうのは、普通既婚者は参加しないだろ。皆、必死なんだろうし。結婚している人が参加したりしたら、お前ふざけてんのかってなるかもしれない。ただの飲み会のつもりでお店に向かった楠居先生はそこで友人にはめられたことを悟った。要するに、その正体に勘づいた。自分は数合わせでこれに誘われたのだと。……そこで楠居先生がすぐに帰ったのなら、話はそこで終了していたのだけど、あの人、簡単に青息吐息になるほど、根が弱いからな。それに加わってしまったんだろう。で、既婚者だとバレないように、急いで指輪を外したってわけだ」
「では、奥さんが青筋を立てた真の理由は、そのことに気づいてしまったからですね」
まばたきすることで、それに答える。
「でろんでろんの夫と外された指輪。類推するに必要な状況証拠は揃っているね。勘の良い人なら、気づくかもしれない」
まあ――と言いながら、僕はいつの間にか静かになった教室を眺め渡した。
「奥さんは本当に指輪を見つけて欲しいと思った訳じゃないはずだ。正直に言って欲しかったんだろうと思う。早めに解決できたのだから、よかったよ」
僕の手柄でなくなってしまったことはよくないが。
「カッコつけちゃって、やあねえ」
おばさんみたいなことを言う真鈴。
「まとめです」
藪から棒にさっき僕がそうしたように、堺さんが人差し指をひょいと伸ばした。僕よりも綺麗な手だと思った。爪も清潔そうだし、指が細くて長い。
「正直な気持ちが持っていれば、人はやっていけるのです」
今回だけな、というような無駄口は叩かないでおくことにした。また命令語状態の堺麻子が出てきたら怖いし。
柔らかな笑みを浮かべる堺さんを見て、本当に彼女は見返りを求めていたのかと改めて疑問に思う。……あ、あれか。容姿端麗だし、見返りは見返りでも見返り美人のほうか。いや、面白くないな。
「それにしても花川くん」
つまらないことを考えていた僕に真鈴が言う。
「やっぱり変わらないね。推理力っていうのかな? 頭の回転の速さが」
昔から、真鈴あやめはこう見えても褒めるときはしっかり褒めてくれるのだ。
と思っていたら、真鈴が目を鋭く細めた。俗に言うジト目である。それから、僕の耳元に口を持ってきた。内緒話をするように、ぼそっと言う。
「でも、堺さんをいやらしい目で見ているのは気に食わないかも」
「見てねえよ!」
最近で一番大きな声を出したと思う。真鈴は両耳を抑えながら言う。
「少なくともじーっと見ているよね。さっきも『あ、この人の指、細くて長くて綺麗だなあ、爪も清潔そうだ』とか思っていたんでしょ」
……ぐうの音も出ない。
「あ、あの、何の話ですか」
「ううん、何でもないよ。困り事が全て解決してよかったなあってことだよ」
平然と嘘をつく真鈴あやめ。そのポニーテールを後ろから引っ張ってやろうかと思った。いや、本当のことを言われても困るのだけど。
ふと思う。
あれ、全て解決したっけ? まだ何か終わっていないような気が……。
思い出したように、真鈴がぱんっと手を叩いた。
「そうそう、花川くん。忘れるところだった」
そうして、僕の悪い予感は裏づけられる。真鈴の口の端が意地悪く上がった。
「もう済んだよね? それならわたしの命令、聞いてもらおうかな。忘れたとは言わせないからね」
事態を飲み込めていないであろう堺さんはきょとんとしていた。そんな彼女にお構いなく真鈴は続ける。
「花川くん。小学生の頃のこと、どれくらい覚えている?」
そりゃもう、たくさん。僕が周りの目を気にせずに探偵ごっこに勤しんでいたこととか。真鈴は僕をいじめるチャンスを絶対に見過ごさないこととか。
心の準備はできた。
ドントウォーリー、どんと来やがれ。
ありがとうございました。




