三.堺麻子と信号を待つ子
前回の続き。
率直に思ったことを口にした。
「横断歩道を渡る――って、普通だろ」
「赤信号で渡ったのです」
僕はぱたぱたと手を振る。
「いやいやいや。ちょっと待て堺さん。人間の鑑である堺さんは日常信号無視などをしないのだろうが、この世はあんたのような聖人だけで構成されているわけじゃないんだ。信号無視をするやつも中にはいる」
「それはもちろん知ってます。信号無視・カンニング・後出しジャンケンは絶対に許せない私でも、それぐらいわかってます」
「僕は嘘泣きが許せないけどな」
冗談交じりに口を挟んだ。
「それは許してください。……でもとにかく話は最後まで聞きましょうよ、花川さん。人の話を黙って聞けるような人間じゃないと、社会は生きていけませんよ」
たしなめられた。
僕はあごをしゃくって先を言うよう促す。
「私、電車通学ですから、いつもこの場所を通っているんです。朝、時間はあまり覚えていませんけれど、信号待ちをしているとき、反対の歩道――つまりこの場所ですが――で同じく立ち止まっているランドセルを背負った小学校低学年くらいの男の子を見かけました」
「どこの小学校なのかは知らないけれど、登校途中なのだろうな、そいつも」
「おそらくそうでしょう」
堺さんは頷くと、
「信号が青に変わり、私や他の信号待ちをしている人は横断歩道を――向こうからこちら方向に向かって」
言いながら堺さんは指を商店街の方からこっちへと空中を漂わせる。
「――渡り始めたんですけど、その子だけは動かなかったんです。どうしたのだろうとは思いましたけど、私は歩みを止めずに学校方向へ進みました。しばらくしてふと振り返ると、先程は動かなかったその子が、赤に変わった信号を、車の群れの切れ目を狙って小走りで渡り始めたんです。あっ、って思ったときには遅かったです。彼は小動物のようにそそくさと渡り終えて、走り去っていきました。それが――」
指をゆっくりと数本折ってから、
「三度程ありました。そのうち二度は同じ男の子で、一度は同じくらいの女の子でしたね。女の子のほうも同じように走って去っていきました」
こうしている間にも、信号は赤から青へ、青から赤へ変化していく。僕は腕を組んだ。
「まとめると、青信号で渡らずに、赤信号を待って歩道を渡ったってことか」
「そうなります」
今までに信号無視をしたことがあるか? と問われてノーと胸を張って答えることができる人は果たしてどれほどいるだろうか。嘘をついたことがあるか、と同じような質問だ。そんな人は本当に限られている。この僕も、何度か急ぎの用があるときは、えいっ、と車のない赤信号を渡ったことがある。
だけど、わざわざ赤信号を待ってから渡るという経験は――もちろんのこと、ない。
「その子たちはいつもひとりだったんだよな」
「ええ」
「そいつらは青信号を待っている間――おかしな言い方だけど――、何をしていたんだろう。例えばケータイや本を開いていたってなれば、青信号に気づかなかったこともありえるだろ? 赤になってから気づいて、急いで渡ろうとしたって感じで」
堺さんは素早く否定した。
「いえ、少しキョロキョロしていましたけれど、しっかりと顔は上げていましたよ。信号にはおそらく気づいていました」
「ふうむ……。さすがに小学校で赤信号を渡りましょうって教育しているわけないしな」
「ですね」
明らかにジョークで言ったのに、彼女の顔には薄い笑みさえなかった。
「赤で渡ると勘違いしているわけもないでしょうし」
そうだ、と手を叩く。
「いい考えがあるぞ。今度そいつらに出会った時に捕まえて直接聞けばいい。『赤だから渡ってはいけない』とかなんとか注意しながら理由を問い質せば怪しく思われたりもしないはずだ」
「いえ……それは」
なんだか困っている様子だった。
「ん?」
堺さんは言おうか少し逡巡したあと、苦笑いをしながら話した。
「実は私、小学生や幼稚園くらいの子どもが苦手で。こればっかりはどうしても治らないんです」
この優等生の弱みを初めて握ったような気がした。
「で、どうですか花川さん」
気持ちを切り替えたように、期待を瞳に宿して訊いてくる。
「花川さん程の慧眼の持ち主なら、わかると思ったんですけど」
「どうもあんたは僕を過大評価しすぎている節があるな。僕は堺さんが思うほど頭が切れるわけじゃない」
「どうでもいいですけど、謙遜は時に人を傷つけることもあるんですよ」
どういう意味か測りかねるけれど、堺さんも謙遜はするじゃないか。というかしょっちゅうだ。
「まあ、今回はわかった」
「今回『も』でしょう?」
僕が軽く眉を寄せたことに気づいてか、堺さんはごめんなさいと小さく言った。
堺さんは時計塔のほうを一瞥してから、
「じゃあ、ゆっくりでいいので教えてくれませんか」
「ええっと、な。その子達が――」
そのとき、ダンプカーが排気ガスを吐き出しながら、すごい勢いと爆音ですぐ脇の道路を走り抜けていった。
去った車から堺さんへ目を移すと同時に、彼女もこちらを見たらしい。思わず目が合って、どちらともなく吹き出した。
「話の腰を折られましたね」
「ああ、そうだな」
僕はひとつ息をついてから、改めて話しだした。
続きます。




