二.謎の少女。
前回の続きです。
「花川さん、知りたいですか?」
五分程経っただろうか。夢の世界へ意識が飛ぶ数秒前というところで、堺さんによって現実に引き戻された。
顔だけを上げ、目を薄く開ける。教室の明かりが眩しい。
「……何を」
「楠居先生のことです」
「……プライバシーじゃないのか」
「よく考えたら、他言するなと言われていませんし、あまり口外しないのならいいと思います」
前言撤回。堺さんの意志と口はさほど堅くなかった。
「どうです、知りたいでしょう。花川さん」
そう問われてしまったら。
……時間は水飴が流れるように依然として進まないし、眠気よりも好奇心が勝ってしまったため、彼女の話を聞くことにした。体を起こして堺さんに向けることで、その意思表示を伝える。
堺さんは『少しだけですよ』と前置きをしてから、話し出した。
「今の楠居先生の状況を平たく言うと、離婚の危機だそうです」
まだ半年程度しか経っていないのに、それは災難だな。
「原因は?」
「結婚指輪の紛失だそうです」
「ふうん。察するに、指輪を無くしたのは夫――楠居先生のほうか」
結婚指輪を無くしただけで離婚しようとするなんて、大人の世界はわからない。僕が知らないだけで、結婚指輪は二人をつなぐ大切な物なのかもしれない。
「はい。今朝、奥様にお弁当を手渡された時に指輪をつけていないことを指摘されて、気づいたそうです」
「ん?」
ふと、疑問が沸く。
「指摘されたってことは、常日頃、結婚指輪を指にはめているってことだろ? それなのに指輪が外れたことに気づかないものなのか? ――あ、いや。違うな」
常にはめているのなら――それに大切な結婚指輪、サイズも指にフィットしていて容易に外れたりはしないはず。
――つまり。
「自分の意思で外したんだな。いつ外したんだ?」
堺さんは本当に感心したようで、
「花川さん、理解早いですね」
まあ、昔は探偵ごっこなるものをやっていたからな。
堺さんは言う。
「昨日のことです。楠居先生は学校からの帰宅途中、気の置けない旧友から電話で、飲み会に誘われたらしいです。そのお誘いに乗って、お店に入ったすぐあとに指輪を外したと言ってました」
「それで、指輪をどこに?」
「外した指輪はかばんの中にしまったのは間違いないそうですけど……それが指輪を見た最後だったそうです」
「実はかばんではなく、ポケットに入れていたとかいうオチじゃないだろうな」
「実際なかったそうですし、間違いなく、かばんの中に放り込んだとおっしゃってました」
「ふうん。かばんに穴が空いていたとかは」
指輪は小さく、薄いものだ。日頃はめるために設計されている結婚指輪ならなおさらだろう。
「丈夫な物だそうですし、購入してからあまり経っていないそうですから、おそらくないと」
「で、飲んだあとは、そのまま家に帰ったのか?」
堺さんはその問いには答えず、かすかに笑みをつくった。
「花川さん。もしかして楠居先生の力になろうとしてくれているんですか?」
「そう見えるか」
「見えますね。こんなに質問をしてくるのがその証拠です」
……そういうつもりはなかったんだけどな。僕が楠居先生の力になれるとしても、僕にはそこまでする義理がない。昔は知り合いと二人でよく探偵ごっこをしていて、必要も利益もないことに首を突っ込んでいたのだけど、今の僕は違う。身をわきまえるようになった。
堺さんは眼鏡の奥の目を細め、遠くを見るような目になった。
「以前に、花川さんみたいな人にお会いしたことがあるんですよ。決しておためごかしなどではなく、他人の幸福のためだけに自分から進んで行動する献身的な人に。また会ってみたいものです。知りませんか、花川さん。そんな方を」
「知るわけがないだろう」
それに、そんな神様みたいな人と僕を一緒にされても困る。過大評価はやめてほしい。
「あくまで時間つぶしのためだ。過度の期待は失望を生むぞ」
「はい、そうですね」
多分、わかってない。
話を戻しましょうか、と堺さん。
「友達と別れた後、そのまま家に帰宅したそうです。それなりに泥酔していたらしく、家に着いた後、ほとんど無意識的にかばんからお弁当箱を台所のシンクにだして――ああ、それが帰ってからいつもしている事らしくて、体がそう反応しちゃうみたいです。家事をこなしているのは奥様のほうなので少しでも助けたいと――その後は、お風呂にも入らずに寝てしまったらしいです」
まず思ったことを口にした。
「不潔だな」
「朝にシャワーを浴びたとおっしゃってましたよ? 朝食を済ませ、出勤の準備をして、奥様からお弁当を渡される時に『結婚指輪は?』と訊かれて、指輪がないことに気づき――」
堺さんの言葉の先を継ぐ。
「『指輪を見つけなければ離婚だ』と言われて、今に至ると」
「ですけど、落ち込んでいる一番の要因は、愛妻弁当を渡されるときに奥様から言われた言葉らしくて、その言葉とは『あ――」
そういえば堺さん、最初に『少しだけですよ』とか言ってなかったっけ? 周囲で誰が聞き耳を立てているか知らんぞ。寝ているふりをして話を盗み聞きしているけしからん輩がいるかもしれないし。
「――ろ。』だそうです」
結局、彼女は言い切ってしまった。話し出すと口が滑りやすくなるタイプの人みたいだ。
「なんか、奥さんのその台詞は言葉の暴力とかいう次元を超えているな。その数文字にここまで破壊力があるとは知らなかった」
「日本語は奥が深いですね」
正直、あまりにもひどくて僕まで落ち込んできた。楠居先生があそこまで落ち込む理由も分かる気がする。
「私が楠居先生から伺った話は以上です」
堺さんを話し出すと口が滑りやすくなるタイプと言ったけれど、楠居先生も同じだろう。今日久しぶりに学校に来た堺さんに込み入った話をするのだから。それとも、堺さんの話術が上手いのだろうか。
「それにしても、楠居先生って愛妻弁当を作ってもらっていたんだなあ。当然と言えば当然だけど」
「あ、楠居先生のお弁当の写真ならありますよ。二段弁当で青い風呂敷に包んで持ってきているそうですね」
言いながら堺さんはスカートのポケットから、折りたたみ式のケータイを取り出した。ストラップも何もつけていない、シンプルな白色。彼女はそれを操作し、写真を表示して見せてきた。
「ほら、これです」
小さな画面の中にいるのは、右手でピースサインをしている楠居先生だった。ため息とは無縁に思える、清々しい程の笑顔。今の楠居先生からは程遠い。ピースサインをしていない左手は拳の形だ。その薬指についている、これが結婚指輪だろうか。言っちゃあなんだけど、あまり高価には見えない。大事なのは金より思い出や気持ちというやつか。
この写真は昼時に撮ったものなのだろう。被写体の次に目がいったのは、弁当箱だった。というより、これを見せるために堺さんはケータイを取り出したのだ。正直、色とりどりの中身よりも弁当箱の蓋のほうが気になる。白いバックに筆で書かれた漢字らしきもの。崩れすぎていて解読不可能である。
「変わっているな。この弁当」
「そうですか? ありきたりのおかずがありきたりに並んでいるようにしか……」
さりげなく中身を批判しているように聞こえるぞ、それ。
「弁当箱の蓋のほうだ」
「ああ、そっちですか。味がありますよね、この筆文字。楠居先生自身が筆で書いたのをお弁当箱にコピーしたらしいです。だからこのお弁当箱、世界に一つしかないんですよ」
『おりじなるべんとうばこ』というやつか。これから流行るかもしれない。
ふと、つまらぬことを思いついた。
「つまり、箱にも中にも味があるんだな」
堺さんは首を右に傾げ、それから左に傾げる。
「はい。そうですね」
……悲しい。意味を理解しかねるけれど、いちおう話を合わせておこうと思ったに違いない。
「ちなみに楠居先生って、書道二段らしいですよ」
詳しいな。この人は何故そこまで知っているのか。それと、いつこの写真を撮ったのか。よく見てみれば、楠居先生の服は厚めの長袖である。堺さんはブレザーを身にまとっているけれど、真鈴を含め半数以上の生徒は夏服だし、この季節ではないのは確かだ。それに注意はしなかったけれど、仮にも授業中。真面目な人かなと思いきやケータイを平然と取り出したりしている。よくわからない人である。
「というかそもそも、書道二段って高いのか?」
すると堺さんは申し訳なさそうにはにかんだ。
「寡聞にして存じません」
このかしこまった言い方は彼女なりの照れ隠しなんだろうか。
「でもさ、なんて言ったか忘れたけれど、某アイドルは書道四段らしいぞ」
ちなみにソースは真鈴あやめ。
「もしかすると、楠居先生は『それ案外高くないじゃん!』というツッコミを待っていたんじゃないか」
「でも、私からすれば、すごいことに変わりはないですって。今度調べておきましょうか」
律儀な堺さんである。
時計に目をやって、あと十五分程度でチャイムが鳴ることを知った。それなりの暇つぶしにはなっているようだ。
ふと、疑問が湧く。例の結婚指輪の話だ。
もし指輪を見つけたとする。だがこれはそれで許してもらえるような問題なのだろうか? 離婚は大げさだとしても、奥さんが激怒したことには間違いない。真の理由は他にあるんじゃないか? ――結婚指輪をなくすことよりも、いけないことが。
「…………はあ」
大きく息を吐き、天井を仰ぐ。
やめた。メリットもないのに深く考える必要なんてない。
「一つ訊くけれど、堺さんはどうするつもりなんだ。大変だったでしょうとでも投げかけて同情して終わりなのか」
堺さんはケータイをポケットにしまいながら答える。
「もちろん、楠居先生が指輪を落とした場所をめぐって指輪を見つけてあげたいですよ。それで解決するのですから」
お人好しを超えて、もはや聖者だな。セイント・サカイマコである。キリシタンかどうかは知らないけれど。
こうまじまじと『人間の鑑』を見せつけられようが、それでも僕は手伝ったりしない。何度も言っているが、メリットがない。
「…………」
いや、待てよ。もしかすると楠居先生の問題解決に貢献できたら、成績を上げてくれるかもしれない。前回のテストの課題を僕は提出し忘れてしまったのだ。それを大目に見てくれるかもしれない。課題とはとても天秤で測ることができないほど、楠居先生の問題は大きいのだから。
僕は言った。何も見返りを求めていないのを装って。
「楠居先生を助けるためによく考えてみる。僕も先生が落ち込んでいるところを見るのはいとわしいし」
堺さんが微笑む。
「花川さんって、優しいんですね」
うう、心が痛い。
「堺さんもだろう?」
彼女は何か企んでいるのだろうか。純粋にボランティアなのか訊いてみたくなったのだ。
「いいえ。私は花川さんと違って、心から楠居先生に奉仕しようとしているわけじゃないんです」
「え、そうなのか?」
純粋な慈善家はこの世に存在しないと信じていた反面、堺さんは何も見返りを求めずに行動しているものだと思っていた。
「なんだそれ。成績でも上げてもらおうとしているのか?」
堺さんはかぶりを振ってから、目を逸らした。
「違います。でも言いたくありません。どうせ笑われますし」
どうやら、恥ずかしくてそっぽを向いたらしい。
「笑われる? 『私、人の笑顔を見るのが何よりも好きなんです!』……とか?」
堺さんはこちらを一瞥する。
「違いますし、花川さんのモノマネは全く私に似てないと思います!」
ばっさり切られた。ちょっと自信があったのだけど。
「まあ、そんなことはいいのです」
視線と話を戻す堺さん。
「花川さんは指輪の場所に見当がつきますか?」
「いや、分からないな。情報はもうないのか」
「ないですね。先生はこれで全て話したとおっしゃってましたから、あとは現地をまわるしか」
さすがに僕はそこまで付き合えない。
移動に交通料がかかるし、それに成績を上げてくれるとは限らない。その労力と時間に相応しい報酬があるのなら動くかもしれないけれど。『ギャラが減っては戦ができぬ』とはよく言ったものだ。違うか。
ひとまず情報を整理して、あとは堺さんに動いてもらうのが最善策かな。純粋な彼女をあごで使うのは気が引けるけれど。それでうまく指輪が見つかった時は協力した旨を堺さんから伝えてもらおう。
「どこに落としたか」
「はい。それが分かれば全て解決です」
「そうだな」
口には出さなかったが、全て解決するとは限らない。見つかったとしても、離婚は止められないかもしれない。
楠居先生はかなり落ち込んでいる。やることはしたけれど、これ以上手の打ちようがないから、彼の欝状態はマックスになったのだろう。当然店にはすでに訊ねたはず。それでもないのだから、それ以外の場所に落ちていると考えるのが妥当。……本当に落ちているのならだけど。
「先生は、どの交通機関を使って帰ったんだ?」
堺さんは人差し指をあごに当てて、思い出すように視線を上に向ける。
「家から近い場所らしいので、徒歩だったそうです」
交番への相談も楠居先生がするに決まっている。もしかしたら、もう行った後かもしれない。
だけどどうだろう。バスや電車を使ったというのなら、財布や定期券を取り出すときに何かに引っかかって、誤って落ちたという可能性もある。しかし徒歩だ。かばんに穴が空いていない限り、落ちたりはしないのではないだろうか? それなら、僕は別の可能性を当たる。
――誰かが結婚指輪を持っているに五ドル賭けよう。
情報は確かに少ないけど、ここまでの情報で分かったことは案外あるものだ。大丈夫、授業が終わるまでまだ余裕はあるし、推理する意欲もある。
堺さんとの会話を一旦中断し、椅子に深くもたれかかり、腕組をして目をつむる。昔から、こうすれば不思議と思考に集中できるのだ。僕ならできるはず。探偵ごっこをしていた頃の感覚はかなり戻ってきた。
五分くらい経っただろうか。大体の推理を組み立てることができた。
ゆっくりと目を開ける――と、堺さんの顔がすぐ近くにあった。眼鏡のレンズに僕の顔が反射している。間抜けに鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「あ、起きましたか」
堺さんは僕のひとつ前の席に陣取って、僕と机を挟むようにしている。一体いつの間に。全く気づかなかった。こんな近くだったのに、呼吸音ひとつしない。それにどうして別の奴の席に座っているのかと疑問に思ったけれど、教室を見渡せば、皆自由に移動してお喋りしていた。楠居先生を構っているひとはいない。
「考え事をしていたんだ。寝てなんかない。それとちょっとばかしはなれてくれ」
「あ、はい。すみません」
目を開けたときに顔がすぐ近くにあったのだから、もしかしたらこの人、ずっと僕のほうを見ていたのだろうか。
「堺さん、ちょっと頼み事いいか」
「指輪に関係することですか?」
「そうだ。楠居先生に伝えてほしいことがある。これで解決するはずだから」
そう言ったとき、目の前の少女はふっと頬を緩めたのだった。
続きます。




