二.わたしと似ている人
前回の続き。
重大な問題が生まれた。昨日の帰り道も、帰ってからも、ご飯を食べているときも、お風呂のときも、寝る前も、今日起きてからも、登校途中も、登校してからも、そして今、授業中でも、そのことが頭を離れない。離れてくれない。どうしてかわからない。どうしてここまで気になるのだろう。裏切られたから?
花川春樹、通称ハル――わたしと最も仲の良い男子生徒である彼の机の中から、とある物を見つけてしまった。日常をこっそり撮ったように見える女性三人分の写真、六枚が入った封筒。彼の机の物入れから見つかったのだから、ハルの物なのだろう。夫のケータイを覗いて見てはならぬ物を見てしまった妻の気分だ。何か違う気がするけどそんな気分だ。
昨日は結局、そのまま元の場所に戻しておいた。ハルはわたしが盗み見したことに気づいていないはず。いつものように、ぬけーっとした表情で授業を受けている。わたしは、彼にこのことを訊けないでいた。
本当に、彼は盗撮犯なのだろうか。中学生の頃は違う学校だったから、知らないうちに彼にこんな趣味が増えてしまったのかな。……嫌だ。違うと思いたいけれど……。でも、何かの間違いならば、その理由を教えて欲しい。
学校が終わってからも、そのことが頭に焼き付いたように残る。今日は体が重いからと嘘をついて、文化委員の千両さんには文化祭の仕事を休むと断っておいた。
憂愁と懸念がぐちゃぐちゃに入り混じったまま、ふらふらと廊下を進む。すると突然、わたしは背中に軽い衝撃を感じた。
「どうしたんだ、思案顔をして」
背中を叩いてきたのはわたしの友達、井口菫咲。少し男口調の活発な女子生徒。ちなみに菫咲と書いて『スミサ』と読む。口は悪いけれど、友達想いの献身的な子だ。
隣に並んだ菫咲に言う。
「どうして後ろからやってきたのに、わたしが思案顔をしているってわかったの?」
彼女はわたしと相対的に白い歯を見せて笑う。
「そりゃあ、アヤメが肩を下げて俯きがちに歩いていたからだよ。顔を見なくてもわかるって」
菫咲につられて口端をわずかに上げる。わたしは自分の顔を指差して、
「この顔、気分が悪そうに見えない?」
「あ、そうだったのか。風邪? それなら悪いことした。すまなかった」
正直な子。
「いや、違うんだけど。菫咲の言う通り、落ち込んでいたの」
菫咲は真顔になって、わたしの顔を覗き込む。
「どうしたの。あたしで構わないのなら、聞いてあげるけど」
彼女は真剣味を帯びた顔だ。菫咲は一学期にその性格のおかげでハルとぶつかったこともあったけれど、こんなときの彼女は本当に頼りになる。彼女になら、話してもいいと思った。
「例えばさ、そんなことをしないと絶対の信頼を置いていた友達が、女の子を盗み撮りしていたら……、どう思う?」
菫咲は一瞬何の話だと眉を寄せたのち、淀みなく答えた。
「最初に思ったのは、真鈴あやめは嘘が下手な娘だってことかな。そんな具体的な例え話がどこにあるんだ?」
「本当に落ち込んでいるんだよ」
わたしが言うと、彼女はペコリと頭を下げた。
「ごめん。……えっと、あたしだったら」
不誠実な謝り方だけど、わたしを元気づけようと言ってくれたのだろうから、文句は言わない。菫咲は今度こそ真面目に、
「うーん……。それが絶対に間違いなのではないのなら、問い詰めて、やめさせるようにして、被害者に謝らせる。盗撮に被害者が気づいていなかったとしても、謝らせる。それしかないよね」
……それしかないよね、か。
菫咲の言っていることは、道理にかなっているだろうと思う。間違ってはいない。
「そうだよね。そうだ。参考にさせてもらうよ。ありがとう、菫咲に聞いてもらって正解だった」
そう言うと、彼女はニンマリとした笑みを顔に浮かべた。何か……、嫌な予感がする。
「応援してるぞ、アヤメの恋! それじゃあ、あたしは文化祭の仕事があるので、また!」
「え、ちょっと、え?」
わたしが訊き返す前に、菫咲は走り出した。頭が混乱していて、追いかける間もなかった。廊下の角を曲がって見えなくなるというところで、彼女がチラリとこちらを振り返り、声を上げる。
「例外を除いて、女は女を盗み撮りしないからな! するとアヤメが絶対の信頼を置いているのは男。その沈んだ様子も合わせて類推すると、簡単にわかるぞ!」
言い残すと、今度こそ菫咲は角で消えた。
あんな大声で言わなくても――。
慌てて廊下を見渡し、胸を撫で下ろした。よかった、誰も聞いていなかったみたいだ。こんな話、他人に聞かせられないし。
「……あっ」
『そんなんじゃないよ!』って言い返せなかった。
とにかく、菫咲の言う通り行動してみる。ハルが本当に犯行をしたのか、確かめる。本人に確認するのが一番だろう。
わたしは足を止め、方向転換をする――と、後ろを向いたときに、廊下を歩く、さっきまでいなかった女子生徒と目が合った。ボブのような、おかっぱのような髪型の少女。小さな目、真っ直ぐな鼻、バランスの良い口。思わず見とれてしまうような、不思議な魅力を感じた。全体的な印象は日本人形のようだ。なぜだろう、どこかで見たことがあるような気がする。
既視感の理由を掴めないまま、日本人形さんは誰もがそうするように視線をわたしから外して、こっち方向へ進み続ける。わたしの横を通り抜けようとしたとき、その横顔で彼女を思い出した。やっぱり見たことがあったのだ。
彼女が横を過ぎてから、追いかけるように慌てて声をかける。
「ち、ちょっと、彼女?」
もう少し掛け声をどうにかできなかったものか。街角で女性をナンパするヤングマンみたいな台詞になってしまった。
とにもかくにも、呼び止めることには成功したみたいで、日本人形さんはボブカットを揺らして半分だけ振り向いた。
「わたしのこと?」
子供らしい髪型や容姿と比べてギャップを感じるほど、声は低く、落ち着いていた。
だが、綺麗なことは間違いない。ストーカーに合ったり、盗撮されるのも無理はない――わたしが彼女を見たのは、例の盗撮写真なのだ。アレの、私服姿で坂月商店街を歩いていたボブカットさん。それが彼女。
「う、うん、そう。忙しくなかったのならいいのだけど」
「別に急ぎのようはないけれど、何かしら?」
そうして完全にわたしに向き直った。
どうしよう。引き止めたのはいいけれど、どう切り出すべきだろう。あなた、盗撮されているかもしれません、と話す? ハルが本当にやったのかを確かめるまでは、それはできない。
わたしがどう切り出すか決めかねていると、向こうから口を開いてくれた。口パクで録音再生機から言葉を出しているのではないかと思うほど、見た目に似合わない声色。まるで日本人形を使う腹話術みたいだ。
「あなた、真鈴さんでしょう? 六組の」
「えっ」
どうして知っているのだろう。気持ちが動転してますます次の台詞が出てこなくなった。
わたしの疑問を見透かしたのか、彼女が言う。
「有名だもの。学内で『ポニーテールでキュートなお嬢さんは?』と問われれば、半数があなたの名前を挙げるわよ」
それは大げさだと思う。でも、彼女がわたしのことを知っているのは事実だ。わたしが万年ポニーテールでいることを知っているし。
「それはありがとう……。でも、わたしはあなたの名前を知らないの」
「あら、そうだったの」
さほど驚いた様子もなく言う。
「わたしは一年八組の楢卯月。でもそれだったら、どうして真鈴さんはわたしを呼び止めたのかしら?」
さて、なんと答える? 背中に埃がついていたの、とか嘘をつくべき? それとも本当のことを言うべき? 楢さんの美しく輝く黒真珠のような双眸にわたしの顔が映る。よく見えないけれど、困った顔をしているに違いない。
わたしたち以外、誰もいない廊下に声が響く。
「そのね、ハル……じゃなくて、花川春樹のこと、知ってる?」
ちょっとずつ、遠回りに遠まわしに話を出していく。彼女に盗撮の被害に合っていることは勘づかせずに、ハルとどんな関係があるのかを探る。不器用なわたしがそれをするのは難しいことかもしれないけれど。……ああ、椿ちゃんみたいな頭脳が欲しいなあ。
日本人形さんはまさに人形の如く表情一つ動かすことなく答えてくれた。だけど、その小さな口から飛び出した言葉はわたしにとって衝撃的なものだった。
「もちろん、知っているわ。だって、中学時代はほとんど毎日、言葉を交わしていたもの」
わたしの知らなかった、ハルの三年間。毎日話していたのが本当ならば、再会してからたった数ヶ月のわたしよりも、楢さんのほうが今のハルを知っているはずだ。
それにしても、毎日会話する関係ってどんなのだろう?
彼女とハルの接点は若干掴めた。作戦を変更してみる。だってそれなら、わたしの知らないハルのことを知れる絶好のチャンスなのだから。
「そんな楢さんに訊ねるけど、ハルって、こう、なんて言うか」
両手を言葉に合わせて色々動かす。そうすれば台詞が出てくるような気がして。
「――人に言えないような趣味ってあるのかな?」
「……ん。えっと」
そこで初めて日本人形さんは顔に戸惑いを漂わせた。白い肌にかすかに薄い赤が差す。
「そりゃ、だって、花川くんも色々あるでしょうし……、思春期の男性だもの……うん、それに、人の言えないような趣味は、人には言わないでしょう……?」
質問の形が悪かった。もう少し具体的にしてみる。
「……そうじゃなくて、――犯罪まがいの悪癖みたいなのってあるのかな?」
楢さんはじっとわたしの目を見る。わたしの言葉の真意を量ろうとしているみたいだ。読まれていたらどうしよう。彼女の雰囲気ってこう、占い師みたいなところがあるから。
じれったいほどの間を置いて、彼女はかぶりを振った。
「ないわね。むしろ彼は、他人の犯罪まがいの行動を暴く方でしょ?」
「んー、まあ、そうだけど……。楢さんもハルが物事の本質を見抜く力に長けていることを知っているんだ」
毎日喋っていたのなら当然か。
「少しはね。中学時代、花川くんが自身の能力を発揮させていたのは、ほとんど、とある先輩のためだから、わたしが彼の推理力をこの目で見られた回数は案外少ないのよねえ」
「先輩?」
「ええ。……彼は気づいていなかったみたいだけど、花川くんの意中の人だったと思うわ。屈託なく笑う顔が素敵な先輩」
意中の……人。その言葉を理解するのに、時間がかかった。だって、それって、つまりそういうことでしょう? ……それが過去形だったとしても。
返す言葉が頭に思い浮かばなかった。胸の中で、何か気持ち悪いどろっとしたものが動いたような気がした。
「でも、今はどうかしら。その先輩、一年半前に引っ越しちゃって、もう花川くんと会ってないだろうから。彼女が消えてから、花川くん、少し落ち込んでいるようにも見えたし」
――そうそう。あなたを見たときに思ったのだけど。
と、言って、楢さんは話を変える。こちらは魔法がかかったように口が開かなくて、話題の転換を阻止することができなかった。
「ポニーテールって、元のロングヘアより、ショートヘアの印象に近いじゃない? ずっとその髪型でいたら、頭ではわかっているかもしれないけれど、無意識のうちにショートヘアのようなイメージで脳みそに刷り込まれているかもしれないじゃない?」
僅かに魔法が解けた。
「……それ、で?」
しかし今度は話の意図が掴めない。
「――あなたってどこか、玉依先輩とかぶるの。すごく元気なところとか、朗らかな笑みとか、ショートヘアに見える髪型とか。顔が似ているわけではないけれど、まるで彼女と話しているような錯覚に陥る」
知らない名前に首をひねる。
「タマヨリ先輩っていうのは……」
「さっきの話に出ていた人よ、もちろん。とにかく、わたしが言いたかったのは、酷似しているってほどじゃないけれど、あなたはその玉依先輩に少なからず似ているってこと。花川くんもそう感じているんじゃないかしら。まあ、どうでもいいことだけどね」
わたしと、玉依さんが似ている……。顔も声も知らない人のことを言われても実感が沸かないけど、頭の中では玉依さんのモヤがかかった姿が形成されていた。見知らぬ人のはずなのに、花川くんと仲良く話す姿が想像できた。
パン、と藪から棒に楢さんが手を叩く。その音で玉依さんのおぼろげな像はガラスが割れるようにあっさりと崩れていった。
「急用を思い出しちゃったわ。文化祭に向けて、部活動の作業があるんだった。わたし八組の文化委員だから、クラスの方を優先させていたの。編集ばかりとはいえ、部長に任せっきりというのもね。だから、今日こそは手伝うって約束してた。なので休養はここまで。真鈴さんの用というのは、今の花川くんに関することだけなのかしら?」
「え、あ、うん」
楢さんの人を圧するような視線に押されて、頷いてしまった。わたしが了承したのを認めると、彼女は耳打ちするように手を口元にやり、秘密を打ち明けるように、口を動かした。
それから踵を返して、元来た道を引き返していく。彼女の姿が見えなくなるまで、今度は全身に魔法をかけられ、石にされたように、指一つ動かすことができなかった。瞬きをすることすら、忘れていた。
去り際、日本人形さんはこう言ったのだ。
「困り事があるのならば、玉依先輩と似ているあなたの話を、花川くんは聞いてくれるんじゃないかしら」
――月ノ輪祭まで、あと三日。
続きます。




