三.塞翁馬
前回の続き。解決編。
普段、ここの食堂は休日にはしまっているらしいのですが、今日は特別。もちろん、高校説明会の日だからです。
とは言っても、昼時は過ぎかけているので、広い食堂にはちらほらと中学生が見えるだけ。私たち三人は、空いている椅子に座りました。お昼ご飯と一緒に。私はラーメンを、花川さんはカレーライスを買ってもらいました。楠居先生本人は――、
「お弁当ですか?」
白い二段弁当。なんか私たちだけこれだと悪い気がするんですが……。
「上手いだろう、この字。僕が書いたのをここにコピーしたんだ。僕、こう見えても書道二段だから」
確かに、彼のお弁当の蓋には、毛筆の字で『闘魂』。読むのに苦労するぐらい崩れている二文字ですが、正直に上手いと言えます。いえ、今はそれどころじゃないんですけど。
楠居先生は両手を小さく広げます。
「さあさ、花川さんに堺さん。遠慮しないで食べてよ。僕の困り事の相手をしてくれたお礼だし、冷めたら美味しくないよ。それに遠慮されても、僕にそれらを食べきる自信はないから」
そういうことならば。
「じゃあ、遠慮なくいただきます」
「いただきます」
楠居先生が、白米を掴んだ箸を口まで運んでから言いました。
「花川さん。教えてくれないかな。暗号の答え。時間はまだあるとはいえ、気になるんだよ」
花川さんは、カレーライスをぱくっと食べてから答えます。
「漢文です」
楠居先生は、微妙な反応をしました。
「漢文……。なんかその言葉の響きは聞いた覚えがあるけど、ほとんど忘れたなあ。高校生の時以来だ。確か、漢字のやつだよね」
「ええ、漢字がいっぱい集まってできた、古代中国のその漢文です。この暗号は、白文から書き下し文に訓読するときに使われる、返り点がキーになっているんです」
私としては今が大事な受験生ですので、すんなりと理解できましたが、楠居先生は難しい顔をしています。
花川さんは暗号が記された紙を机の上に置いて、伸びた指で英文の中にある、ぽつんとした点を指差しました。
「このピリオドは漢文でいうレ点を示しているのでしょう。字の左上にこれがあれば、先にその字を読んでから、上の文字を読む――そんな記号です」
次に彼女の指が抑えたのは、尻尾が生えたような黒い点。
「これらのクォーテーションマークとダブルクォーテーションマークは一・二点の代わり。形的にもちょっと似ていますしね。説明はちょっと省きますが」
幸運なことに、英文の中に含まれる記号はこれだけです。
「あとは、漢文を訓読するように、このアルファベットを並び変えていけばいいだけです。ちょっと、ペンありますか?」
楠居先生から受け取ったボールペンを紙に滑らせる花川さん。その時に、楠居先生が疑問を呈しました。
「どうして、その……返り点だとわかったんだい?」
「だって普通、英語は横書きで表します。これはわざわざ縦書きにしたのですから、そこには何か理由があって然るべき。それが、漢文なのです。まあ、どこかで見たことがあるな、とは思っていたのですが。堺さんもそうでしょう?」
「ええ、はい。よく考えてみれば、この文章もメールで済みましたのに、あえて紙を使ったのは縦書きにするためだったんですね」
ええ、そうですね、と暗号を解きほぐす手を止めずに花川さんが返事しました。
「それに楠居先生、恋人さんは言ったんですよね。『わからないようなら、中学校の生徒さんたちに聞きなさいな』。これがヒントなんですよ。彼女さんは中学校の生徒さんたち――つまり私たちのことですが――には、わかると思っていたんです。受験シーズン真っ最中の私たちなら、きっとピンとくるだろうと。返り点の難易度も低いですし。……はい、できました」
花川さんは楠居先生にボールペンを返したあと、すっと紙をテーブルの上に滑らせました。意味がわからない暗号文の隣には、見慣れた単語で構成された正真正銘の英文が、適度に崩してある流れるようなアルファベットで記されていました。単語毎に切るべき部分は既に切ってあって、難なく読むことができます。
「『take a picture』。――写真を撮りなさいってことですか」
彼女はコクリと頷きました。
「暗号を解いただけではいけないでしょう。楠居先生、今日彼女に会う予定はありますか?」
「いや、ないけど。どうして写真を撮らないといけないのかがわからないなあ」
「でも、しっかりとした文が出たのですから、これが答えなのは間違いないはずです。――楠居先生が今日恋人さんに会う予定がないのならば、どうやっては恋人さんは彼女自身が設けた制限時間内に楠居先生が暗号を解いたと確認するつもりだったのでしょうか。それは多分、写真なんだと思いますよ。楠居先生が時間内に彼女に写メすることができたら、クリアなんだと思います。もし写メなどをしなかったとしても、ケータイで写真を撮ったのなら、撮った時間の記録が残りますから」
「写真……ねえ。そうは言っても、何を撮ればいいのかな?」
「そうですね。特に縛りはないみたいだし、じゃあ楠居先生の笑顔でも撮りますか」
「それでは膳は急げですね」
私はケータイをポケットから取り出して、カメラを起動させたケータイを楠居先生に向けました。
「セイ、チーズ!」
「チーズ」
楠居先生はピースサインをしながら、白い歯を見せてくれました。カシャッ、と撮影音が鳴ります。ちょっと体を引いて撮ったのでお弁当も写っています。
「堺さん、それでどうやって先生の彼女へ写メ送るんですか」
「あっ」
私としたことが……。自分のケータイで撮っても意味ないじゃないですか。
「すみません楠居先生。赤外線で送ります」
「了解」
「手間取らしてしまってすみません」
ぴぴっと赤外線通信で楠居先生のケータイに写真を送信します。ケータイ同士を近づけたときに、楠居先生の指についている光っている物に気づきました。
「楠居先生? それって結婚指輪ですか」
楠居先生は当然のこと、結婚なさっていないはずなのに。
「ん。これかい? やっぱりそう見えるかなあ。いや、違うよ。ただ、何となくつけてるだけさ。薬指につけていたらそう見えるものだね、やっぱり」
付け替えるより、外しておくべきかな。楠居先生はそう言ってから、
「そういえば、どうしてこの暗号のキーをあいつは漢文にしたのだろう。漢文なんて、学生時代を除けば、あいつにも僕にも接点なんかないはずなんだ」
確かに言う通りですね。なぜでしょうか。
花川さんはわかっているのでしょうか。次の言葉を待ちます。
「そうですね、考えが一つあります」
私はわずかに身を乗り出しました。
「なんですか」
「監視、です」
「……漢詩?」
また漢文ですか。古代中国は偉大ですね。
どうやら発音の違いで意味の相違に的確に気づいたらしい花川さんは首を短く横に振りました。
「いえ、違います。監禁の監に視察の視で監視です」
「監……視」
それはそれで物騒な単語ですけど。
「さっき言いましたよね。彼女さんはわかっていたんです。中学生の人なら解けると。言い換えると、その年頃の人にしか解けないと。いえまあ、それに接点のある人とかなら別ですけど。でも、理数系で十年程度全く触れていなかった楠居先生に解けというほうが無理です」
「ということはつまり?」
「楠居先生が誰か――例えば生徒たち――に頼らない限りは解くことのできない問題だったんです。楠居先生がこれの答えを導き出すことができたのなら、それは、先生が学校にいたことの証明になるのです」
花川さんの言ったことを頭の中でもう一度反芻して、意味を噛み砕くことができました。
「なるほど……、では、この暗号の答えである『写真を撮れ』というのも、そのためだったのかもしれないですね。なぜなら、普通に写真を撮れば、絶対に背景が入り込むのですから。でも、どうして監視するんですか?」
花川さんは私の言葉を受けて、楠居先生のほうを向きました。
「楠居先生、何か監視されるような心当たりは?」
「……心当たり」
いつまでも首をひねっているところを見ると、どうやら見当がつかないようです。すると、花川さんが助け舟の『ような』ものを出しました。どうしてそれが『ような』ものなのだというと、それが答えも同然のものだったからです。
「じゃあ、ですね。例えば――先生が禁止されている賭け事関係、とか」
「え」
楠居先生が私に目で『そんなことを言ったっけ』と訴えてきました。私は小さく首を振ります。
「ちょっと賭けてみたんですけど、合ってましたか。賭け事だけに、賭けてみたんですが。掛けてみたんですが」
「花川さんに面と向かって言うのは正直口幅ったいと思いますけど、しょうもないです」
いくら私でも、花川さんがそういうことに関しては未熟だということが分かりました。誰しも弱点の一つはあるものです。気になるのはどうしてそれを無理に言おうとしたことですけど、まあ、問いません。
彼女は平気な顔をして、
「いえ、言ってから自分でも下手だとわかりました。ごめんなさい。やっぱり、あの人みたいにはいきませんね」
あの人……? 洒落が好きな人でも知り合いにいるのでしょうか。
「合ってるよ。確かに、僕は賭け事というか競馬をあいつに禁止されてる」
「昔は賭け事をしていたのに、最近は数が減ったのは、禁止されたから。彼女さんは賭け事が嫌いだそうですし、会ったこともないのに『こんな人だ』、と決め付けるのは危険なことですけど、話を聞く限り、強気っぽい人みたいですし。そんな人なら言いかねないと思ったんです」
「ははあ。なるほどね」
「彼女さんは気づいていたんじゃないでしょうか。楠居先生がまだ賭け事をしているって。楠居先生は『数が減った』と言ったんです。つまり、禁止された今でも、少なからずしているってことですよね」
「ただ普通に喋っただけで、僕のことがバレている……。僕ってそんなガードが甘い男だったのか」
ガードというか、セキュリティが、ですかね。
「彼女さんにもバレているようですし」
「はあ……」
本当に落ち込んでいるようでした。
「どうして彼女さんがそれを言ってこないかと言うと……、執行猶予か、もしくは合っている自信がなかったのか。こんな回りくどいやり方を使っているところを見ると、後者ですかね。他人のことに口出しするのは宜しくないのはわかっていますけど、完全にやめてみたらどうです?」
「んん……努力はしてみるよ」
「楠居先生、一つ訊いていいですか」
と私。
「ということはつまり、楠居先生はいつもこのような監視をされているんですか」
「多分、どこかに遊びに行こうと言ったのを僕が断ったからじゃないかな。『土曜日だから時間はあるでしょ』って言った彼女に対して、僕が返した『学校説明会だ』ってのが腑に落ちない様子だったし。ほら、今ならジャパンカップとかCMやってるから、それを見て、僕が誘いを断ったのは学校説明会ではなく、競馬場に行くためだったと深く勘ぐり過ぎたんじゃないかな。いやまあ、ジャパンカップは今日じゃなくて明日だけど。さっきも言ったけれどあいつ、そういうの全く知らないからさ。だから多分、競馬場に行かないと馬券を買えないと思ってるのかもしれない」
そう考えると、彼女さんの監視は不十分だったようです。
「可愛いらしいじゃないですか」
「ん、まあ、そうなんだけど」
それから、楠居先生はにわかに席を立って、背筋をピンと伸ばした姿勢から、丁寧に頭を下げました。
「今日は二人ともありがとう。二人に会えてよかったよ。今日は人生の転機になるかもしれない」
「そんな大げさな」
「いや、そんなことないよ。また少しあいつのことがわかった気がする」
苦笑い。……完全にのろけじゃないですか。
私は、思いつきで人差し指をぴっと伸ばしました。二人の視線がそこに集中します。
「人生、何が起きるかはわかりません。そういう意味では、賭け事みたいなものです。でも、どんな賭け事よりも嬉しさや喜びを多く知ることのできる賭け事です。塞翁が馬です」
「なんか、まとめみたいですね」
「まとめ……ですか、そうですね」
今回のまとめ。的を射ています。流鏑馬のごとく。
「塞翁が馬。中々良いこと言うじゃないか、堺さん」
「ええ、漢文で馬といえば、『塞翁馬』でしょうし。『雑説』もありますけど」
「うまいこと言うね、堺さん」
「でも……」
と花川さん。
「はい?」
花川さんは薄笑いを浮かべて、
「冷めたらご飯は『うま』くなくなりますけどね」
気づけば、三人とも箸が止まっていました(と言っても花川さんはスプーンですが)。話に夢中になりすぎていたようです。
しかしやっぱり、花川さんはどうしてもうまいことを言えませんね。
……馬だけに。
続きます。




