一.サカイ
今まで欠席していたらしい、花川春樹の隣席の少女・堺麻子。堺と出会ったと同時に発生した、担任の結婚指輪の消失。春樹は生真面目な堺と共に、真実を推理する。
勝負事は、負けてはならない。何かを賭けている場合は特に。
それなのに、昼休み、ポニーテールがトレードマークのおせっかい焼きな女子生徒、真鈴あやめが出題したなぞなぞを解けなかった代償として、僕は真鈴の命令を一つ、聞かなければならなくなってしまった。
その彼女は、今日の放課後に命令してくるつもりらしい。どうせあいつのことだから、
「花川くん、ちょっと買い物に付き合って」
とかなんとか、かなり面倒くさい内容になるに決まっている。僕はそれを是が非でも回避したい。……方法はある。命令には期限をつけておいた。今日までにださなければ、無効にすると。
――それはつまり。
今日一日、真鈴から逃げ切ればいいってことだよな!
「えーと……。だから、ここの答えは……はあ。だから、3x-5に……はあ。……なるわけ。はあぁ……」
今は六限目の授業中、六組の担任をする楠居先生の数学。
いつもの楠居先生に、喋る度にため息を吐き出すような癖はない。今日の楠居先生はかなりおかしい。抽象的に言うなら、何か暗いオーラを身にまとっている。日本の平均ため息は今日の楠居先生の貢献により、かなり上がったことだろう。
いつもはこの楠居先生、ちょっと鬱陶しいくらい快活な人で、今年始めに結婚した(本人曰く、相手はべっぴんさんだそうだ)らしくて、それも手伝って普段からおかしなくらいテンションが高い。そのテンションが急に落ちた。ひどく落ち込むことでもあったのだろう。
しかし、今は人のことより自分のこと。僕は真鈴から逃げ切る方法を考えないといけない。この高校を抜け出せれば、あとはもう楽だ。問題はどうやってこの教室を出るか。
と言っても、方法は一つしかない。放課が始まったと同時にスタートダッシュをかけ、普通にドアから脱出。
教室にドアは二つあるが、前側のドア付近には真鈴の席があり、僕の席は窓側列の一番後ろに位置するため、後方のドアから出るのが最善策だ。
念の為、障害になるかもしれないので、隣の椅子を少しだけ前に寄せる。空席である。というか、なぜそこにあるのかを疑問に思う席。今学期が始まってずっと誰も使っていない。まさか欠席しているわけじゃないだろう。それだったら休みすぎだ。もう六月も中旬だぞ。
ひとまず独り作戦会議終了。
授業終了まであと三十分程度。楠居先生の集中が散っているせいか、教室のあちこちから私語が聞こえるが、僕は真面目に授業を受けよう。ノートを開く。
ふと、『そこ』に、人の気配を感じた。
僕は気配を感じたその空席に、顔を向ける。そして驚いた。
この学級が始まってかれこれ二ヶ月。その間一度たりとて、この席の持ち主はいなかった……はずなのに。
なのに、そこには――人が座っている。整った顔立ちの黒髪の女子生徒が教科書とノートを開いていた。淵の黒い眼鏡をかけていて、第一印象を言わせてもらうと、『優等生』である。
僕は何を思ったのだろう、本当に彼女がここに存在しているか、幻でないかを確かめようとしたのだろうか、突如現れた女子生徒に話しかけていた。
「誰……君?」
口に出してから、少し失礼だったな、と思う。だけど彼女は僕を見て、そんなことを気にもしていない様子で、笑みを含んだ表情で答えてくれた。
「あ、はじめまして。サカイマコと申します」
「サカ――イマコ?」
苗字と名前の区切りが分からない。もしかしたら、サカイマコという苗字なのかもしれない。どちらにしろ知らない名前だ。
サカイマコは苦笑して、手を振った。
「違います違います。堺・麻子です。本当は、六限目の最初から授業を受けるつもりだったのですけど……少しありまして。恥ずかしいので言わないですけど」
頬に赤みを差すほどの『少し』も十分気になるのだけど、それよりも気になることが山ほどある。山ほどあるが、ここは僕らしく順序立てて一つずつ質問しよう。
ごほん、とわざとらしく咳払いをしてみる。
一番気になる質問から。それはもちろん――
「堺さんは幽霊か?」
相手は整った顔立ちにクエスチョンマークを浮かべた。
「違いますけど」
「幽霊じゃないのなら、どうやって教室に入ってきたんだ?」
だって物音一つしなかったのだから。そこには何かトリックがあるはず……。
「誰もがそうするように、ドアからです。授業中なので、忍び足で唯一空いていたこの席まで歩いて座っただけですよ」
トリックなどなかった。
「しかしそれでも、ドア付近の奴らは気づいてもいいだろうに」
普段見ない人が入ってきたのだ。騒がないほうがおかしいし、こうして自由に私語をしているところを見ると、誰も認識していないのだろう。
堺さんは自嘲気味っぽく笑う。それでも画になっているのだから不思議だ。
「よく言われます。影が薄いって」
影がないんじゃないのか?
「自動ドアの前に立っても開かなかったことがあります」
「それは重症だな」
「実は押しボタン式なんですけどね!」
一本取られた!
満面の笑みを浮かべる堺さん。何故だか彼女とは仲良くやっていけそうな気がする。
そういえば、まだ聞きたいことはあった。
「そもそも堺さんは、転校生なのか?」
「いえ、欠席していたんです」
「欠席? 今学期ずっと?」
二ヶ月間も? 一年生が?
「全てじゃないですけど。この坂月高校に来たのは久しぶりですね」
久しぶり……。でも、けだし一度も教室で見たことがないだろう。うーん、入学式にでもいただろうか。
「その理由については、また後日改めてお話しさせていただきます。自己紹介は明日の朝礼のときにしようと約束しましたので」
やけにかしこまった口調でそう言われる。
「堺さん。別に丁寧語じゃなくてもいい。いつもどおりで構わないけど」
「ありがとうございます。ですけど、これが普段の私の話し方です」
それならそれ以上口は出さない。
「あ、今、おかしな奴だとか思いましたね?」
眼鏡越しに上目遣いをして問うてくる。
「え、いや、何も思ってないけど」
「本当ですか?」
「本当だ」
いやにしつこい。
まだ聞きたいことがあるけど、一旦会話を終了して前を向こう。いくら楠居先生が授業に集中していないといっても、生徒の授業態度を見ていないとは限らない。
「…………」
視線を感じる。堺さんだ。彼女はまだ僕のほうを向いていた。
「どうした?」
「いえ、まだあなたの名前、聞いていないと思いまして」
そうだった。僕が訊いてばかりで、自分の自己紹介がまだだった。このときばかりは相手のことを留意する癖をつけたいと思った。
「僕は花川春樹。よろしく」
「花川……春樹さん」
僕の名前を聞いたとき、堺さんは少し引っかかりを感じたみたいに見えた。生まれてこのかたこの名前と付き合ってきたが、もしかして可笑しな名前だったというのか? 顔には出さないが、出会った人は皆、僕の名前を影で笑ってきたというのか?
恐る恐る訊ねてみる。
「どうした?」
だけど堺さんの反応は、霧のようにはっきりしないものだった。
「……あ、いえ、何もないです。こちらこそ、よろしくお願いします。花川さん」
何か感じたのなら、それを素直に話して欲しいのだけど、初対面の人にそこまで無理強いできるほど、思い切りと勇気はなかった。
今度こそ前を向く。
そろそろ真面目に授業を受けなければと思ったけど、僕の意欲が報われることはなかった。とても授業を受けられるような状態ではなかったのだ――楠居先生が。
僕と同じくそれに気づいたらしい堺さんが訊いてきた。
「花川さん。楠居先生は何をしているのでしょうか」
「んー、あれだろ。教卓の温度でも測っているんだろ」
「頬で?」
「あくまで可能性のひとつに過ぎないが」
楠居先生は教卓に突っ伏していた。椅子に座らずに、立ったまま腰を九十度曲げて。器用なことをする。頭は痛くないのか。楠居先生が動かないのをいいことに、生徒たちも喋ったり眠ったり自由にしている。僕が堺さんと話している間に、何かあったのだろうか。終了のチャイムまで時間はまだあるから、ここで終わるのは不自然だし。
だけど僕は他の生徒たちと同じく、別に興味関心がそこまで強いわけじゃないし放っておこうというタイプの人間だった。授業が中止になるなんて願ったり叶ったりである。真鈴あやめなら、おせっかいの一つでも焼きそうなものだけど、その気はないのか、それとも事情を聞こうとしたけれど断られたか。とまれ楠居先生の周りには誰もいない。
そして、僕の隣席の堺麻子はどうやらマイノリティーだったようだ。
「私、ちょっと何があったのか聞いてきます」
と一言残して、楠居先生のところに歩いていった。ちなみにすぐ脇を通られてもその彼女に気づいている様子の生徒はいなかった。ちょっと影が薄すぎるきらいがあるなあ。
堺さんはじっと動かなかった楠居先生を起こして、数分話したあと戻ってきた。堺さんがいなくなると先生は糸が切れたように、再び机に突っ伏した。
「どうしたんだ、楠居先生」
堺さんは席に座って、スカートを整えながら答えた。
「欝状態が最高に達したようです。この授業の間は放っておいてくれ、だそうです」
「なんだそれは。どうしたんだ、先生」
「話したいのはやまやまですけど、楠居先生のプライバシーに関わることなので言えません」
……いやいやいや、なんでやねん。
「でも楠居先生は堺さんに打ち明けたんだろ? そのプライバシーに関わることってやつを」
しかし固い意志の持ち主であるらしい堺さんは折れない。
「そうですけど、駄目です」
聞いたのなら教えてくればいいのに彼女の口は堅かった。外見だけではなく、中身も真面目なのだろう。
「どうしても、というのなら花川さんが楠居先生に訊いてください」
気になるけど諦めるか。僕は大人と話すのが少し苦手だ。明確な理由はないけれど、生まれつきの性質なのだから仕方がない。授業が中止になるなんて願ったり叶ったりと前述したけれど、そうなると、それはそれで退屈だった。夏休みを心待ちにしていたのに、いざ始まってみると、漸次うんざりしてくる的な。
隣を見ると、堺さんは頬杖をついて目を伏せている。その端整な横顔は何かを考えているように思えた。
僕にも考え事の一つでもあればいいのだけど、あいにくそんなものはない。あるとしたら、真鈴の上手なあしらい方か、自分の性格の治し方ぐらい。ただ、それらを考える気はなかった。
楠居先生みたいに机に突っ伏して寝ようかな。
続きます。
……樋口有介『ぼくと、ぼくらの夏』のヒロインとはなんら関係ないです。




