二.暗号。
前回の続き。
ひとまず、数学準備室に場所を移しました。職員室を縮小したような部屋ですが、中には誰もいませんでした。事務机からできたひとつの島と、あちらこちらにあるたくさんの資料、資料、資料。一隅にあるダンボールの箱からたくさんの長定規が飛び出していて、そこは数学の部屋らしいなと感じました。
「楠居先生って、化け学の先生じゃないんですか?」
「ん。いや、数学さ。だからここに来たってわけ。そうは言っても元々理数系の人間だったから、人手不足が原因でさきの体験授業に駆り出されたんだ。いざという時や質問された時以外は見てるだけでいいと言われていたし、あれぐらいのレベルなら僕にもできるし」
ま、椅子はいくつか空いているし、座ってよ――と促され、私と花川さんは言う通りに先生の示す椅子に腰を下ろしました。
「本題に入る前に、まずは時間を設定しておこう。大事なことだ。あの時計で一時。それを超えたら君達は諦めて帰ってくれ」
制限時間は三十分といったところでしょうか。時間を制限されるってことは、私たち、あまりいいように思われていませんね。制限時間は追い払うための口実なのでしょう。
それでも、花川さんは嬉々としてうんうんと頷きました。
「望むところです。任せてください。友人程じゃないですけど、わたしもパズルや謎解きは得意なんです。むしろ、タイムリミットがあれば俄然やる気がわきます」
「それは頼もしいね。じゃ、ちょっと待ってて。今、何か飲み物入れるから」
花川さんの自信は、確かに頼もしい……ですが。少し疑問を覚えます。私が花川さんについてきたのは、どうしても断れなかったというよんどころない事情があったからです。あとついでに『ありがとう』と言われたら嬉しいな、と思っているぐらいです。けれど、花川さんは何の目的があって、こんなことに首を突っ込んでいるのでしょうか。
楠居先生が飲み物を注ぎに反対の隅へ移動したのを確認して、私は隣の花川さんに耳打ちします。
「花川さん」
「なあに」
「どうして、身も知らぬ赤の他人のお手伝いするんですか?」
「身は知っていますよ。楠居先生は学校の先生。けれどそうね、赤の他人というのは間違いじゃない。理由なんてないですよ。ただ、他人に自分と同じ状態になって欲しいと思うのは普通のことじゃないですか」
「はあ」
「例えばよくあるでしょう。結婚したばかりの人が質問されて、一言。『この幸せを誰かに分けてあげたい!』。それか、散々な目に遭い、人生のどん底に落とされた人がこう叫ぶ。『皆死んでしまえばいいんだ』。これも要は自分と同じように不幸になって欲しいってことでしょう。そんなところ。わたしは今幸せだから、他の人もわたしと同じように幸せになってもらいたいんです」
「ははあ。なるほど」
つまりは、幸せなんですね。花川さん。
ちょうど会話の切れ目を狙ったかのようにタイミングよく、楠居先生が紙コップを二つ持って戻ってきました。
「普通にお茶でいいかな。麦茶だけど」
「どうも」
「ありがとうございます」
さて、と楠居先生は暗号の書かれた紙を取り出して、花川さんに手渡しました。私は横からそれを覗きます。
「パッと見て、何かわかったかい?」
花川さんは首を振ります。
「いえ。このアルファベットの羅列と不自然なタブルクォーテーションマークとクォーテーションマーク、それからコンマ。普通にじゃ、読めませんよね。やっぱり暗号みたいです。気になるのはやっぱり縦書きだってことです。英文じゃあ横書きが普通ですのに」
「もしかすると、英語以外の言語かもしれませんね」
「いいや、一通り翻訳サイトで調べてみたけど、成果なしだった」
「そういえば楠居先生、この暗号は誰にもらったんですか?」
えっと、ね。とほんの少しだけ間を置いてから、
「と、友達だよ」
…………。
「怪しいです」
「私も同感です」
二人のジト目攻撃に負けたのか、困ったような笑みを顔に浮かべた楠居先生。それから盛大にため息をつきました。
「はあ……。僕ってなんでこう、嘘が下手なのかな。いや、でもあながち嘘でもないか。友達は友達だな。ガールフレンドだよ」
「つまりはお付き合い中の恋人さんなんですね」
「そういうことにしておいてくれ」
こういうことを聞くと、学校の先生もやっぱり人間なんですよね、と思います。当然のことなんですけど。
今度は花川さんが質問しました。
「なんと言って渡されたんですか?」
それを聞いた楠居先生は寒気でもしたように、ぶるっと震えました。
「『明日の午後五時までにこの暗号を解くこと。さもなくば、……シメルヨ』」
ああ……。それはそれは。恋人さんがどんな方なのかは存じ上げませんが、私たちにまで楠居先生の恐怖心が伝わってくるようです。青息吐息だったわけがわかりました。
お気の毒。
「それは非常事態なんじゃないんですか。ピンチじゃないですか。あと四時間しかないですよ?」
「うんまあ、花川さんの言う通りだけど……もう半分諦めてる。あいつ、強いんだよ。武道。昔何かやっていたらしくて。僕が禁止されていることを破るとすぐに手が出るし。でも強い割に頭も良いから、こんな暗号を仕掛けてくるんだと思うわけだけど」
「へえ。欠点がないとか羨ましいです」
「いや、あいつもそこまで完璧人間というわけじゃないんだけど。運は恐ろしいくらいないし。ジャンケンではあいつに負けたことがない」
「賭け事とかも苦手そうですね」
「はは、本当にその通りだ。僕と違って、あいつはそういうの全くやらないし、そういうことにお金を遣う人を見ていると、虫唾が走るってさ」
……少し、口が悪いですね。
まあ、私もギャンブルはあまり好きではないですけど。さすがに虫唾が走る、なんて言いませんけど。
ギャンブルと聞いてふと思い出しました。
「瑠璃枝先生が言ってましたよ。楠居先生、競馬お好きなんですね」
本当はただ『馬』と言っていただけですが、楠居先生がコクリと頷いたのを見て、私は自分の予想が違わないことを確信しました。
「それなりにね。昔はよくやっていたし、今はぐっと回数が減ったけれど」
話を戻していいですかと、緘黙してひとりずっと暗号と向き合っていた花川さんが顔を上げて言いました。
「どういう意図があってこの暗号を出したのかというのはわかります? ヒントになりそうなものとかは」
「特に言わなかったね。ノーヒントだし」
「え、では、どうして『シメ』られるのかも、わからないんですか?」
「まあ、そうなる。でも、僕が何かしたんだと思うよ。理由もなくそんなこと言わないから、あいつ」
……のろけ?
「進展なし、ですか」
「そうでもないですよ」
花川さんが言います。
「本当にノーヒントならば、この紙からだけしか情報を読み取ることはできないということです。だから、わたしたちはこれにだけ集中していればいいんです」
「はあ」
でもそれって進展と言えるのでしょうか。私はまた紙を覗き込みます。そこで、何か違和感を感じました。
「花川さん、私、これどこかで見たことがあるような気がします」
軽く驚いたように私を見る花川さん。
「え、アルファベットの並びですか? それともおかしな記号?」
「いえ、それが思い出せないんですよ。既視感だけです。でも、見たことがあるのは間違いないと思うんですが」
「そうですか」
無駄に期待させただけだったみたいで悪いことをしたと思いましたが、
「わたしも見たことがあるかもしれないと思ったんですけど、どうやらあながち間違いではないかもしれませんね」
「あっ」
とつに楠居先生が声を上げました。
「どうしたんですか?」
「いや、ね。そういえば一つだけ思い出したんだよ。あいつが言っていたこと」
「なんですか!」
勢いよく乗り出す花川さん。ひとりだけやる気が違います……。
「えっと、『わからないようなら、中学校の生徒さんたちに聞きなさいな』。……ははは、でもこれじゃあまるで、僕には解けないで君達には解けるってことだよね」
本気で言ったわけではないことはすぐにわかります。だから、私の隣にいる彼女が発したその台詞で、彼はわかりやすくひるんだようでした。
「ええ、解けました。その暗号」
花川さんの顔に笑みが戻っていました。でもそれは幸福感溢れるものではなく、驚く程大人びていて、先程までの彼女が別人のように感じました。
楠居先生は瞳を大きくして、確認します。
「……本当かい?」
「はい」
もちろんのこと、私も彼と同じように驚きました。花川さんはそんな私を見ます。
「堺さんもわかるはずだと思いますけど」
そうなのかい、と楠居先生が目で訴えてきた。私はぶるぶると首を横に振りました。
「いえいえ、見当もつきません」
それから、花川さんは普段とは逆の形――生徒が先生に――説明を始めました。
この少女の宣言を聞いたときは、冗談に対して、強がっただけだと思いましたが……。
「……あ」
その時でした。静かな部屋に響いたのはお腹が悲鳴をあげた音。昼食はとっていませんが、私ではありません。花川さんでもないようです。すると残るは……、
「いやあ、女の子二人の前ですまないね。実はさっきからお腹空いていたわけで。もうペッコペッコなんだけど。お昼時は過ぎているし」
楠居先生は照れたように頭をかきながら笑いました。
思わず私も笑いがこみ上げてきました。花川さんも口元を抑えていますが、目元で笑っているのがわかりました。
「そんな大きな音初めて聞きましたよ」
「そういうのは漫画の中だけだと思ってましたが……」
それでお二人さん、答え発表をする前に提案があるのだけど。鼻まで顔を赤くした道化師さんが言いました。
「どうかな、ここの食堂に行ってみないか。恥ずかしいところを見せちゃったし、昼飯をおごらせてもらうから。そこで答えを聞かせてくれ」
花川さんは『はい』と即答しました。
……まあ、私も楠居先生の二の舞にはなりたくないですし、厚意を断る理由はありません。
続きます。




