一.回顧。
堺麻子は、回顧する。花川と名乗る少女と、ため息の多い先生を悩ませた暗号に出会ったあの日のことを。
一本の電話がきっかけで私は、九ヶ月程前のことを思い出しました。やっぱりあの人は花川さんの妹なのでしょう。
二十四節気でいう、小雪を少し過ぎた頃。受験生としての意識がすっかり体に定着してしまった中学三年生の十一月下旬。
私――堺麻子は県立坂月高校の化学講義室にいました。中学生らしく、中学校の制服に身をくるんで。
今日は学校説明会なのです。
体育館での説明も終え、今から体験授業の時間となります。体験入部もありましたけれど、私は理科を選びました。
もちろん私だけではなく、教室にはほかにも中学生がたくさんいます。ざっと三十人程度でしょうか。それぞれがめいめいの中学校の制服を着ています。生徒がバラバラの制服を着て席についているというのは、ちょっと奇妙な光景です。
上下スライド式の黒板の前に、少しまんまるとした中年の男性の先生が現れました。途端、教室にぴんとした空気が張り詰め、遠慮がちな私語も止みました。新学年が始まって最初の授業を連想します。やっぱり初対面の先生の最初の授業は少し緊張しますよね。
その先生は見た目通りの従容たる調子で話し始めました。
「ええー、こんにちは。瑠璃枝といいます。化学の先生です。今日は坂月高校まで足を運んでくれてありがとう。僕なりに精一杯の授業をするつもりだから、よろしく」
どうやら、班ごとに実験器具を使って何かをするようですね。体験授業といっても、真剣に取り組んだりするようなものではないようです。
「それから、そこにいるのは今日限り僕の助手を務めてくれる先生だ」
多くの生徒と同じように瑠璃枝先生の目線の先を追うと、若い男の人が壁際で立っていました。若いといっても二十代後半でしょうが。彼は軽く会釈しました。
「楠居です。……よろしく。小一時間、楽しく過ごせればいいと思っているよ……」
何か、こう、元気がさなそうに見えますね……。
授業自体は楽しかったです。班ごとで行う実験では炎を使ったりして派手でしたし、瑠璃枝先生は話にジョークを混ぜたりして教室の笑いを誘っていましたし。一つの班が実験材料が足りないらしくて、失敗したりしていましたが、それも二度目の挑戦で成功しました。授業も上々の出来と言えるでしょう。
ただひとつ、気にかかると言えば……楠居先生。
あの方、元々がそうなのかは知りませんけれど、口を開くたびに、はあ。動くたびに、はあ。ため息のオンパレードです。楠居先生の貢献により、日本の平均ため息の数値は順調に右肩上がりの一途を辿っているでしょう(そんなものがあればの話ですが)。
「楠居先生、少し気分がブラックみたいですけど」
実験の最中に、近くを通りかかった瑠璃枝先生を捕まえて訊ねてみると、先生は苦笑いのようなものを顔に浮かべました。
「ははあ。あれですな。あまり人に言いふらしたくはないけれど、馬で負けたんじゃないかと。彼ね、馬が趣味だったんです。最近は控えていたらしいんだけど、我慢できなくなったんじゃないかな」
「へえ」
馬……で負けた。で、馬が趣味。ははあ、なるほど。競馬ですね。なるほど、それは露骨に言えません。
「もし、そうじゃなくても、彼、ナイーブですから。ああなるのは珍しくないんですよ」
世の中には珍しい人もいるものです。
そんなわけで、授業も滞りなく終わりを迎え、今日一日限りの生徒たちがぞろぞろと教室を出て行きます。見ると、楠居先生、今度は近くの空いた席に座り込んでいます。こちらから見えるのは背中だけなので、何をしているのかはわかりませんが。……あ、ほらまた、ため息をつきました。
「気になるのだったら、伺ってみたらどうです?」
声がして、はっとしました。私に話しかけたのだろうことは察せられます。声がしたほうを振り向くと、濃紺の制服姿の女の子が立っていました。身長は低く、まだ幼さが残る小さな顔。黒髪を後ろで二つに分けてます。年下かもしれませんが、中学生にはなっているでしょう。別に中学生なら誰でも高校説明会にはこれますし、ありえないことではないです。
ひとまず彼女の双眸は私を捉えているのですから、彼女が私に話しかけたのは間違いがないでしょう。
「あなたは、実験で失敗していた班の……」
少女は苦笑いして、姿に相応しない落ち着いた声で返事します。
「うん、まあ、それであってます。わたしのせいではないんですけどね」
私は小首を傾げました。
「それで、気になるとは……どういう意味ですか?」
「楠居先生が嘆息し続けていることについて。失礼ですが、あなた、楠居先生のことずっと見ていたじゃありませんか」
「は、はあ」
自分では案外気づかないものです。誤解されては困るので、いちおう断っておきますけれど、ため息以外については何も思っていませんよ?
「そういうわたしも、おそらくは無意識のうちにあそこまでため息を繰り返したりする原因を知りたいだけですけど……、ほら、何か持ってますしね」
言われて気づきました。片手に何か持ってます。
「行ってみます?」
うーん、失礼とは存じ上げておりますが、この方、ちょっと馴れ馴れしいような……。と、思っているうちに、彼女、楠居先生に話しかけております。足取りも軽く。人生を謳歌しているといいますか、動作の節々から幸せが滲みだしているような気さえします。こんな風に楽しそうに生きれたらいいですねえ。
今度はこっちに向かってひょこひょこと手招きしています。なんでしょう。ここで頬被りを決め込んで、出て行くわけにもいきませんし。
「どうしたんですか」
幸せそのものといった様子の彼女が、不幸そのものといった様子の楠居先生を差し置いて私に言いました。
「悩み事ですって」
「それは……大変ですね」
楠居先生が言いました。
「力になってくれるわけみたいで……ありがたいけれど」
え、何の話ですか。そう目で訴えると、少女は文面で見るだけでは申し訳なさそうに、顔にはいたずらっぽい笑みを浮かべて答えました。
「成り行きでそうなってしまいました」
「はあ」
成り行き……? この数秒間で? しかも私まで巻き込みますか。
「花川さん」
「あ、はい!」
花川という苗字なのでしょう。名前を呼ばれた彼女は、ますます幸せそうににこやかにしています。名前を呼ばれただけでここまで嬉しくなれるなんて……。とても口にはできませんが、変わった人もいるものです。
「申し訳ないけど、これは僕の個人的な問題なんだ。だから、他人に任せるのはちょっと、ね。そもそも君たちはこの高校の生徒ですらないんだから。迷惑はかけられないよ」
最もです。ああ、これは従うしかありませんね。
と思っていましたのに、花川さんは素直に引き下がりません。
「ですけど、楠居先生。今日一日だけはここの生徒みたいなものじゃないですか。それにわたしたち、絶対に力になります。なってみせます」
わたしたち……。もう、あっけらかんとしているしかないです。
「生徒みたいなもの、と言われたら否定はできないけど……」
「でしょう? 先生は生徒の力になるのは当然ですが、生徒も同じくらい先生の力になりたいものなんですよ」
なに良いようなこと言っているんですか。いや、普通に良いことですけど!
「はは、そこまで必死に言われては、先生として断れないね」
楠居先生はまいった、というような顔をして言いました。いや、まいったのはこっちですって。にべもなく断ってくださいよ。
一つだけ補足しておきますと、私は人の役に立つことが嫌というわけではありません。むしろ、そんなことを自分からすすんでするタイプです。――私、人から『ありがとう』と言われることがどんなことよりも好きなんです。人に話したことはないですけど。
ですけど、今回の問題は年の差というのもありますし、私たちのような子ども二人で解決できると思っていないんです。だって解決できないと、心から『ありがとう』と言われないじゃないですか。
今更ながら、花川さんが思い出したように私に言いました。
「あ、わたし、花川と申します」
「あ、堺です」
花川……。どこかで聞いたことのある響き。え、それってもしかするともしかするんじゃないですか。
前の三月のこと。私は直接関わってはいないのですが、私の慕う玉依葵さんが許せない悪戯の被害に遭いました。犯人は結局わからないまま。ですが、目星はつけてあります。『ツバキ』という人物。本名ではないかもしれません。葵さんの話から、私が『ツバキ』だと睨んでいる人物は――花川ハルキという人です。『ハルキ』にどういう字を当てるかは知りませんが、音だけで『春木』と当てはめ、それを右左逆にしますと、椿になるんです。……考えすぎな気もしますが。
ひょっとすると、葵さんのひと騒動の関係者なんじゃ……。
私は小さく首を振ります。いえ、そんな偶然はありえないでしょう。『玉依』はともかく、『花川』なんて日本中にどれだけいることでしょうか。
「おや、君達、知らない者同士だったのかい」
と、不思議そうに楠居先生。すると、花川さんは可愛らしい顔をこちらに向けて、私に同意を求めます。
「今から友達です。ねえ、堺さん?」
「え、ええ」
……まあ、こうなったのも、何かの縁でしょう。ここまで追い詰められては、逃げ出すことなどできません。
「私も、及ばずながら手伝わせていただきます」
すると花川さんはうんうんと嬉しそうに頷きます。
「ありがとう。あなた、頭が良さそうだから、助かるわ」
頭が良さそうと思われるのは少し嫌です。私はできた人間ではないです。敬語が外れたことよりも、私はそっちを気にしていました。
花川さんが、ずっと先生の手の中にあった物を指差して、
「それなんでしょう、困り事の根本は」
楠居先生は頷きます。
「そう。暗号というわけなんだ」
彼がひらひらさせた紙には、見慣れた文字達が縦に列を組んでいました。
曰く、
.a
t
p
"k
.a
e
'i
u
"c
t
'r
e
縦に並んだアルファベットと一部の文字の斜めについた不自然な記号。
これを見て、私は呟きます。
「正真正銘、暗号ですね」
続きます。
暗号文はアルファベットが縦に一列に並んでいると考えてください。




