四.春樹と堺
前回の続き。
その日は枕元に置いているケータイの着信音で目が覚めた。と言ってもまだ眠い。寝返りをうって、もう少しだらだらしてから起き上がることにする。寝ている間に汗をたくさんかいていたらしい。シャツがじめっとしていて、少し気持ち悪い。まあ、夏だから仕方のないことだけど。……いや、しかしおかしいな、まだ着信音は止まらない。そこから、寝ぼけた脳が現状を理解するまでは数秒を要した。――電話か!
「こんにちは、花川さん。堺です」
電話をかけてきたのは昨日の夕方と同じく、堺さんだっだ。相変わらずハキハキとした口調だ。
「……ん。ああ、おはよう」
目をこすりながら応えた。すると堺さんは様子を伺うように、
「あの……、もう、お昼時ですよ?」
「……ん。ああ、そうみたいだな」
時計を見ると、十二時を少し過ぎていた。夏休みも終盤になり、いよいよ昼夜逆転になりつつある僕の生活リズムからすれば、これぐらいがちょうどいい起床時間だった。
だが、さすがに起きたばかりなのをあからさまにするのは気が引けたので(もう遅い気もするが)、相手に一言断ってから、顔を洗うことにした。
「…………」
冷たい水を顔に当てると、驚くほどはっきりと頭が冴えてきた。
――何やってんだろ、僕! まさに今起きました的な雰囲気出したりして格好悪い! しかもよりによって堺さんからの電話で! というか折り返して電話すればいいのに繋げたまま置いてきちゃったよ、早くしないと!
「お電話変わりました。花川春樹です」
「あれ、えっと……、花川さんですよね。さっきのも」
戸惑う堺さんの言葉を僕は否定した。
「いいえ。さっきのは双子の弟である夏樹です。先ほどは本当に失礼致しました。弟は馬鹿だから、寝ぼけて僕のケータイを取ってしまったんです。あとできつく叱っておきます」
僕が取った作戦というのが、家族への責任転嫁である。それも、架空の。
「そうですか。花川さんが言うのなら、そうなのでしょう」
まさか今の嘘を信じてくれたのか? よかったと安堵する反面、聖者である堺さんを騙してしまったと後悔している僕がいた。
「ですが今回、私、弟の夏樹さんのほうに用事があったんです。代わってもらえませんか? それとも、『変わって』もらえませんか?」
甘かった。もう普通にバレていた。……ういしょっと。
「ごめんなさい。二人兄妹なので双子なんていません。電話越しには分からないと思うけど、土下座しています、今」
すると相手は、ふふ、と笑って、
「許しますよ、もちろん。私も今まで嘘をついてこなかったわけではないのですから。むしろ人より多いでしょう。それに、花川さんのは人を楽しくさせてくれる諧謔的な嘘ですので」
「……」
何とも言えなかった。堺さん、ちょっと僕を過大評価しすぎなんじゃないだろうか。
部屋の壁にもたれかかり、白い天井に視線を投げながら、一つ訊ねる。
「ところで、昨日の夕方の件、どうなったんだ?」
前日の五時頃。久しぶりに僕のケータイが着信を告げたかと思うと、堺さんからで、さらにメールではなく電話だったから二度驚いた。要件は、お土産は何がいい、というような話だったのだけど、話題は転がりに転がり、いつの間にか謎解きをしてしまっていた。何でも、友人が体験した幽霊騒ぎについてらしい。
「それについてはありがとうございました。おかげですっきりしました。確かめたところ、それで合っていたそうです」
「それは良かった」
「あと花川さん。私、謝らないといけないことがあるんです」
急にかしこまった口調になった。
「お土産の件ですが――、すみません、八ツ橋はちょっと無理です」
「そうなのか」
堺さんがお盆を利用して、京都に旅行に行っているらしい。楽しみにしていたのに。あと、僅かながら、舞妓に扮して三味線を引く堺さんを想像したりもしていた。本当に僅かだけど。小指の甘皮ほどだけど。本当に。
「旅行に来ているのは来ているのですが、県内ですので」
堺さんの言葉に疑問を抱く。どうしてそんな嘘をついたのだろう。だが、問う必要はなかった。
「突然ですが、私が泊まらせてもらっているご家庭のラストネームは『玉依』といいます」
「ゔぇ?」
藪から棒だった。思わず変な音が出てしまったじゃないか。玉依なんかいう珍しい苗字を持つ人とそう何人も出会ってたまるか。まさか堺さんの口からその名前を聞かされるとは思わなかった。
それでも、一縷の望みを託して訊ねてみる。
「まさか違うとは思うけれど、そこのご家庭の長女って花の名前だったりしないよな」
「ええ、『ア』から始まりますね」
「なんだか『イ』で終わりそうだな」
「それに、弟さんもいますね」
「その弟は変わった名前だったりするのか」
「ふふ、共通点が多いですね。偶然でしょうか」
「必然だろ」
含み笑いする時点でふざけているのがわかった。
「……すみません。実は私、葵さんと幼馴染だったりするわけです。泊まらせてもらっているのはそのよしみということでして」
やっぱり玉依先輩の家だったのか。別れの挨拶もなしに消え、約束を破って僕を何時間も駅前に残して風邪を引かせた張本人。
「あれ、あまり驚いていないようですね」
「そんなことないぞ。心拍数が絶賛上昇中だ」
ドクンドクンいってる。だって、一年半来の謎が解けるかもしれないのだから。
「ということは、知っているんだな。あのこと」
「はい、知っています。だから、京都に旅行だと嘘をついたわけでして。葵さんの卒業式の日にあったことでしょう?」
少し間を置いて、葵さん視点でですが、と付け加えた。
いつの間にか汗ばんでいた右手から左手へケータイを持ち変える。
「あの日、どうして玉依先輩は駅前に来なかったんだ? 何の用事だったんだ?」
「用事……というわけではないそうですけど」
「じゃ、どうして?」
あまりいい答えが返ってくるとは思えなかったが、つい訊いてしまう。
「葵さんはあの日、酷い悪戯にあったそうなんです――」
それから、堺さんは卒業式に起きた出来事について話してくれた。ブログをしていたこと。そのURLが黒板に書き出されていたこと。犯人は結局わからなかったってこと。
「……なるほど。じゃあ、玉依先輩が来なかったのは、その悪戯の犯人が僕かもしれないと疑っていたから、か」
「はい、おそらく。実は私はその話を葵さんが引越ししてすぐに聞いたんです。だから私は、花川さんに出会うよりも前にあなたのことを知っていました。いつかの『結婚指輪物語』事件のときに言いましたよね。花川さんと何某さんの噂を耳にしていたって」
二ヶ月前かそこらの会話が蘇る。
「その噂は紛れもない当事者から聞いていたってことか。堺さんはあえて玉依先輩の名前を伏せていたんだな」
すみません、と申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「いや、いいんだ、別に」
「ありがとうございます」
堺さんが、話が逸れましたが本題に入らせてもらいます、と言って脱線した話題という列車を正しい線路に戻す。
「花川さんが頭脳明晰、温厚篤実、真実一路、優柔不断、外柔内剛だと知っての頼みです」
「やけに褒めるんだな」
……って、うん? 優柔不断って褒め言葉か……?
堺さんはいつもより更に真面目感を漂わせた口調で話し始める。
「正直に申し上げますと、卒業式の話をうかがったとき、私も花川さんのことを疑いました。でも、今は違います。知らず知らずのうちにあなたを頼ったり、たくさんお話しました。ゲームもしましたし、友達想いな方だとも知りました。今もこうして電話してます。今まで葵さんのことを隠してきましたが、もうしません。花川さんはそんな悪戯をするような人ではありません。……だから」
ちょっとばかし照れくさい。自分の顔が夏の暑さとは関係無く熱くなっているのを感じていた。
「――花川さん。葵さんと仲直りをしてくれませんか?」
虚を突かれた気分だった。別に気が進まないわけではないが。
「てっきり捜査してくれないかと言われるんだと思った」
「いえいえ、それは私がします。これ以上、花川さんに迷惑をかけたりしたくないので」
別に、迷惑ってほどじゃあ。
「葵さん、花川さんに関係する言葉を口にするだけですぐに暗くなるんです。昨日の夜なんて、私が幽霊騒ぎの答えを花川さんから教えてもらったことに勘づいて、普段は絶対に口にしないであろう台詞を並べていましたし」
「何だ、それ?」
「えっ?」
「いや、ちょっと気になったもので」
玉依先輩がどんなことを言ってたのかなーって。
「……はあ。まさかそこに食いつくとは思ってもいませんでした。いや、いいんですよ。花川さんは稀有な探偵の素質の持ち主ですから、細かいことを気にして当然なのです」
ため息を吐いた直後にフォローされても、と思う。というか細かいこと聞いてしまってすみませんね。
「嘘をついてはいけないときつく言われたのです。それで、頼み事の返事は」
「どんな嘘ついてたんだ?」
「えっ? えっと、……気になりますか?」
「少し」
そこからしばらくの間があった。どうしたんだと思い始めたあたりで向こうが口を開いた。
「……例えば、丁寧語を使う理由です。ほら、以前に言ったでしょう? 将棋部とのいざこざで花川さんに協力してもらったときに」
「ああ、そういえばあったな、そんなの」
口ではそう言うけれど、僕は別に協力はしていない。ただ眺めていただけだ。
「そのときの勢いで色々話しましたよね。私が帰国子女だってこと、丁寧語なのは帰国後にニュース番組ばかりを見ていたせいだってこと。今考えたら、これも違和感ありまくりですよね。どこの世界にニュース番組ばかりを一日中見ている女子高生がいるんですか」
「それもそうだ。それなら、堺さんが丁寧語でいる本当の理由は何なんだ?」
「あ……えっと……」
しどろもどろになった。訊くべきじゃなかったか。
「……」
終いには静寂が降りてきた。
「別に無理して言わなくていいんだぞ」
「いえ!」
割と強い口調だった。それからまるで早口言葉のように言葉がケータイから流れて込んできた。
「私の元々の癖です。私、親にも丁寧語です。年下にも丁寧語です。親しい人にも丁寧語です。仮に弟や妹がいたとしても、丁寧語で接していたでしょう。――こんな私のこと、どう思いますか?」
「あ、えっと」
しかし僕の答えなど初めから待つつもりではなかったとでも言うように、堺さんは先を述べた。いつもと変わらない落ち着いた声に戻って。
「気持ち悪いでしょう? そんなことを他人に思われたくないから、何かと理由をつけて隠し通してきたんです。このことを知っているのは幼馴染の葵さんぐらいです」
「いや、僕は気持ち悪いと思わないぞ」
それも個性なんじゃないだろうか。
「ありがとうございます。でも、あまり言いふらさないでくださいね」
「もちろん」
「ちなみに小さい頃海外に渡ったのも真っ赤な嘘です。海外に行ったことも一度しかありませんし。ちなみにそれは中学三年生の三月から、高校一年生の五月までです」
ものすごく真実を誇大しているな。事実はたった三ヶ月じゃないか。帰国子女なのはあながち間違いでもなかったわけだけど。
「私、この高校では帰国女子キャラで通していこうと思っていたんです。日本語より英語が得意な、日本文化より海外文化のほうが慣れているような。ところどころにその節があったでしょう。ほら、一年生を十年生なんていう言い間違いをしたりして。今思えばわざとらしいですよね、格好悪いです」
「まあ、な」
そういえば、引っかかった言葉があった。
「今、思い出したけれど、初めて堺さんに会った日の帰り道の会話、覚えているか? 兄弟の話についてなんだが」
「ええ、まあ。真鈴さんの友達の友達の件があった日ですよね。おまもりの。ある程度は覚えてます。それがなんですか?」
「堺さん、僕に兄弟はいるのかと訊いたよな。あのときは別に気にもしていなかったけれど、少し違和感があった。話題の転換だけど、高校に入った理由を聞いていたよな。堺さんは『兄がいるから』と答えて、次は僕に話を振ってきただろ。僕も訊かれるんじゃないかって、少しだけ身構えていたけれど、質問の内容は『兄といえば、兄弟はいるんですか』で、肩透かしを食らった気分だった」
「そういえば、そんなこともありましたね」
「『兄弟はいるんですか』のあと、『妹とか、お姉さんとか』と続いた。僕はそれに『椿という妹がいる』と答えた。堺さん、僕の名前を耳にしたときと同様に、少し様子が違った。推理というには少し根拠は弱いけれど、知っていたんじゃないか。僕に女兄弟がいることを」
少し考える時間を置いたけど、堺さんは割とあっさり、口を割った。
「花川さんには敵いませんね。――ザッツライト。私、椿さんのこと、知っていました。名前を知ったのは花川さんが先ですが、出会ったのは椿さんが先です。でも、花川さんの兄妹とは知りませんでしたので、ちょっと鎌をかけてみました。その話に繋げるのが目的だったので、兄はいません。一人っ子です。嘘ついて、すみません」
悪戯っぽく笑う堺さんの顔が浮かんだ。
「学校説明会で出会いました。彼女のオーラっていうか、雰囲気っていうか、そんなのがあなたに似ていたんです。だから、もしかすると、あなたの親戚かもしれないと思ったわけで」
そこまで言ってから、彼女は思い出したように、だから今は私の話ではないんです、と再び逸れた話題を元に戻した。えほん、とわざとらしい咳が聞こえてくる。
「それで、葵さんと仲……」
そこで声が途切れた。口をつぐんだみたいだ。どうしたんだ、と声をかけようとしたけれど、堺さんの慌てるような声が流れ込んできた。
「いや、違いま――違います。花川さ――りません!」
言葉は僕に向けられたものではないみたいで、聞きづらい。向こう側にいる人に対して喋っているのだろう。
「いえ、だから――」
そこで突然、電話が途切れてしまった。思わず切れたケータイの画面とにらめっこしてしまう。何があったのだろう。誰かと口論っぽいのをしているようだけど……。
「うーん……」
……かけ直すか。
数コール経ったあと、相手が応答した。
「はい。どなたでしょうか」
言葉は丁寧だが、明らかに幼そうな声色。堺さんではない。というか男の子だな。堺さんはこの子と押し問答していたのだろうか。
「えっと、堺さん本人はどうしたのかな」
「どなたでしょうか」
質問に答えないとは生意気な餓鬼だ、と思ったが、よく考えてみれば初めに相手の問いを無視したのはこちらである。
だが、こちらが名乗るより先に、向こうが妙なことを口にした。
「あなたが『マスズ』さんですか?」
堺さんに関係していて、マスズというのが人名なのであれば、それは同級生の真鈴あやめを指しているのだろう。玉依も中々に珍しい苗字だが、真鈴にも同じことが言える。だけど、どうしてその名が出てくるのか?
「いいや。堺さんの同級生の花川。だが、どうして僕のことを真鈴だと思ったんだ?」
「花川さんですか。ですがあいにく、麻子さんは僕の姉と言い争いをしているので、しばらく電話に出れそうにありません」
質問に答えろよ!
「ではまた折り返して――」
「ちょっと待った!」
思わず声を荒げてしまう。勝手に話を進められては困る。というか終わらせてもらっては困る。
「堺さんは玉依家に泊まっているそうだな。それならば、『僕の姉』とは玉依葵のことだろうから、君は――カモくんか」
名前を耳にしたことはあるが、会ったことはない。昔、玉依先輩が言っていたけど、なるほど、これは生意気そうだ。顔が見てみたい。
「そうです。玉依家の長男です」
相手が肯定したところで、もう一度訊ねると、相手は思いのほかすんなりと口を割った。
「『マスズ』という名前を出したのは、麻子さんが言っていたからです。麻子さん、その人と喧嘩をしたみたいで。裏切られたと落ち込んでいました」
耳を疑う。堺さんが、真鈴と喧嘩? 何かの冗談だろ?
「花川さんでしたっけ?」
僕が呆気にとられている最中、彼が釘を刺してきた。ちょこざいな丁寧語で。
「麻子さんに手を出さないでくださいよ。今は僕を無視してばっかりだけど、いつかは振り向かせてやるんですから。年上でも、わしの邪魔をするというのなら、容赦しない」
急で一方的な宣戦布告と、変化した一人称にたまげた。さすがの僕でもこの言葉の意味を理解できないわけじゃない。
初めに頭に浮かんだことを口にした。
「おませだな、お前。姉にそっくりだ」
ブツッ。不愉快な音を出して通話は終わってしまった。……怒ったのか。
訊きたいことはさらに増えてしまったが、堺さんはお取り込み中だそうだし、さっきカモくんが言っていたように、折り返しを待つかな。
僕が朝昼兼用の食パンを食べていると、ほどなくして、謝罪の言葉とともに堺さんが電話をかけてきた。
「すみません。突然、背後に葵さんが現れて、花川さんと電話しているのかと訊いてきたんです。葵さんの前で花川さん関係の単語は禁句ですので、一度は否定したのですけど、嘘だと食い下がってきて。携帯電話を盗られまいと電話を切ってしまいました。あとそれから」
それからもう一度、謝る。
「さっき頼んだ『葵さんと仲直りして』というのは、延期してください。すみません。まだ花川さんのことを切り出すのは無理そうですので。そうですね、文化祭のときにでも誘っておきますから」
延期も何も僕はその頼み事をまだ了承していない。だが黙っておくことにした。代わりに別の疑問を呈してみる。
「堺さん。さっきカモくんに堺さんが真鈴と喧嘩をしたと訊いたのだけれど」
「それは私の問題ですので、気にしないでください」
僕の言葉にかぶせるように強い口調でそう言われた。事実だったのか。
それから僕が何か言うのを察知してか、
「では、次に会うのは夏休み明けですね」
彼女は早口で、否応無しに話を締める。
「さようならです、花川さん」
さようならと返す間も無く、電話は切れた。
僕は通話終了の画面をぼーっと見つめながら、頭をかく。本当に放っておいて大丈夫なのだろうか。
ありがとうございました。




