三.真実と嘘
前回の続き。解答篇。
空は赤と青が混ざった神秘的な紫色。夕陽に照らされた雲は絵の具のような赤で塗られています。
「綺麗ですね……」
思わず呟いてしまうほど、不思議な魅力に溢れています。
「麻子さんのほうがきれ――痛い!」
隣を歩くカモくんが何かを呟きましたけれど、うまく聞き取れませんでした。言っている途中で更にその隣の葵さんが彼の頬をつねったのも相まって。
「何すんだよ、ねーちゃん!」
どうしてでしょう、ものすごく既視感が……。
「おませさんは黙っとれ」
「浴衣姿も綺麗なんだから仕方ないでしょー、だ!」
「だからそういうことをいちいち言うな、うるさいから!」
「あ、分かった、ねーちゃん、麻子さんに負けてるからひがんでいるんだ!」
「ああ、もう、だからそれをやめて!」
カモくんと葵さんは何を言い合っているのでしょう。確かに、私と葵さんは浴衣を着込んでいます。私は川が流れる模様の水色、葵さんのはちらほらと花柄が見える彼女に似合ったオレンジ色。カモくんはシャツにカーゴパンツの洋服ですが、雰囲気に合わせようとしたのか、靴ではなく下駄。歩くたびにそれぞれの足元から、カランコロンと子気味の良い音が鳴ります。
葵さんは袖をひらつかせ、遠くを見るように手を目の上にかざして、おじさんのような口調で呟きました。
「おやおや、迫ってきたねえ、夏祭り」
夏空は夜が迫ってきている様子ですが、視線を下に下げると、向こうの方で露店や提灯の明かりが溢れていました。露店に挟まれた道路を、波のようにたくさんの人が行ったり来たりしています。ここらは祭りに向かう人、帰る人がまばらに行き交いしていて、まだ静かなほうですが、あちらは賑やかに違いありません。
これは、ここらで数十年前から毎年やっているらしいお祭りです。昔は少年たちがお神輿が担いだりしていたそうですが、今となっては露店と盆踊りだけ。それでも人は例年通り、たくさんやってくるみたいです。少し早めの夕食を済ませたあと、葵さんとカモくんとやってきました。
「フタバも来ればよかったのになあ」
坊ちゃんは残念ながら、夜だから駄目、とお母さんにたしなめられていました。仕方ありませんね。暗くなると母親としては、人気の無い場所はもちろん、逆に、人の多すぎる場所にも行かせづらくなるでしょうし。
騒がしい空気もそこまで近づいてきたところで、葵さんが口を開きました。
「アサちゃん、さっき家を出る直前に誰かに電話をしていたみたいだけれど、誰に? お父さんとか?」
「いいえ、違います。学校の友人に、お土産何が欲しいですか、と訊いていたんです」
嘘はついていません。本当のことを言っていないだけで。私はぽんっと手を叩きました。
「あ、そうですそうです。葵さん、分かりましたよ。――幽霊騒ぎの真相!」
「おっ。やるね」
視線の先、絶えず動く人の群れの中に、浴衣の赤や青が垣間見えます。ソースや甘い物の匂いが漂ってきました。いよいよ、夏祭りという感じがします!
この場で話すことではないような気もしますが、今、言っておかないとまた忘れてしまいそうなので。
「答えが分かったときは、いつかの『廃祉』事件のことを思い出しました」
言ってから、しまった、と思いました。葵さんの前では、花川さんに関係のある単語はタブーだからです。
しかし、葵さんは、
「え、何て言ったの?」
と訊き返してきました。どうやら、聞き取れなかったようです。内心で胸を撫で下ろしました。
聞き取れなかったのは当然といえば、当然です。人の波に入り込んだ途端、さっきとは段違いにたくさんの音、声が耳に入ってきましたから。余程注意して耳を傾けないと分かりません。
「わあ、わあ、わああ」
カモくんなんかは、様々な露店に目を奪われています。年に数度のお祭りに、言葉にならないほど感激していました。
……うーん、やっぱり、ここは素直にお祭りを楽しむべきですね。反省します。
私は袖を抑えながら、少し先にある見慣れた機械を設置している店を指差しました。
「――葵さん、あの綿菓子とかどうですかっ?」
夜空に浮かぶ上弦のお月様をぼんやりと見つめながら、私は言葉を投げかけました。
「さっきは話す機会を逃したので、今、幽霊騒ぎについて話していいですか?」
「いいよ」
お祭りからの帰り道。思ったより長く楽しめました。でも、下駄の鼻緒が当たって足が痛いです。足も疲れましたし。カモくんは元気一杯にはしゃいではしゃいで、最後には葵さんにおんぶされて夢うつつといったご様子。浴衣だから普段着よりも背負いにくいだろうに、あんなにきつく言う葵さんもやっぱり立派なお姉さんなのです。反対にまだ子供っぽさも残しているんですよね、カモくん。でもまあ、葵さんも下駄に足が耐えられなくなってしまったらしいので、彼女は素足でアスファルトの上を歩いていて、私が姉弟分の下駄を持っています。
「それじゃ、話させていただきますね」
花川さんが真相を教えてくれる時のように、順序良くを心がけながら。
「このケースの起因となったのは、日本でのみ縁起の悪い数字が存在したためです」
「ずいぶん、ざっくりと言うんだね。何のことやら」
「葵さんの部屋は三一八号室だったんですよね。それで、最初に盗聴した部屋が三一七号室」
「盗聴だなんて人聞き悪いなあ」
抗議を示すように葵さんがぷくっと頬を膨らませました。
「A、Bの後に、Cが来るのは誰にでも明白なことです。なので、一般論で考えれば、七、八からの九。だから、幽霊騒ぎの部屋は三一九号室となります」
「ギリシャ文字ならば、アルファ、ベータの後にはガンマが来るけれどね」
「混ぜっ返さないでください」
おお恐い恐い、と葵さん。気にせずに続けます。
「葵さんたちは部屋の割り振りを、出席番号順の名簿が載ったしおりを見て調べたと言いました。『十六番・堺麻子・三二五号室』みたいな感じですかね。それが番号順にずらりと並べられているのでしょう。ここで重要なのは、部屋の番号からメンバーを調べたのではなく、出席番号順に並んだ名簿から部屋のメンバーを調べたということです」
私は下駄を持ったまま、人差し指をひょこっと立てました。
「言いたいことを簡潔に言い表すと、例え、とある一つの部屋が無くても、気づきにくいわけです」
よっこらしょ、と掛け声を発して、葵さんはズレ落ちかけているカモくんを上げました。
「それでそれで?」
「それならば、こんなこともありえるわけです。三一九号室は初めからそのホテルには存在しなくて、葵さんたちの隣の部屋が三一九を飛ばした三二〇号室だとしても、葵さんたちは気づかない――みたいなことが」
いつの間にか、前後を歩いていた、お祭りから帰る途中のグループもいなくなっていました。歩道を歩いているのは私たちだけでした。さっきまでの喧騒が嘘のように静かです。
「ここで最初に言った、『日本でのみ縁起の悪い数字』が関係してくるのです」
「うんうん」
「四は語呂合わせから、死に繋がると言います。これは割と有名ですね。同じように、九も苦に繋がるという考えも存在します。四は幸せに繋がってくれれば良かったんですけど」
「そんなのは人の考えよう。ポジティブにね。九はアラビア数字の形が小文字のGに似ているから、『グッド』に通じるというのも人次第だね」
なるほど。その発想はありませんでした。
「話を戻します。ホテル側としては、迷信だとしても、縁起が悪いと言われる数字は避けたいわけじゃないですか。幽霊の類を信じたりしなくっても」
「だから?」
葵さんが先を促します。
「『そのホテルには三一九号室が存在しない説』の裏付けになります。葵さんたちは三一九号室に泊まっている人たちがいないから、隣の部屋には誰もいないと解釈してしまいました。本当は、物音は三二〇号室から聞こえたのに。――枯れ尾花も何も、初めから存在していなかったなんて、世話ないですね」
ふふ、とカモくんを背負いながら、葵さんが微笑を浮かべました。
「すごいね。わたしの話だけで、ここまで詳しく分かったのは、アサちゃんだけだ。他の友人は一人も分からなかったのに。わたしの説明が下手なのもあって」
この答えが正解だったんですね。
「確証――というほどではないのですが、証拠みたいなものもあるんですよ」
「へえ、何なのかな」
褒められていい気になってしまったのでしょう、私は思いついたことを残らず話してしまうことにしました。
「葵さんがこの話をしようとした時のこと、覚えていますか?」
葵さんはカモくんの前に回した両腕で動きにくい首をわずかに傾げます。
「ううん。あまり覚えてないけれど。それがどうしたの」
「じゃあ、言いますね。葵さんが私に幽霊騒ぎの話をしようと言ったその直前、あなたのお父さんがこう言ったのです。『あると思っていたものがなかったから拍子抜けしたよ』。葵さんはこの台詞を聞いて、幽霊騒ぎのことを思い出したのでは? 幽霊騒ぎも、真相は『あると思っていたものがなかった』のですから」
私が言い終えたとき、葵さんは言葉では言い表しにくい、微妙な表情を浮かべました。苦虫を噛んだような、喜んでいるような。一瞬、裸の足がガラスでも踏んだのではないかと心配しましたが、違うようです。葵さんの足取りはしっかりとしています。
「まだ、家まで距離あるし、わたしからも言わせてもらおうかな。……本当は黙っておこうと思っていたのだけれど」
「何をです?」
「アサちゃんね、お祭りのところに来たときに、この話題を持ってこようとしたでしょ? どうして伸ばしたのかは知らないのだけれど」
「え、ええ、そうです」
葵さんは明かりの少ない道の先を向いたまま、言います。
「『あ、そうですそうです』と言ってから、話そうとしたんだよ、アサちゃん。ということは、その直前にあった何かが、思い出すきっかけになったってこと。先のキミじゃないけれど、何だったか覚えている?」
つい二時間そこら前のことです。記憶を探れば、すぐに思い出すことができました。確か、あの時葵さんが――、
「わたしがアサちゃんに、さっき誰に電話をしていたのと訊いたんだよね。アサちゃんはお土産のことで友達にって答えたけれど」
彼女が何を言いたいのかは、すぐに勘付きました。しかし、もう遅いです。過去に戻ることができない限り、言ったことを取り消すことはできません。
葵さんが言います。わたしを見ずに、独りごちるように。年の差があるとはいえ、小学校高学年のカモくんを背負っていることなど苦にもしていないように見える無表情で。
「アサちゃんは、その友達に幽霊騒ぎの真相を見破ってもらったんじゃないの? その友達……、花川少年に」
花川さんのことは、葵さんの前ではタブーです。そう思っていたのに、まさか彼女のほうから彼の名前を出してくるとは。……いいえ、違いますね。私がそうさせてしまったんですよね。
嘘を言うことはいけないことです。ですが、黙っていても、嘘はつけるものなのです。悪意はなくとも、相手に正しい情報が伝わらなかった時点で、それは嘘になります。
ですが、分かっていても、私は笑みを浮かべて、こう答えてしまうのです。
「違いますよ。いくら私でも、人から教えてもらったことを自分が考えたことのように話しはしません」
葵さんは私を一瞥してから、そう、と呟きました。それからおもむろに俯き、ポツリポツリと言葉を絞り出すように言いました。
「アサちゃん。今からわたしが言うことをね、聞かないで欲しいの。自分勝手な想像と妄想ばかりだから。――独白なのであって、告白じゃないのだから」
「…………」
「アサちゃんは、嘘つきだよ。昔からそう。皆よりちょっと頭が良いからって、都合の悪いことは全部隠してね。会うたび、いつも違和感があるもん。あれ、何かおかしいような気がする、でもどこがおかしいのかは分からない。ミステリーなんかじゃ、そんなことを思う探偵役は究極的に、どこに異変があるのかを見抜いてしまうのだけれど、わたしはそうじゃないから、最後までおかしいところが分からない。
でもね、今回、それがやっと分かったんだよ。
アサちゃんは、堺麻子というキャラクターを作りたいんだね。分身を演じたいんだよ。真面目で、聡明で、優しい。悪いところなんて一つもない、それでいて完璧主義者の。そのために嘘をついているのだと思うんだ、わたしは。
だって、子供が嫌いだなんて、他人に知ってもらっても、面白いことなんて何も無いでしょ? わたし、知っているんだから。気にかけるふりはしても、カモとフタバには自分から話しかけることなんてほとんど無い。幽霊騒ぎの話をしているとき、フタバがやってきているのに気づいていたのに、わたしが言うまで無視していたよね。さも、言われてから気づいたように振舞っていた」
……否定できません。だって、フタバくんが去っていくとき、現れたことすら知らなかったはずの私が、来たときと同じようにトテトテと戻っていったなんて、分かるはずがないのですから。
私は今の突きつけられた真実だけで十二分に悔悟しているというのに、葵さんはまだ続けます。
「アサちゃん、『私、子供好きですし』と言っていても、フタバとのお買物を頼まれたとき、笑顔が少し引きつっていたよ。自分でも気づかないうちなんだろうけれどね。フタバが無口なのは、それが怖いからなんだろうと思うよ、わたしは。カモにはそれが少ないからか、それとも彼が馬鹿なだけなのかは分からないけれど、この子はひたすらあなたにアタックしているけどね」
「違います」
この葵さんの言葉の中に、無視できない単語が含まれていました。
「私に対する考察は、葵さんの言うことだからほとんど合っているでしょう。でも、カモくんは馬鹿じゃないです」
「アサちゃん、これはわたしの勝手な独り言だよ。口は出さないで欲しいな。そうやっていい子ぶるのも好きじゃないよ」
そう言って、平生と同じように笑うその顔を見て、ヒヤリと背筋に悪寒が走りました。
……玉依葵さんは、明らかに変わっていました。多分、一年半前のときから。天と地がひっくり返ろうが、人が傷つくような事、冷たい事は言わない人だったのに。そんなにも、卒業式の日のことが影響したのでしょうか。
「ま、聞いているのなら、別にそれでも構わないよ。――アサちゃんってさ、もしかして学校でも友人に嘘をついていたり、する? 例えば、あなたが敬語で話す理由とか」
「……」
「その顔は図星かな。……いや、別にいいんだよ? 誰だって嘘はつくものだから。むしろつけない人なんていないだろうし。――大事なのはその加減と場面。必要以上に嘘をついていたら、肝心なときに、人に信じてもらえなくなるよ。狼少女になっちゃうよ」
それから少し間を置いて、
「人を騙すのなら、他人だけじゃなくて自分をも傷つける覚悟をしないといけない」
そのような忠告を聞いても、そうですか、としか答えることができませんでした。あまりにも深く烈しく、辛辣に心に突き刺さり過ぎたためです。
見上げた夜空は、夏にしては恐ろしいほどくっきりと縁どられた白い月が浮かんでいました。
葵さんが、『冗談だよ! 気分を変えてみただけ』と無理に明るく取り直しても、わたしはしばらく何も言えませんでした。
続きます。




