二.幽霊と朝
前回の続き。問題篇。
「いらっしゃい」
玄関では、綺麗な玉依母と彼女の手を握っている男の子が迎えてくれました。
「おじゃまします」
言っても、男の子は口をつぐんだままです。
「ほら、麻子さん来たわよ」
母親に言われて、男の子はおぼおぼと口を開きました――が、声が出てきません。それでも葵さんとカモくんと――玉依父は用事があるらしく、そのまま出かけてしまいました――靴を履いたまま言葉を待っていると、私たちの視線から逃げるようにうつむき、終いには玉依母の手を放して廊下の奥へ、ダダダダッと去っていきました。
玉依母がその整った顔を困らせたようにして、
「カモや葵と違って恥ずかしがり屋なの。個性だから別にいいのだけれど……」
去っていった男の子は玉依家の三人姉弟の次男です。フタバくん。葵さんが十七歳、カモくんが十一歳、その坊ちゃんが五歳になります。
玄関で突っ立っているのも何だし、という玉依母の言葉で、改めて、おじゃまします、お世話になります、これつまらない物ですが、と一通り決まった挨拶を手順通りに済ませて、上がりました。
荷物を運び終え、夕食の準備まですることのない私たち三人は、リビングのソファーにそれぞれもたれかかりました。
「フタバはどこにいったんだろ」
葵さんは膝を抱きかかえるようにして、小首を傾げました。
「さあ? 最近あの子、お手伝いがマイブームになっているからね。お母さんの手伝いをしているんじゃないかな?」
「いいことじゃないですか」
それから、私は身を乗り出しました。
「それで、何ですか? 不思議現象というのは?」
「拍子抜けするから聞くのやめといたほうがいいよ」
とカモくん。
「あんたは黙っときな。――あれはね、わたしが今年、修学旅行で沖縄に行ったときの話なんだ――」
気のせいでしょうか。話し方がまるでホラーっぽいのですが。下手に語り手の邪魔をするとカモくんみたいに言われそうなので、口は挟みませんが。
「昼間はシュノーケリングとかカヌーとか、あまり体験できないことをして、有意義に過ごしたんだ。事が起こったのはその夜、ホテルでだった。夕食の後、各自、『修学旅行のしおり』を頼りに、割り振られた部屋に入ったの。出席番号順に誰が何号室みたいな感じで書かれているから、馬鹿でも分かる。一つの部屋に三、四人くらいだったかな。もちろん男女別にだよ。綺麗な月の夜だった。友達二人によってベランダに締め出されたからよく覚えている」
ホテルに泊まる修学旅行ではよくあることですね。私はないですが。葵さんは続けます。
「ま、そんなことはどうでもいいわけ。問題はその後、就寝時間に入ってからだよ」
「葵さんが素直に寝るとも思えませんね」
「うん、よく分かってらっしゃる。ベッドの上で横になったまま、ベラベラと喋ってたの。テレビとか点けながら」
「先生に怒られないんですか?」
「いや、怒られるよ。だから、電気を消して、外からは寝ているよう見えるよう偽装するの。見回りの先生が来たら、テレビ消して、狸寝入り。楽しかったなあ」
中にはそのまま完徹する人もいるでしょう。私の場合は短針がてっぺんを回ると、身体が勝手に眠りにつこうとするので少し難しいですが。
「今夜はずっと麻子さんとお喋りできるね、ねーちゃん!」
とはカモくんの言葉。
「あんたは別の部屋よ」
「えー」
思い切り不満の声を出すカモくんを無視して、葵さんは話を戻しました。
「でね、一晩中話していたら、永遠に尽きそうにないと思っていた話題が尽きてくるの。いつからか、小音量のテレビを見ながら笑うだけになっちゃう」
「はい」
「それで、一人が横になるのに飽きたんだ。ばっと立ち上がって、『まだ皆起きているかしらん』て言って、馬鹿みたいに壁に耳をつけたの。そしたら、『かすかに物音が聞こえる』って」
「それで?」
「そんなこと言われたら、やっぱり気になるじゃない。残りのわたしたちも確かめてみようと彼女に倣ったの。傍から見たらおかしな光景だったろうなー。パジャマ姿の高校生が三人並んで壁に寄り添ってるの、真剣な顔で」
「ですね」
暗くて見えないでしょうが。
「『あ、ホントだ。テレビの音とか聞こえるね』『誰だろう、隣』『さあ、知らない』みたいな感じで話してて、誰が泊まっているのか確かめたくなったのよ。それで、『修学旅行のしおりに書かれているんじゃない?』と一人が気づいた。しおりを見て部屋に入ったのだから、当然、誰が何階の何号室に泊まっているか分かるの。もちろん、学校の人のだけね。一般の客のことは書いてないよ。――もっとも、わたしたちの階には一般の客は泊まっていないらしいから」
「ふむふむ」
「わたしたちの部屋が三階の三一八号室。わたしたちが阿呆みたいに耳をつけている壁側の隣室は、三一七号室。しおりをパラパラとめくればあったあった。わたしたちと同じクラスの三人組。ここまで来たら、反対側の部屋も確かめてみたいじゃない」
「ほう」
どうでもいいですけど、そろそろ相槌のレパートリーが減ってきました。
「わたしと一人は反対側の壁に耳をつけて、最初に阿呆なことを始めた娘が、しおりを見て部屋を確かめたの。したら、ここからも聞こえる聞こえる。テレビの音じゃないけれど、人が喋る声と、ゴツンゴツンみたいな音が同時にね。何やってるのかは知らないけれど、人がいるのは間違いないから、しおりとにらめっこしてる友達に、『こっちからも聞こえたけど、誰がいるの』と尋ねた。――すると」
葵さんは間を置きました。するとどうやらここがオチみたいです。語り部は突然、大きく手を広げ(腕で視界を遮られたカモくんが顔をしかめました)、
「――その部屋には誰も泊まっていないって!」
「まあ」
葵さんは広げた手をそのままに、当てが外れたように言いました。
「あれ、怖くなかった?」
「怖いと言うか、驚きました」
というかやっぱりホラーだったんですね。
「それ、ホテルの人じゃないんですか?」
葵さんは口を尖らせて言いました。
「違うよー。大体、ホテルの人ならそんな物音を立てることを夜中にするかな」
納得せざるを得ません。
「では、隣の隣の物音、もしくは上の部屋、下の部屋からではないんですか」
葵さんは首を横に振り、
「壁のすぐ向こうから音が聞こえました。間違いありません」
「やっぱり一般の客だった」
「ないね。先生の言っていたことは正しい」
「それは先生だった。先生なら、しおりに載ってない可能性も」
「それも違うよ」
「むう」
ぐうの音も出ません。『むう』は出ましたが。
「カモくんがさっき、『拍子抜けするから』と言っていたから、葵さんとカモくんは知っているんですよね、真相」
「そうなるね。その夜は恐い恐い言って過ごしたけれど、朝になってすぐ真相を知ってしまったんだ」
まあ、水と油のように、幽霊と朝は相成れないものですからね。日の光に当たれば幽霊は消えてしまうと相場が決まっているので。
「教えてあげようか、麻子さ……」
言葉が途切れたのは、姉が弟の口を抑えたからです。
「わたしがアサちゃんに話しているのだから、カモは口出しするな。鍋にして食べるよ」
カモ……鍋。
私は含み笑いをして、言いました。
「ふふ。つまり、これは――葵さんからの挑戦状というわけですね」
葵さんは不敵な笑みを浮かべて応じました。
「そうなるね。……あっ、どうしたの」
「え、何ですか」
葵さんの視線の先を追うと、恥ずかしがり屋のフタバくんがドアの近くで立っていました。
「みんなをよんできなさいってママが」
任務は完了した、とでも言うように、フタバくんはこっちに来たときと同じようにトテトテと戻っていきました。
「夕食の準備でしょうか」
「そうだと思うよ。うーん、お腹すいてきた」
皆がゆっくりと立ち上がります。
「わしはババロアが食べたいなあ」
「カモ、それデザートだ」
台所では、玉依母とフタバくんがいました。皿洗いの仕上げに入っているところみたいで、フタバくんが『ういしょ、ういしょ』と懸命に自分の顔より大きな皿を拭いているところでした。マイブームがお手伝いとは本当のようです。
案の定、夕食の準備のために呼ばれたのでした。私と葵さんとでサラダの手伝いをし、カモくんが明日の食材の買い出しを担当することになりました。ですが、
「フタバもやるぅー」
と坊ちゃんがお母さんに訴えました。今がチャンスと思ったのか、カモくんが横から口出しをします。
「じゃ、フタバに買い物を任せるから、わしは、麻子さん+αとサラダを作る。わし今、非常にサラダが作りたい気分で、それだけはどうしても譲れない」
「誰が+αだ」
葵さんがカモくんの丸い頭をばちんと叩きました。
「それじゃ、こうしましょう」
玉依母が提案します。
「フタバにはちょっと難しいだろうから、葵とカモの二人で仲良くサラダを作りなさい。――麻子さん、悪いけれど、フタバとお買い物に言ってくれるかしら」
「いいですよ。私、子供好きですし」
私はフタバくんを見ました。ですが、フタバくんは私の視線から逃げるように目を逸らしました。まあ、仕方ありません。フタバくんとはあまり会話したことがありませんでしたから。いつもこんな風に話してくれないのです。
何か見当が外れたように、目を大きく見開いているカモくんを見て、葵さんがニヤリとしながら、
「カモ、目が皿だね」
ああ、なるほど。サラダとかけているんですね。
続きます。




