二.卒業式の準備
前回の続き。
卒業式は、年に一度その年の卒業生達を見送る学校行事である。学業を円満に終え、慣れ親しんだ学び舎から巣立つ日。見送られた人達は見送られた故に、絶対に帰ってきてはいけない。というか帰ってきて欲しくない。
その日の六時間目、渡り廊下を進みながら、そんなことを楢卯月に訴えた。すると彼女は冷ややかな笑みを浮かべて、
「玉依先輩なら卒業したあとも、花川くん目当てで何度も遊びに来そうね」
僕は楢をビシッと指差した。
「そう、それ。あの人なら『不思議なことが起きたんだけど!』とか騒ぎにくるぞ、絶対。それで振り回されるんだ」
「楽しんでいるくせに」
「馬鹿言うな」
楢はいつもこんな調子だ。あまり彼女と話さない人から見れば、ただの内気なおかっぱ少女にしか見えないだろうが、割と話すようになれば、こんなふうに冗談や軽口を会話に混ぜてくる。時に毒も吐いてくる。
「一週間前も、廃祉に忍び込んでいたのが椿にバレてな、あいつ、先生に告げ口したんだ。おかげで小菊先生の大目玉を食らった」
「椿というのは、あなたの妹だったかしら?」
頷く。渡り廊下を抜けて、二棟の校舎に入る。だけど今は椿への愚痴を聞いて欲しいのではない。
「究極的には玉依先輩が問題なんだ。高校で部活動でもすればいいのに」
水田高校に受かったと喜んでいた玉依先輩の笑顔を思い出した。水田高校はここから数駅またいだところにある。そこまで遠くないし、何より先輩の家が僕の近くなので、また面倒事に巻き込まれることになりそうだ。
二棟の校舎を抜けて、今度は体育館へ続く渡り廊下を歩く。
「でも、玉依先輩があなたを相手にしなくなってしまったら、悲しむんでしょう?」
「そんなわけあるか」
昼休みには『探偵コンビ解散』で少しだけ感慨に浸ったものだけど、おそらく錯覚か何かだったろう(ピアノの件については本当だが)。今はどうしてそんなことを思ったのか全く分からない。
楢は薄い笑みを絶やさずに言う。
「じゃあ、わたしは花川くんのために、『玉依先輩は遊びに来ない』に願いを込めて、〇,五シリング賭けさせてもらうわ」
ちなみに僕はシリングの為替レートを知らない。だけどわかることはある。
「何が花川くんのためだ。どのみち玉依先輩が来たとしても振り回される僕を見て腹の中で笑っているんだろ」
「あら、心外ね。腹の底から笑うのよ」
「声出すのか!」
今歩いている渡り廊下は体育館に続いている。渡り廊下と言えど、一階と同じ高さなので、道を逸れることもできるが、わざわざこの道を選ぶ必要がない。だから必然的に僕たちの目的は体育館ということになる。
前述の通り、明日は坂月第三中学校における数十年目の卒業式だ。その準備は毎年、僕たち二年生がすることになっている。体育館での仕事は他のクラスが大方終え、あとは僕が所属する四組がパイプ椅子をセッティングするだけとなっている。渡り廊下には僕と楢以外いない。教室を出るまでゆっくりしていたから、他の皆は体育館で説明を受けているだろう。
体育館の玄関を箒で掃除している小菊先生を横目にシートが敷かれている床に足を踏み出す。昼と同じように、ステージが真正面に見える。
予想通り――とはいかなかった。体育館では既に説明を受けたクラスメート三十数人があっちらほっちらえっさらこっさら働いていた。ステージ側から順番にパイプ椅子を並べていくらしく、前の方は既に椅子が置かれたあとみたいだ。ちなみにパイプ椅子は僕がくぐり抜けた出入口と同じ体育館後方にある倉庫の中にしまわれている。
お喋りしながら働く者もいれば、一度に三つも運ぶ怪力の持ち主もいる。これなら割と早く仕事は終わりそうだ。僕は非力だから、一つずつしか運ばないつもりだけど。
少しでも力になろうと、倉庫の方へ足を向けたと同時に、僕とは違う方向に、楢がそそくさと歩き出した。
「どこ行くんだ」
しかし楢は答えない。気になったので、後ろをついていく。パイプ椅子を運ぶ生徒の横を抜ける。どうやら彼女はステージ近くの端にあるグランドピアノに向かっているらしい。卒業式で使用されるだけあって、確かに立派なピアノだけど一体何が楢の興味を引いたのか。
グランドピアノのそばに寄ったかと思うと、やにわに楢が沈みこんだ。そしてピアノの下に落ちている何かを拾い上げた。楢の横に回ってみると、それはA4サイズの紙だった。
「何だそれ」
「紙」
「わかってるよ」
楢はそれを僕に差し出した。おたまじゃくしのような黒い粒が散りばめられた五線が数列並んでいる。紛れもなく楽譜である。しかしタイトルがない。
「何の楽譜なんだ」
「ピアノ」
「わかってるよ」
僕のこと馬鹿にしすぎなんじゃないか。
「歌詞は書いてないけれど、音符の並びから判断するに、今ではすっかり定番になった卒業ソングの『旅立ちの日に』ね。坂月三中では卒業生がその曲を歌うのが習わしになっているから、その楽譜なんじゃないの」
今日、玉依先輩がここで僕に弾いてくれた曲だ。瞑目すれば、今でもあのシーンを鮮明に思い出せる。
「楢、楽譜分かるのか」
そう言うと、楢は何とぼけたことを言っているの、という顔をして、
「あら、以前言わなかったっけ? わたしも得意なのよ、ピアノ」
言っていただろうか。そのあたり僕の記憶は曖昧だ。
「しかし、これ一枚だけしかないよな。曲の途中なのに」
ピアノの下を見ても何も落ちていない。薄緑をしたシートのみ。
「……だから気になったのよ。ピアノの下に一枚だけ白い紙が落ちているのが見えてね。ピアノの近くにある紙と言えば楽譜と相場が決まっているし。……あら」
話しながらもかがんだりピアノの周りを回ってキョロキョロしたりしていた楢が、何かを見つけたらしい。
「楽譜、あったのか?」
「ええ」
鍵盤蓋近くを覗き込む。するとピアノ椅子の上に、同じような楽譜が入ったクリアファイルがあった。分厚さから数枚入っているのだと分かる。別段他と変わりない安物っぽいファイル。使い込まれた様子もない。
楢はそれから楽譜を取り出し、見る。彼女の眉がわずかに寄った。そして二枚目、三枚目、四枚五枚……と全てに目を通す。僕からは紙の背しか見えない。
「どうしたんだ?」
「楽譜は楽譜でも違う曲のものよ、これ」
楢が見ると確かにタイトルが違った。『トルコ行進曲』。……モーツァルトの曲だったっけ? あの賑やかな音楽。
「なんだ、今年は趣旨を変えてこの曲を歌うのか。革新主義ってやつか」
「花川くんって馬鹿なの? トルコ行進曲にまともな歌詞なんてないわよ。あっても卒業式には向かない曲調じゃない」
それぐらい分かっている。
……というか、
「今日の昼休みに玉依先輩にここで会ったんだけど、卒業式には『旅立ちの日に』を弾くと言ってたぞ。一度聞かせてもらったし」
「帰ってくるのが遅いと思っていたらそんなことがあったの」
「まあ、そうだけど。そういえばその時には、ピアノ椅子の上には、そのファイルの代わりに『旅立ちの日に』の楽譜を置いていたはずなのだけど」
言いながら、自分の手にある一枚だけの楽譜と楢の手にある数枚のクリアファイルを交互に見比べる。
「……なんで『トルコ行進曲』がここにあるんだ?」
楢は小首を傾げる。おかっぱが揺れた。
「さあね。卒業生達が入場する時に威風堂々の代わりに流すつもりだったとか?」
「面白い卒業式になりそうだな……」
卒業生の行列も曲に急かされて小走りになるんじゃないだろうか。まるで小学生の運動会である。
昼休みの時、間違いなく『旅立ちの日に』の楽譜はピアノ椅子の上に置いて出て行った。明日、卒業式当日に忘れるといけないからだ。でも、今、その位置には『トルコ行進曲』。
もしかして。
「一つひらめいた」
「あら。何かしら」
楢が何を思ってか微笑する。僕は近くのパイプ椅子に腰掛けた。
「ここにあった『旅立ちの日に』の楽譜と誰かが持ってきた『トルコ行進曲』の楽譜がピアニストには知らされずに入れ替わってしまい、卒業式本番までこのままだったら、どうなると思う?」
楢は一つ頷いて、
「なるほどね。ちょっとしたハプニングになるわ。譜面を丸暗記しているのなら構わないけれど、そうじゃない場合、楽譜をどこからか見つけてこなくてはいけない」
さすが楢、理解が早い。
「ここにわざわざ『トルコ行進曲』を置く正当な理由なんてないだろう。偶然入れ替わったというのも無さそうだ。ということは、誰かが故意にしたと考えていい。一枚だけ残っているのは犯人が楽譜を持っていくときに落としてしまったものだな」
「そうね。明日が卒業式だから、気づかれずにこのまま、というのは十二分にありえることだわ。悪戯が好きな人間の仕業かしら」
「理解が早すぎて、僕の言いたいことを全部言うよな、お前」
「それは失礼」
今こんなことを話しているが、他のクラスメートは皆パイプ椅子を運んでいるのだ。サボっているのがばれないのは、このあたりは既に椅子を運び終えたあとで、人が来ないからだろう。
ひとまず言いたいことを先に口にする。
「この悪戯を受けて、一番困るのは演奏者だろう。つまりは――」
笑顔で溢れるあの顔が頭をよぎった。
「玉依先輩が困ることになる」
彼女の腕なら、楽譜を見なくても弾ける。だけど何故だか、彼女を困らせようと画策するその行為自体が許せないのだ。
「やる気なのね。いつもと違って玉依先輩に頼まれていないのに」
「僕にも何故だか分からないがな」
僕がそう言ったあと、楢が小さく呟いた。が、何を言ったのかうまく聞き取れなかった。
「何だって?」
楢はそっぽを向いた。
「何でもないわよ」
――わたしには分かるけれど。
僕の耳ではそう聞こえたけれど、まさかそんなはずはあるまい。
楢はピアノ椅子を引いてきて僕の近くに座った。大切なこととはいえ、こんなあからさまに作業をサボって大丈夫なのだろうか。体育館に先生がいないのが幸いだ。
「じゃ、花川くん。わたしにも教えてくれないかしら」
何を?
「はいはい、面白い面白い」
楢は呆れたように、パンパンと乾いた音を立てて拍手した。音を出せば卒業式の準備作業をサボっているのがバレるんじゃないかと心配したが、思い過ごしだったようだ。体育館は、僕たちより真面目なクラスメートによって半分と少しがパイプ椅子で埋まっている。
楢が昼休みのことを教えて欲しいというから素直に話したのに、楢は目つきを細くして、
「良いコンビよね、隠れてデートしようとか言うもの。妬ける妬ける。あっちっちだわ。熱すぎて蒸発すればいいのに。失踪という意味で」
「気のせいか、怒っているように見えるんだが」
いつもより暴言が露骨に出ているような。それと、一つ訂正させてもらうがデートしようなんて誰も言ってない。
「別に怒ってなんかいないわよ。話さなくてもいいところまで花川くんが話すから、うんざりしているだけ」
「……うんざり」
怒っているんじゃないか。
結局のところ、と楢が強引に話を戻した。それで僕が持っている仲間はずれの楽譜を指差す。
「その楽譜は全部あったのよね、そのときは。間違いなく『旅立ちの日に』の楽譜だったのよね」
僕は楽譜を持ち上げて、
「カミに誓って。あの時、玉依先輩は楽譜を見ていたし、その一枚目には『旅立ちの日に』のタイトルが書かれていた。弾き終わったあとは、ピアノの下に滑り込ませているピアノ椅子の上に置いて帰ったから」
そしてそれが六時間目、僕たちが来る前に、何者かに『トルコ行進曲』とすり替えられたのだ。
僕はパイプ椅子に腰を落ち着けたまま、体をねじってクラスメートが働くバスケットボールコート二面分の体育館を見渡した。
「ここ数日晴れだし、体育はグラウンドを優先して使うから、ここは使われない」
「シートを敷いたのは昨日だから、雨でも多分使われないわよ」
「体育以外では卒業式の予行で使用されるが、それは今日の午前の話。そして体育館は使用されてないときは戸締りをする。あとで確かめるつもりだけど、おそらくさっきまでは誰も体育館を使っていなかっただろう。だから、体育館に侵入できたのは、僕たち四組がここに入ってからになる」
つまり――、と言い、僕は体育館を見渡し、続けた。
「容疑者はこの中にいるかもしれない」
総勢三十人少しの二年四組。男女特徴様々のこのメンバーの中に、知ってか知らずか、玉依先輩に迷惑がかかる行為に及んだ人がいる。ぱっと見、残りの『旅立ちの日に』の楽譜を片手にパイプ椅子を運んでいる人はいない。
「……さて、まずは本当にここが昼休みから使われていなかったかどうかを確かめないとな」
方針を決め始めた刹那、怒号が体育館に響いた。
「花川! 何してんだ!」
怒鳴り声の音源を探そうと、クラスの皆は作業を中止して首を巡らせている。ステージの真反対にある出入り口に視線を向ける。――さっき入口で掃除していた小菊先生だ。箒を如意棒のように床に突きつけてこっちを見ている。理科の先生らしい白衣を常に着用している女性教師。ちなみに僕ら二年四組の担任でもある。
「楢、注意されたけどどうする?」
ピアノのほうへ目をやったが――楢の姿はなかった。ついでにピアノ椅子も。どこに行ったのか、周りを見渡すがいない。
するとどこからか、
「花川くん。サボタージュするときは常に周りに気を配らないといけないわよ」
と声が聞こえた。声を追ってグランドピアノの裏に回ると、楢がピアノの影に隠れるように中腰になっていた。
「お前、小菊先生が入ってきたのが見えたのか」
「ええ、当然じゃない」
教えてくれたっていいじゃないか……。
「しかしまあ、注意されたからには、働くべきだな。体を動かしながらでも考え事はできるし」
真顔で楢が言う。
「注意されたのは間抜けなあなただけ。わたしは見つかってすらいないわ」
汚い。心も手段も考え方も。と思っていたら、楢がすっと背を伸ばした。
「でも、わたしは心も手段も考え方も磨かれたダイヤモンドのごとく綺麗だから、タダ働きしてあげようかしら」
……こいつ、地の文を読んでいるのか……?
楢は倉庫へ向かって足を踏み出した。体育館内では作業を再開した生徒たちが動いている。
「さ、行きましょ。働かざるもの食うべからずよ」
「タダ働きなんだろ、これ」
そう言いながらも彼女についていく。働きながらでも、誰がこんな悪戯を仕掛けたのかを探る。玉依先輩の腕なら『トルコ行進曲』も弾けるかもしれないが、流石に卒業式でそれはまずい。サプライズもいいとこだ。
――まずは、決めた通りに。
続きます。




