一.心に響く
卒業式に玉依がピアノの伴奏を任される。だが卒業式の前日、楽譜が何者かに入れ替えられてしまう。春樹は、後輩として調査を始める。
いつかの連続放火事件もどきの時には、そういえば妹にこんなことを言われた。
「春樹、元気なかったじゃん。元々そこまで元気があるほうじゃなかったけれど、三年生になってから、さらに元気がなくなっているよ――何かあったの? 三年生になる前」
――その時はそのことを否定したが、本当は嘘だし、何が原因なのかも分かっている。十数年同じ屋根の下で住んでいるだけあって、なるほど兄妹の変化には案外気づくものらしい。
僕をそんな見る人が見れば潮垂れているように見えるように変えたのは、間違いなく、あの三月の出来事が理由だろう。今思い返しても分からないことばかりのあの一件。
ちょうどその二週間前の廃祉事件について思い返したところだ。ついでにもう一度振り返ってみようか。
目を瞑れば、あの日の人を待ち続ける悲しさを今でも感じる。
三月中旬の坂月三中。昼飯のパンが入った袋を振り回しながら渡り廊下を歩いていた僕は、不意を突く冷たい風に身を震わせた。寒い。今月に入ってから、少しはマシになってきたと思ったのに、まだ冬はしぶとく居座り続けるつもりらしい。いい加減、春も冬をしばくなり蹴るなりして、日本から追い出してしまえばいいのに。
……なんて馬鹿なことを考えていると、どこからかかすかにピアノの音楽が聞こえてきた。スピーカーからではない。生演奏だ。されど音楽室からではない。では一体どこから流れてきているのかと少し気になったので、音がするほうに歩を進めると、体育館の前に着いた。どうやらこの中かららしい。近づくにつれてメロディーが鮮明になってきたので、この調べが何の音楽なのかはすぐに感づいた。卒業ソングの『旅立ちの日に』である。
いつもの僕だったらこのまま回れ右してさっさと昼飯にありついているところだけど、ちょっと思うことがあったので、ドアをわずかに開けて中を覗き込んでみた。ステージが真正面に見える。
「……やっぱり」
バスケットボールコート二面分の体育館、そのステージ左側のほうの一隅に普段は見慣れないグランドピアノが置かれていた。音楽はどうやらそのピアノからである。もちろん学校の怪談じゃあるまし、ピアノが勝手に奏でているのではない。案の定、ピアノを演奏しているのは見覚えのある女子生徒だった。だだっ広い体育館には彼女以外、誰もいない。
普段は体育館に上靴や外靴で入ることは禁止されている。あまり詳しくは知らないけれど、床を傷つけないためだと思う。が、今週だけは別だった。その全校生徒を収容できる大きな床には薄緑色のシートが敷かれている。明日には年度最後の学校行事、卒業式を控えているため、保護者が外靴のまま入れるようにという考慮はもちろんのこと、真意は卒業生達が吹奏楽部による威風堂々に合わせてスムーズに入退場ができるようにするための処置だ。今、卒業式を感じさせる物はグランドピアノと体育館シートしかないけれど、この後たくさんのパイプ椅子が並べられる予定だ。
そういうことならばと中に足を踏み出した途端、調べが中途半端に止まった。――気づかれたか。
演奏していた女子生徒は立ち上がって、僕に笑顔で手を振った。
「花川少年じゃないの、どうしたのっ?」
僕は小走りでピアノのそばに寄りながら謝る。
「すみません。邪魔しましたよね、玉依先輩」
演奏していた女子生徒――もとい玉依先輩は笑顔で、煙を払うように片手を振って否定した。
「そんなことないよ。もう終わりかけだったし」
僕はピアノに視線を移しながら問う。
「卒業式の時の伴奏を頼まれたんでしたっけ? それの練習ですか」
玉依先輩はピアノを撫でながら答えた。
「うんそう。他のピアノを演奏したかった人たちのためにも、体育と音楽の先生に許可を取って練習しているの。秘密の特訓だったんだけど、見つかっちゃったか」
「大変ですね」
以前、クラスメートの楢卯月に玉依先輩がピアノ伴奏に選ばれたと聞いていたから、体育館から卒業ソングが流れてきた時点でピンときたのだ。
玉依先輩は何か思いついたように言う。
「そうそう、花川少年。明日の卒業式だけど、来てくれたりするの?」
このピアニストは僕のことを変わった敬称をつけて呼ぶ。そして彼女自身変わっている。外面は他と何ら変わりないが、一年下でしかもあまり人と積極的に話さない僕に親しくしてくれているのだ。しかしそれが大概の場合、度を越えすぎているので、彼女には悪いけれど、邪魔くさいと思っている。だからこんな風に僕から玉依先輩に話しかけるのは珍しいことだった。
僕は彼女の質問にかぶりを振って答える。
「行きたいのはやまやまですけど、卒業式って他学年は係の人以外参加できませんから。保護者席はその名の通り、保護者しか座れませんし」
途端、玉依先輩は落ち込んだようにピアノ椅子にどかりと座り込む。
「そうかあ、残念。最後なのにねぇ……」
それから不意に、彼女はその落胆が嘘だったように手を打ち、顔を輝かせた。
「じゃあさ、こうしよう! 明日、卒業式が終わった後、どこかに行こう! 卒業祝いだよ! 探偵コンビ解散祝い!」
『探偵コンビ』――それは彼女が僕をあまりにも色々なことに巻き込むため、周りから付けられた名だ。玉依先輩はその名前を気に入っているようだけど、僕はあまり好きじゃなかった。
しかし、その何気なく言ったであろう、『探偵コンビ解散』という言葉が不思議と心に引っかかった。そうだ、いくらでも会えるとはいえ、学校が違えば会う機会はぐっと減るもの。無理矢理に組まされていた探偵コンビだけど、解散と言われれば寂しいものを感じる。だから、その祝いには参加してもいいと思った。
「僕はいいんですけど、先輩はいいんですか? 友達と約束していたりはしないんですか?」
玉依先輩はピアノ椅子に座ったまま、僕を見上げて親指を立てた。
「大丈夫、もう行ってきたから。先週の日曜日に、親友数人と結構遠かったけれど遊園地に」
僕は腕を組む。
「行くとしても、どこに行くんですか」
そうだねぇ、と彼女は喜びと困惑が混ざったような顔を見せる。それからしばらくして、何を思いついたのか、僕を指差した。
「それじゃ、考えといて。さきに集合場所決めちゃおう」
……考えるのをやめたらしい。自己中心的な、いつもの彼女だ。
集合場所や時間などはいつものように玉依先輩が勝手に決めた。坂月駅前、三時集合。三時はいささか遅いかもしれないけれど、卒業式当日だし、玉依先輩も色々あるのだろう。それに駅前集合というのは、どこにでも行けるのでセッティングがしやすい。彼女なりの配慮、優しさということにしておく。
話が終わり、玉依先輩は唐突に一方向を指差した。差す方を辿って見ても、何もない。
「明日、卒業式の時に多分あそこらへんに座って長い話を聞くの」
一体、彼女は何が言いたいのだろうか。まあ、黙って聞いておこう。
「それで、名前を呼ばれたら立って、卒業証書をもらうの」
言うに合わせて、空間を差す手が左に水平に動く。
「ちゃんと礼もしてね。それが終わったらまた長い話を聞いて、卒業生斉唱」
また最初に指差した位置に手が戻る。
「その時にはわたし、大事な役目があって、こっちに急いで来るの」
指が動いて真下を差した。そのまま僕に笑みを含めた表情を見せた。
「ピアノ伴奏っていうね」
それから玉依先輩はピアノに身体を向ける。
「それじゃ、明日聞くことができない花川少年に、一足先に演奏してあげよう」
鍵盤に手をゆっくりと重ねる。顔は垂れた髪に隠れて見えない。彼女は、俯きがちに小さく呟いた。
「時が経つのは早いなあ。まだまだやり残したことがたくさんあるのに。それに、……もうちょっとだけ花川少年の先輩でいたかったなあ」
寂しそうに言う彼女に僕は言葉をかける。
「卒業しても先輩じゃないですか」
彼女は顔を上げて、静かに「そうだね」と頷いた。それから天を仰ぎ一つ深呼吸をして、楽譜を見据えたと思うと――演奏が始まった。
さっきと流れてきたのと同じ曲。音楽は小学生の頃から聞き慣れた『旅立ちの日に』。ピアノの音が頭を流れていく。その透き通るような、耳に心地よい調べにいつまでも聞いていたい気持ちになる。玉依先輩はいつの間にか目を瞑って弾いている。指が覚えているのだろうか。
「…………」
何度も聞いていたはずなのに。
こんなところなのに。
伴奏だけなのに。
――一番心に響いた音だった。
演奏が終わり、僕は言った。
「じゃ、お礼に今度は僕が昼飯おごってあげます」
昼飯にパンを買うために少しお金に余裕を持たせてきたのだ。
「おお!」
途端、玉依先輩はぱっと顔を輝かせた。思っていたよりも反応があったので驚いた。
「ちょうどお腹空いていたところだったんだあれいつの間にか十二時四十五分じゃんそりゃ当然かえへへ嬉しいなぁ花川少年のおごりかぁ」
楽譜を折りたたんだり、鍵盤蓋を閉めたりしながら、嬉々として散々まくし立てたあと、出入り口目指して歩き出した。
「ち、ちょっと玉依先輩!」
咄嗟に呼び止める僕を玉依先輩が振り返る。
「ん? 何?」
「忘れ物ですよ」
僕はピアノ椅子の上にある楽譜を指差した。彼女は立ち上がるときに手に持ったそれをそのままそこに置いたままにしていたのだ。
指摘すると、
「そのままにしといて。わたしおっちょこちょいだから、卒業式の時に忘れるかもだし」
「あ、そうなんですか」
わざと置いたままにしていたのか。無駄な気遣いだったわけだ。
玉依先輩は鍵を片手に先に行く。自主練習をするならばやっておいて、と先生に体育館の戸締りを任されているそうだ。
追いついた僕に彼女は笑顔で指折りしながら、
「わたし今、チョココロネとメロンパンが食べたいな。あ、あとアップルパイと小豆パンとか、あと――」
僕はかぶせるように言った。
「そんなにたくさんはやめてください!」
ちょうど良いタイミングで卒業式の話を書くことができてよかったです。
ちゃんと続きます。




