四.潜入!
前回の続き。
もうすぐ一時。
外靴に履き替え、玉依先輩を先頭にこそこそと南門を抜け、車の通りが少ない道路を渡り、目的地まで来た。おそらく学校を抜け出したことは誰にもバレていないだろう。――本当に何をしているのだろう、僕は。一旦教室に戻ると、今度はコンビニのおにぎりを持っていた楢に、『また玉依先輩に頼まれたのね。馬鹿と優しさは紙一重よ、花川くん』と言われた。悔しい。
ほぼ全ての窓が割れ、ところどころにススのような黒い汚れがある灰色の塊を見上げて、
「――で、どうやって入るんですか」
まるでピクニックだというように意気揚々としている玉依先輩に話しかける。当然のことながら、正面に一つだけあるガラスドアは鍵がかかっている。開けられたあとはなさそうだった。ガラスドア越しに見える中は薄暗い。入っただけで詰襟が埃っぽくなりそうだ。
「この建物の後ろにね、裏口があるの。そこの鍵、壊れているから」
どうして知っているのかと疑問を持ったけれど、そういえば昔、ここに侵入したことがあると言っていた。
隣家との間の路地を通ると、確かに玉依先輩の言う通りドアがあり、ノブを回すと驚く程素直に開いた。途端、埃っぽさが鼻につく。
「ここに入るんですか」
もちろん、と言い、能天気な隊長は入っていった。その後に続く。
「立派な不法侵入ですよね」
「バレなきゃ犯罪じゃないの」
ものすごいことを言う玉依先輩である。一周回って感心した。
いくつか並んだドアを横目に、廊下を抜けていく。
「花川少年」
「何ですか」
いくつか置かれたガラクタを避けながら階段を上る。エレベーターはなかった。あっても既に機能していないだろう。
「……緊張してきた」
「そうですか」
前を行く玉依先輩は僕を一瞥して、
「キミはしないの?」
「しませんね」
二階まで上り終え、三階への階段を上がる。
「犯人と鉢合わせするかもしれないんだよ?」
「ですね。でも、それが目的なんでしょう?」
「ちょっとクール過ぎるよ」
僕には自信があったから。そして、その自信があったから、普段絶対に口にしないであろう言葉を言う気になった。
「……まあ、なにかあったら僕が玉依先輩を守ってあげます」
「なっ」
玉依先輩にしては珍しく言葉を詰まらせた。
「キミからそう言われるときが来るとは。……是が非でも犯人に会わなくちゃ」
そして小さく、
「白馬の騎士様・花川春樹」
「やめてください」
そして僕は王子ではなく所詮騎士止まりなのか。いや、騎士でも充分過ぎるけど。
そうこうしているうちに、屋上へ続く階段の前まで来た。
「いよいよだね」
「ですね」
「本当に緊張感ないなあ。あれかな、いつも冷静に物事を判断して適切に行動してくれる花川少年がわたしを止めてくれないからかなあ。いつものキミだったら『危険です』とか言っていつまでも食い下がるのに。さっきの告白と言い、よほど効果的な作戦があると見た」
作戦? そんなものなんて初めからない。
足を踏み出す前に、玉依先輩が確認をする。
「いい? 外から見た時は屋上に人はいなさそうだったけれど、背広男がいたら、一目散に逃げる。いなかったら、被害者を助けよう。両方の場合とも、出来たらでいいから、ケータイで写真撮ってね」
「中学生だから、ケータイ持ってないです」
「隠しても無駄だよ。ウラは既にとっているから」
何のウラだ。
僕はいちおう詰襟の内ポケットにある膨らみを確認した。
「ひとまず了解です。写メ、撮ればいいんでしょう」
――その二つの場合ならば、ですが。
「……行こっか」
玉依先輩のブレザーの背中を見ながら、階段を一段一段と上る。いくらレディーファーストという言葉があるとしても、こういう場合は僕が先頭を行くべきだったんじゃないだろうか。
最後の一段を登り終え、屋上へのドアの前に立つ。窓もない無粋な鉄のドアのため、このあたりは光がほとんど入ってこなくて、薄暗い。ドアの下から漏れている外の光だけが明るかった。
玉依先輩は静電気でも恐れているのかと思うほどゆっくりとドアノブを握った。そして何を戸惑っているのか、そのまま僕を振り向いた。
「花川少年。こういう場合って、勢いよく開けるべきなのかな? それとも、ゆっくりと様子見しながら開けるべきなのかな? だってこれでわたしたちの未来が変わるかもしれないじゃない?」
……そんなことを危惧していたのか。こういうときだけ思い切りが足りない人である。
「そうですね。僕だったら」
そこで言葉を切った。音が聞こえたのだ。床を革靴が踏む音。ものすごく近い。
気づけば、玉依先輩の視線は僕を通り越し、階段の下に注げられていた。すぐ近くにあるその顔は、驚きに満ちている。
僕はある予感を持って、振り向いた。
そしてそこには案の定、玉依先輩が言っていたまさにその人なのだろう、背広男が立っていた。右手にはコンビニのビニール袋。何か重いものが入っているそうで、彼の肩が下がっている。
背広男が口を開く。
「君達、一体何を――」
「花川少年っ!」
背広男が言い終わらないうちに、玉依先輩が屋上へのドアを勢いよく開いた。途端、溢れんばかりの日の光が入ってきた。思わず目を細める。
「ひとまず屋上に出よう! あいつが来る前に!」
玉依先輩は僕の手を掴み、教室の時以上に強く引っ張った。だけど僕はその場で踏ん張る。あの時は呆気にとられていたから力負けしたけれど、今は違う。そうするだろうと想像できたから、踏みとどまるのは容易だった。
玉依先輩は不思議そうな顔をして僕を覗き込んだ。
「花川少年……どうしたの?」
「大丈夫」
むしろ、屋上に先輩を行かせるほうが危ない。平静さを失った彼女は何をするかわかったものじゃないから。ひょっとしたら飛び降りたりするかもしれない。
「……大丈夫って何が?」
玉依先輩が訊いてくる。
「お前たち、中学生か?」
再び背広男が口を開いた。そして階段を上ってくる。
僕はその男を見て、
「すみません。彼女は違いますけれど、僕は一言、言いたいことがありまして」
「俺に?」
頷く。光が眩しいようで、彼も目を眇めている。年は三十そこそこだろうか。重たそうなビニール袋には、おにぎりと二リットルペットボトルが入っているみたいだ。やっぱり、ただの昼食にしては多い水分である。
「それ、あなたの昼食ですか」
階段を登りきる四段前で、背広男が立ち止まる。彼はビニール袋を持ち上げてみせた。
「これ? その通りだけど……それが言いたいこと?」
僕の後ろで完全に状況を飲み込めていない玉依先輩を一瞥して、『ほらな』とアイコンタクトを伝える。
「でも。……嘘をついているのかもしれない」
「まあ、そうですけれど」
それから僕は背広男を見た。もちろんのこと、彼は僕たちの状況がわかっていないのだろう。
「間違っていたらすみません。『何見当違いなことを言っているんだ』でいいんですけれど」
僕は言う。
「あなたは、何かしらを『育てる』ために、ここに通っているんですよね」
恐る恐るというように、背広男は頷いた。
「そう……だ。公園で捨てられていた犬に飯をやるために、二日ぐらい前から、会社の昼休みを利用してここに来ている」
僕は考えていた。玉依先輩が推理を披露している間、適当に相槌を打ちながら――ここに来るまで。この事件の『本当のウラ』についてだ。玉依先輩の推理は間違っているとすぐにわかった。だから、『本当のウラ』を僕なりに推理してみた。状況から察するに僕の推理は合っていたみたいである。
「言いたいことはですね。――この廃址は来月には取り壊しが決まっている、ということなんですが。知ってました?」
「いや。……そうだったのか」
背広男は下を向き、それじゃあ仕方がないな、と呟いた。
数分後、背広男に別れを告げ、僕たちは埃っぽい階段を下り始めた。今度は僕が前である。やはり光量が少ないので、足元は暗い。一度屋上に出たのもあって、目が慣れていないのも理由の一つだ。自然、踏み外さないように慎重になってしまう。
「それで、どうして花川少年は彼が犬を屋上で育てていたってわかったの?」
心なし不機嫌そうに聞こえる。黙っていたことを根に持っているのか。
「自信があったわけじゃないです。もしや、と思っただけで」
「じゃあ、その『もしや』を話してよ」
まあ、学校へ戻るまでの間、話すこともないし。また急いで帰ることもないし。
手すりに手をやろうとして埃っぽいことに気づき、再び手を離した。
「まず思ったのは、二リットルペットボトルです。中身はわからないですけど、ただの食事のおともにしては多すぎやしませんか。そのサイズじゃ、持ち運びにも不便ですし」
「それぐらいわたしも思ったよ。だから、監禁している人のその日分の水分だと思ったの」
「『監禁』の線は間違っていたんですけどね。……それならどう説明すればいいか。『人以外の誰かの一日分の水分』というのはどうでしょうか」
階段をまた一段一段とゆっくり下っていく。このあたりはまだ明るいほうだ。
「人以外の動物なら簡単に運んであげることができるでしょうし、一日目、食料ではないほうのビニール袋に入っていたのはドッグフードやそういう類のものだと思うんです。現代社会の偉烈『コンビニエンスストア』の中には売っている店舗もありますから。そのドッグフードが数日分保つから、二つ袋を持っていたのは初日だけだったんです」
実は、もう一つ考えがあった。彼の育てているものが『植物』だったパターン。ビニール袋には肥料を入れていたという考えもあった。だけど、ただ植物を育てるだけならば、もっといい場所があるため、確率は低いだろうと思っていた。
「うーん……」
「どうしたんですか」
玉依先輩は唸っている。前を向いているのでわからないけれど、多分、腕組をしながら。
「でも、どうしてここの屋上を選んだんだろ? 雨風凌げないそんなところで。動物虐待でしょ」
「玉依先輩も見たでしょ、屋上の光景。彼は捨て犬のために小屋もどきをこしらえていたじゃないですか。木の板とかで。あれ、ここが元倉庫として使われていたから、作れたんだと思います。材料はここに残っていたんですよ」
それにいつか玉依先輩に聞いたことだけど、彼女、どこかの部屋に侵入したことがあったらしい。ということは、この建物の部屋は鍵がかかっていないか壊れている。それならいくらでも材料集めをすることは可能だ。
二階まで下りてきた。隣接する家に日光が遮られて、ほんの少し、足元が暗くなった。
「まあ、屋上を選んだ理由はおそらく、ここが埃っぽかったのと、ここのどの部屋も割れた窓ガラスが散乱していたからでしょう」
「そういえばそうだったね」
「それでもここを使おうと思った理由は、この近くに家があるから、とかだと思います。犬を拾ったのにわざわざ住宅街の中で放し飼いをすることにした理由は、おそらく家に犬を置いておくのが駄目な借家、家庭だったんだと考えられます。たとえそれでも、いざという時のために、家から近いこの場所を選んでおいたんじゃないですか」
「ああ、なるほどぉ。納得した」
そして続けて、
「そこまで思い至った花川少年は、彼がここを使い続けるつもりなのかもれないから、ここが来月に壊されることを伝えておこうと思ったわけだ」
でさ、と先輩が続けざまに言う。ここからが本番とでもいわんばかりに声が大きくなった。
「どうして花川少年はわたしの『監禁』説が間違っていると思ったの?」
始めに来た廊下まで戻ってきた。僕としてはなるべく早くここから出たい。今更ながら、無断侵入が後めたく思えてきた。知らず知らずのうちに早歩きになる。ここを抜ければすぐに僕たちが入ってきた入口につく。
「僕が『監禁』ではないと思ったワケは、場所です。住宅街、それも学校の前の廃址に誰かを監禁するでしょうか。こんな人の目が多い場所で、そのひとを運んでくるのは、かなりリスクが高いような気がしませんか。それにやっぱり、サラリーマン風の男が廃址に定期的に入るのは疑われる可能性が高いですよ。監禁するのなら、もっと人のいないところにでもすればいいんです」
「わかってたなら教えてくれたらよかったのに」
「それは謝ります」
振り向けば、玉依先輩の仏頂面が拝めるかもしれない。
監禁ではないとわかったから、僕はここを上っているとき、彼女にあんなことを言ったのだ。自信と保険があったからこそ言えた台詞である。自分ながらずるいと思った。
「彼、このあとどうするつもりなんだろ」
それはわからない。これから取るべき方法はいくらでもある。推理のしようがなかった。
隣家と建物の間を無言で抜けると、中学校の校舎が見えてきた。
「まだもう一つだけ監禁ではないと思った理由があるんですけど、それはですね……」
「何?」
一旦ここで会話を切って、中学校の前の道路を小走りで渡り、南門へ向かう。蓋し誰にも見つかってないだろう。そう思っていたけれど、学校の敷地内に入ったところで二階の窓からこっちを見下ろしている黒髪の女子生徒に気づいた。白い髪飾りをつけて、薄い笑みを浮かべている。いいものを見ちゃったとでも思っていそうな表情だ。
「それで、理由って何なの?」
校舎を睨みながら、僕は隣の玉依先輩に言った。
「僕のありきたりな日常に、非日常が入り込む余地なんてないですから」
ありがとうございました。




