一.宿題
図書館に夏休みの宿題をしに来た真鈴あやめは、花川春樹の妹である花川椿と数年ぶりに再会する。一緒に図書館に来た堺のことなど忘れて二人は想像力ゲームを始める。
人を待つのは、案外好きだったりする。相手より早く待ち合わせ場所に着いた優越感とかではなく、純粋に想像するのが好きだから。どんな格好で来るのだろう、どんな表情をして来るのだろう、どんな言葉をかけてくるのだろう。そんな想像が好きなのだ。
ケータイの画面で時刻を確認する。ただいま一時過ぎ。約束ではもうすぐ来るころだ。次の電車あたりに乗ってくるんじゃないだろうか。
坂月駅、改札口前にわたしはいた。最近設置されたらしいそこまで大きくないコインロッカーのすぐ横で棒立ちしながら、待ち合わせ相手を待っていた。
何か放送が流れたかと思うと、大勢の人が階段を降りてくる音が聞こえてくる。そしてその次には、奥の角から現れた人たちが、わたしの目の前の改札口を切符や乗車券を通して流れていく。しばらくすると、そそくさと改札口を抜けた彼らの中のうちの一人が列からはみ出して、わたしのほうへ歩いてきた。七月にしては少し暑いかもしれない七分袖の、ワンピース。だけど、水色をしていて、色だけを見るなら涼しそうだ。初めて彼女の私服を見たけれど、水色も中々似合うじゃないかな。
暑い中汗ひとつかかずに彼女はわたしにはにかんだ。
「こんにちは、真鈴さん」
天才とわたしの差を、これほどまで実感したのは初めてのことだった。
ノート上、ペンを持つ手がすらすらと進む。問題を写し、途中式、答えと一連の流れが次から次へと決まったプログラムのように方程式がさばかれていく。……もちろんわたしのではなく。あっけにとられ、思わず言う。
「なんとなくわかってたけど、頭いいね、堺さん……」
「いえいえ、それほどでもないです」
わたしと正対して座るワンピースの堺さんが手を止めて顔を上げ、真顔で答えた。どうやら本当にそう思っていないらしい。そしてそのままわたしの前に開かれている、まだ堺さんの四分の一ほどしか埋まっていないノートと数学の問題集に一瞥したあと、嫌味とかではなく、本当に不思議そうに聞いてきた。
「真鈴さんは、宿題、しないんですか?」
「……いちおうはしているんだけどね」
わたしは苦笑いで返事した。
堺さんが早いだけだ。わたしはこれでも学年で中の上の成績を持っていると自負しているんだけど。月とすっぽん。レベルが違いすぎる。
堺麻子さんは、一見して、見とれるような緑髪、縁の黒い眼鏡が目立つ。頭がよく、物腰が柔らかな話し方ということも相まって、ますます大和撫子。しかし美人な堺さんは見た目と違って、これまでの人生の半分以上を海外で過ごしていたらしい。七歳のころに両親の仕事の都合で渡米し、半年前、十五歳になったときに日本に帰ってきたそうだ。向こうに住んでいたときにおろそかになった日本語はこっちに戻ってきてから情報番組を一日中見たりして学び直したそう。丁寧語なのも、ずっとニュースキャスターの丁寧な言葉遣いしか聞いていなかったから、それが体に染み付いたと言っていた。――いやそれにしても、神様は不公平だ。わたしとは与えられた能力、経験が違いすぎる。
「何ですか、わたしの顔に何かついてますか?」
はっとする。いつの間にか堺さんを見つめていた。わたしは首を振った。
「ううん、なんでもない。……あ、堺さん。これってどうやるの? というか、この公式、意味わからないんだけど」
わたしは問題集の〈基本!〉と題された項目をペンで叩きながら、今のことをごまかすように聞いた。堺さんはそれを一瞥したあと、説明してくれた。
「それは、ですね――」
わたし、つまり真鈴あやめと堺さんは午前中から坂月市立図書館で宿題をしている。夏休みの宿題である。梅雨が終わり、ここ毎日今年最高気温を更新するなか、高校生になったとはいえ、何がおこることもなく、夏休みに入った。小、中学校、高校からは毎年、去年以上の量の宿題が出される。今日は「いいですよ」の一言で承諾してくれた堺さんと、冷房が効いた図書館で宿題を一緒にするという名目で、勉強を教えてもらうのだ。
「分かりました? 真鈴さん」
「う……、うん」
説明をしてくれた堺さんに曖昧に返事する。途中から何を言っているのかわからなくなって、全然頭に入っていなかった。日本語だったはずなのだけれど。わたしの学力がいよいよ追いつけなくなってきたのだろうか。予備校とかも考えたほうがいいかもしれない。この夏はバイトをしようと思っていたのに……。
堺さんは人差し指を立てて、わたしを励ますように言ってくれた。
「でも大丈夫ですよ、すぐにわかるようになりますって。数学は公式が大事です。公式を覚えれば、まあ、なんとかなりますね。ついでにその公式達の仕組みでも知ることができれば、色々と応用できるようになるかもしれません」
堺さんが薄く笑う。そんなものだろうか。でも仕組みを知るだけではなく、覚えないといけないだろう。記憶の容量が足りなくなって本末転倒ということはないのだろうか。
「覚え方としては、語呂合わせが一番ですかね。赤シートやらなんやらで暗記するのもありですけど、そういうのは時間が経てば知らぬ間に頭から抜け落ちていることが多いです。語呂合わせは、案外、馬鹿馬鹿しければ馬鹿馬鹿しいほど、忘れないものなんですよ。人にもよりますけどね」
堺さんはペンを持ち直して中断していた問題に取り掛かる。堺さんの理解力は凄まじい。問題文を読み、一度ペンを動かせば、もう答えが出るまで止まらない。もしかするとこのペースでいけば大量の宿題も今日中に終わるんじゃないだろうか。わたしもいい加減、堺さんの学力に呆然としてばかりいないで真剣に取り組んだほうがいいかもしれない。それにここは図書館。私語は慎まないと。
ようし、やるぞっ、と心の中で小さく拳をつくり勢い込んでみせる。わたしだってやればできる!
……はずだったけど。
「堺さんは塾とか通っているの?」
問題を見て十数秒、何も途中式を書くことなくわたしは問題を放棄して質問してしまった。うーん、どうも集中力が下がっているような気がする。賢人ではあるが超人ではない堺さんも会話をするときは手を休めるので、わたしが話しかける度にペンを止める堺さんにも悪い気がする。堺さんの顔を見るに嫌ではなさそうだけれど、普段表情が顔に表れにくい人だし、内心では邪魔くさそうに思っているかもしれない。
堺さんはわたしのどうでもいい質問に首を横に振る。
「いいえ、通っていません。自分で勉強していますので」
「……すごい」
本音がこぼれた。
「それほどでもないですよ」
どうやら本当に照れたらしい堺さんはすぐに顔を下に向け、そのページ最後の問題に取り掛かった。今度こそ、わたしも取り組もう。
わたしたちが使っているテーブルのすぐ隣をわたしの腰の高さもないだろう幼児が何か言いながら走っていく。その小さな後ろ姿を見ながら「こら、図書館は静かに」と心の中で注意する。次はその子が去った方向からわたしと同じくらいの年のおかっぱのような髪型をした少女が辞書じゃないかと思うほど太い背を持つ本を数冊も持ってわたしの横を早歩きで通り過ぎた。次はその少女が行った方から数冊の本を抱えた職員が歩いていく。それを見て頑張ってるなあ、と思った。
「真鈴さん、休憩してもいいですよ?」
「え?」
堺さんから声をかけられた。堺さんはニコリとして言う。
「だって真鈴さん、ちょっと集中できてないみたいなので。さっきからずっときょろきょろしてますし。もう小一時間はここで座りっぱなしですし、少しぐらいは休憩も必要ですよ」
「そうかな」
「ええ」
わたしはただここに座って堺さんに感心していただけなんだけどね。でも、休憩はちょっと嬉しい。
「いいの?」
「はい。ここには確か休憩所もありますし、休んできてください。私はここにいますんで」
わたしは頷いた。この図書館は市民プールやスポーツジムと一緒の建物の中にある。建物の中だからここと同じように冷房も効いてある。確か、休憩所のすぐ近くに売店もあったような。
わたしはかばんなどを見ておいてくれるらしい堺さんに礼を言って、伸びをしたあと、ケータイと財布をポケットの中に押し込んで図書館の出口に向かった。
――うまく追い出された気がするのは気のせいかしらん。
こんな雑談ばっかりのに時間を費やしてくれたなんて礼以外の言葉が出ません。
続きます。




