一.戻って春
今から約一年前。花川春樹の通う坂月市立第三中学校でボヤ騒ぎが発生する。第一発見者である春樹は、妹の椿に勧められるがまま、連続放火の可能性がある事件の捜査を始める。
花川椿は、僕のひとりしかいない妹である。
名前通り椿の花みたいにおしとやかならいいのだけど、あいにく現実は違う。口は悪いし、僕のことは呼び捨てだし、生意気だし、僕のことは呼び捨てだし、うるさいし、そして僕のことは呼び捨てだ。兄に敬意を払う気など微塵もないらしい。
しかし、いやしくも兄である花川春樹。たまには可愛い妹を擁護することも必要だろう。『人の欠点ではなく、綺麗なところを探そうとすれば、心の綺麗な人になれますよ』とおっしゃるクラスメートの堺さんのお言葉を信じて、そうしてみる。
えっと……。
椿は頭が良い。ミステリにおける『探偵』という存在そのものが嫌いだという彼女だけど、彼女自身、身内の色眼鏡を計算にいれても、十分に『探偵』の素質はあるように思う。
そして時に見せる優しさ。おかげで信頼のおける友人の数が多い。ただしそれには攻撃性を見せないタレ目と、みてくれはおしとやかなところがあるから、それらが多少関係しているかもしれない。
頭の良さと、優しさ。どちらも兄であるはずの僕は壊滅的に劣っている。
そういえば、その二つをありありと、これでもかと見せつけられた一件が一年程前あった。別に僕に懐古趣味はないのだけど、なんだか無性にその過去を振り返りたくなってきて、その頃のカレンダーを調べてみる。
始まりは……四月二二日。フライデイ。
高校に入る前だから、僕が中学三年生で、椿が中学二年生。真鈴あやめとの再会と、堺麻子との出会いの一年前になる――。
四月二二日金曜日。午前八時三分。
昨日、夜遅くまで強い雨を降らせた雨雲はさっぱり消えていた。少し早く登校してきたのもあり生徒も全く見かけなくて、なんだか新鮮な気持ちで校門をくぐる。
ただまあ、その気持ちも長くは続かなかった。
靴を履き替えようと下足室に向かい、自分の靴箱の前に立ってから気づいた。見慣れないオレンジとブルーの何かが覗いている。眉間にしわを寄せつつ取り出してみると、なんのことはない。僕の上靴だ。……ただまあ、僕はこんな乱雑に青色や橙色の蛍光ペンで落書きをした憶えはなかった。そもそも蛍光ペンなど持ってない。
つまり、昨日僕が下校してから今日登校するまでの間に、誰かが僕の上靴に悪戯をしたことになる。他人の上靴は被害を受けていないみたいだし、僕個人を狙ったもので間違いないようだ。
「ご丁寧に二足とも……余程暇なんだな」
代えなどないし、仕方がないのでそれに履き替えた。最近落ち込み気味で、今朝珍しく清々しい気持ちになれたと思ったらすぐにこれだ。
一階の渡り廊下を進む。
まったくツイてない。
運はツイていないが、犯人の目星はついていた。そいつの名前は――、
「…………」
不意に、僕の思考を邪魔する何かが視界に入ってきた。
この中学校では、渡り廊下からグラウンドを見渡せる。ここから遠く、学校の敷地内の隅にある体育倉庫の近くで、オレンジ色の何かがゆらゆらなびいているのが見えた。
明らかに異常。
気づけば足が勝手に駆け出していた。校舎に入って首を巡らせる。バッグを床に下ろし、代わりに廊下の端に設置してあった目的の物を両手で掴み、再び渡り廊下に戻る。
ほんの刹那、ドロドロの土に足が止まったが、すぐにグラウンドに飛び出した。――あの揺らめきは火だ。周りに人はいないし、第一、あんなところで火をつける正当な理由などないだろう。何が燃えているかはわからないが、幸い火の丈は僕のひざあたり。急いで消せば最小限の被害で済みそうだ。だから僕は教職員より先に消火器を探したのだった。
上靴のみならずズボンのすそまで泥まみれにしながらも、息を切らして火のそばまでたどり着く。
消火器の詳しい使用法は知らないが、なんとなくわかる。安全栓を抜き、ノズルを対象に向ける。そしてあとはレバーを握り、薬剤を噴射。思ったより強い勢いで、火は白い煙と共にあっさりと消えた。やってみると案外うまくいくものである。
あとには黒く焦げた何かだけが残った。燃えていたのは何かのスポーツ用具らしい。運動系の部活動が使っていた憶えがあるが、詳しい名前はなんだったっけなあ。ゲートボールのゴールを横に広げたようなカタチ……。うーん、そもそもどこの運動部が使っていたものだったかすら思い出せない。
「……ふう」
消火器をドロドロの地面に下ろし、少し思考してみる。
このスポーツ用具はおそらく、そこの体育倉庫から持ち出されたものだろう。忘れたのか、倉庫に鍵はかけられていない。金属でできたものが自然発火するなどおそらくありえないから、誰かが灯油等をかけて燃やしたに決まっている。
となると、放火か。
今まで身の回りにおきた、様々な事件に首を突っ込んできたけれど、放火はなかった。珍しい……。
「…………」
ケータイのカメラ機能で写真を撮った。記念だ。
「おいっ! そこで何をしているんだ!」
突然、背中に怒号が飛んできて、僕は肩をビクリと震わせた。この中学校はケータイの持ち込みが禁止で、だから僕はまずケータイをポケットにしまった。それから声のしたほうを振り向くと、案の定、先生がこちらに走ってきていた。若い男だ。確か一年の教員で、根岡といった。彼も僕同様消火器を持っているのを見るに、火を見て駆け出してきたのだろう。
彼はスポーツ用具のそばまで寄り、
「火は……、消したのか……」
とひとりごとのように言った。肩で息をしているから声が小さくなってしまったのだろう。
「日頃の、運動不足がたたったみたいだな……」
だそうだ。
数秒かけて息を整え、根岡先生は僕の足元の消火器と僕に目を向けた。
「君が消したのか。ありがとう、お手柄だ。僕も急いだのだけど、どうやら一歩遅かったらしい」
「はあ」
「君の名前は? 学年とクラスも教えてくれ」
疑われている、というわけではないみたいだが……。
「二年二組田中太郎です」
「そうか、田中くんか。じゃあ、君にはあとで話を伺うよ」
どうやら人を疑うということを知らないらしい。
「……しかし、誰がこんなことを……。加賀屋くんに言われたときは半信半疑だったが……」
「加賀屋?」
「ああ、三年の加賀屋くんに火らしきものが体育倉庫の近くで燃えていますって言われて僕は走ってきたんだ」
「そうなんですか」
先生は頷くと、
「もうじき朝のチャイムが鳴るだろうから、君は早く行ったほうがいい。その泥まみれの上靴もどうにかした方がいいだろうし」
「はあ。じゃあ、失礼します」
「うむ。昼休みにでも放送をかけるから」
消火器はここに置いたままでいいだろう。僕は回れ右をして、校舎に向かう。
『加賀屋』の姓は三年にひとりだけだったはず。じゃあ『三年の加賀屋くん』はクラスメートの加賀屋蓮で間違いないだろう。彼も僕と同じくらい早く登校してきていたのだ。
僕は足元を見る。
今は泥にまみれている、この上靴を蛍光ペンで彩った犯人はおそらくその――加賀屋蓮なのだ。
その夜。ここでようやく僕の妹、花川椿が登場する。
部屋で冒険小説を読んでいると、花札片手に椿がやってきたのだ。
「春樹、リベンジ! 今日は花札!」
僕は目だけを動かして、彼女を見据える。
「またか」
ここ最近、毎日のように椿は僕の部屋に押し掛け、トランプやら将棋やら日替わりでゲームに誘ってくる。そのくせ断ると、わめき散らす。はっきり言って迷惑だ。
「別にしてあげてもいいけど、お前、また負けるぞ。一度も僕に勝ってないじゃないか」
ちなみに昨日はリバーシで、盤面が僕の黒一色になった。まさか対人でこんなことになるとは、と呆れたものだ。
「馬鹿言わないで。見ておいて! 今日こそわたしが春樹をコテンパンにして病院送りにするところを!」
「なんだ。コテンパンって、その花札ケースの角で攻撃してくるのか?」
「春樹を攻撃したいのはやまやまだけど、花札はゲームを楽しむものなんだよ? さあ、勝負!」
僕は溜息をついてから本を閉じ、横に置く。
「いいぞ、話したいこともあるしな」
話? と言いながら椿は早速花札を並べている。場に八枚、手に八枚ずつ。『こいこい』だ。
「そう、いい話だ」
「いい話。春樹が剣を串刺しにするマジックで失敗しちゃったとか?」
「それ、僕確実に死んでるじゃん」
「違うんだ。残念」
彼女はどうやら僕にいなくなってほしいらしい。
「それよりももっといい話だ。なんと僕の武勇伝」
もちろん、今朝あった消火のことだ。
椿は口を尖らせる。
「あまり面白くなさそう……。でも、うん、話してもいいよ。それであなたの気が済むのなら」
「兄にあなたって言うな」
「どうぞ、あなたが先行で構わないよ」
こいつは人の話を聞かないらしい。
僕は『菖蒲に八橋』の札を出しながら、武勇伝を話し始める。
「今朝、僕は早くに家を出て学校に向かっただろう」
「そうだったね。どうして早かったの?」
僕は顔をしかめる。
「そこは話に関係ない。いいから聞け」
「……ボヤ騒ぎねえ」
僕が武勇伝を語り終えたあと、椿が呟いた。
「確かに規模はボヤ騒ぎ程度のものだけど、僕は消火器の使い方も知らなかったんだぜ。称賛に値すると思うな」
「感覚でわかるものじゃない? そういうのは『考えるな、感じろ』なんだよ」
消火器の使い方を感じても嬉しくない。
「でもまあ、おめでとう、お兄ちゃん」
なめられているな僕。どうやらこの妹様は何があっても僕を尊敬したりしないらしい。僕の威厳が足りないのだろうか。またゲームに連勝して心を満たそう。無理やり付き合っているが、勝って嬉しくないわけでもないのだ。
「ん、待って。もしかして、今日のお昼頃の放送って、春樹のことだったの? 今朝のことを聞きたいからって一生徒を何度も呼び出していたやつ」
「あ、うん。僕だ」
そういえば根岡先生があとで呼ぶから、と言っていたな。思い切り無視してしまった。
「はは、やっぱり。二年に田中太郎くんなんていないからね。おかしいなとは思っていたけれど」
しばらく無言でこいこいが進み、ボヤの話は終わったと思った頃、椿が口を開いた。
「春樹はそのボヤ騒ぎを調査するつもりなの?」
「なんで僕が」
「だってさ、去年はよくやってたじゃない、そういう探偵ごっこ? わたしの嫌いな『探偵』みたいな自己満足ごっこを」
酷い言い方だし、心外だ。
「あれは迷惑な先輩に付き合わされていただけで、僕自身は自ら進んで事件に首を突っ込んだりはしていない」
椿は首を傾げる。どの手を出すのか迷ったのかと思ったけれど、そうではないらしい。
「うーん、春樹、やっぱり三年生になってから変わったね。何かあった?」
今度は僕が首を傾げた。
「僕がか? 特に何もないけれど、どこが変わったんだ?」
椿はかぶりを振った。
「ううん、やっぱりいいの。ほら、春樹の番だよ」
意味がわからない。
「ほい、一戦目僕の勝ちだ」
「もう一回! 次はわたしが後!」
「二戦目僕の勝ちだ」
「もう一回!」
「僕の勝ちだ」
「もう一回!」
「僕の勝ちだ」
「もう一回!」
「僕の価値は?」
「そんなこと訊かれても!」
結局椿に一勝もさせることなく花札は終わった。椿は花札をケースにしまって立ち上がる。それから、思い出したように言う。
「あ、そうそう、春樹。誕生日プレゼントは何がいい?」
なんと。この妹にしては珍しい。
二週間先の五月三日は、僕の誕生日なのだ。
「なんでもいいぞ。高いものなら」
椿は呆れたように言う。
「大事なのは金額じゃなくて、心なの」
もう訊ーかない、と言って椿はきびすを返して、部屋のドアノブに手をかける。そこではっとまた何か思い出したらしく、僕を振り向いた。
「春樹、最近身の回りに何か異変ない? 正確には新学期になってから」
「はあ?」
さっきも意味が分からないことを言っていたが、どうしたのだろう。
異変……。加賀屋からの嫌がらせを除けば、特に思い当たる節はない。
「確かに充実した毎日を送ってるわけじゃないけど、きわめて普通、今まで通りの日常だ」
「今まで通りの、友達との付き合いが全くない日常?」
「友達がいないのだから、付き合いがなくて当然だろ」
と言ってから、思い出した。
「あ、でもな、来週の土曜日は学校のやつと遊びに行く約束がある」
「へえ。春樹と付き合ってくれるってどんな好事家なのか気になるねえ」
まあ、確かにあいつはどこか普通とは違うけれど。
「一、二年の時、クラスが同じだったやつで、楢っていうんだけどさ、そいつが先日珍しく僕にメールしてきたと思ったら、『買い物に付き合ってくれない?』だって。スケジュールも空いてるし、オーケーしたんだけど」
途端、椿の目が好奇の色で輝く。
「もしかしてもしかすると、女の子なの?」
「生物学上はな。いちおう女。名前は卯月。」
「へー。わたしの勘だけど、春樹に気があるんじゃないのかなー」
椿のやつ、すごくニヤニヤしてやがる。
「それはないだろなあ。普段の言動が、僕への好意の欠片も感じられないし」
「一週間後だっけ? まあ、楽しんでらっしゃい。……話を戻すけど、それ以外では特に変化ない?」
少し考えてから「ない」ときっぱり答えると、椿は「ならいい」と残して今度こそ僕の部屋から出て行った。
謎だ……。
僕は中断していた冒険小説を読もうと、再び本を開いた。
続きます。




