こだわらない
アンドレ・マロは、おそらくは、寂しいのではないだろうか。マータは、彼の会社の人事部長から話を聞いてそう思った。だからといって気を許すわけにはいかない。マータは声を潜めて人事部長に尋ねる。
「あのですね、彼は、その、真面目な方ですか?女性関係が派手だとか、軽いとかそんなことは?」
人事部長は咳払いして、
「真面目ですね。私の知る限り、女性とは、距離を置く人です」
「興味本位でおたずねするのではありませんけ、ご結婚は?あるいは恋人がおられるとか?」
「離婚なさって以来仕事一筋です。これは確実です」
「すみません、変なことをお尋ねして。ただ、しばらく付き添ってほしいというのが、変な意味だったら私も困りますので」
「ヨネスクさんのご懸念は誠にごもっともです。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。先ほど申し上げました通り、当方でしかるべく手配いたしますので、どうぞ副社長のことはご心配なく」
マータは迷った。
「介護サービスというのは、すぐ見つかるんですか」
「いやなんとも。これから調整いたしますので」
「あの、そちらが手配できるまでなら、私がいることもできるかも、ですけれど」
人事部長も躊躇う様子で
「それは、そのありがたいお話ですが、年頃の娘さんの評判に傷でもつくようなことがあっては取り返しが」
「マロさんは純粋に弱っておられるみたいで、このままほおっておけないような気がしてきました。報酬もお支払いいただけるそうですし」
「ヨネスクさん、いかがでしょう、私の口から、彼は絶対に安心ですと申し上げかねることはご理解いただけますか」
それはそうだろう。マータがあいまいに相槌をうつと、人事部長は話を続けた。
「ただ個人的には、彼の人間性を信頼していますし、彼の状況が少しでも楽になるのなら、彼の望みを実現してやりたいとは思うのです。状況は概ね把握できました。まだ結論は出さないでください。副社長と相談の上、善処いたします」
「今、彼は眠っているようですので、起こさないほうがいいかと。目を覚ましたら、部長さんに電話するように、お伝えします」
「お心遣い、痛み入ります、ではよろしくお願いいたします」
「お忙しいところありがとうございました」
マータは電話を切った。ちょっと前向きな態度を示してしまったけど、会社がらみにしてしまえば、きっと変なことにはならないよね。それに、マロがいいかげんな人物ではなさそうという傍証を得られたのはよかった。
静かに居間を覗き込むと、マロは目を覚ましていた。こちらを見上げる彼に
「会社に電話したわ」
と告げると、うなずいて
「私の評判はどうだった?」
と、軽い口調で言う。
「真面目で仕事一筋だって」
「じゃあ、いてくれる気になった?」
「人事部長さんが、介護サービスを頼んでくれるそうだから」
といいかけると、マロが目を細めたので、慌てて、
「その人が来るまでなら、いるわ」
と言ってしまった。マロは肩の力を抜いて、大きく息をつくと、再びマータを見上げて
「想像していた以上にうれしい。本当に、ありがたいよ」
と笑顔を浮かべた。
「じゃ、あの、部長さんへ電話してくれる?私、食料の買い出しに行く。それに、ほら、着替えも全然ないの」
マータは早口に答える。
「すまない、かかったお金は私がもつから、あとで請求して欲しい」
「ええ、そうね、よろしく。あ、そうだ、何か特に嫌いなものとか食べられないものは?」
「うーん、今は思いつかないな」
「大麦のおかゆも平気?」
マロは笑った。
「そういえば、子供の頃は苦手だったよ。骨つきイワシの缶詰とか。大人になってからは食べるようになったけど」
さっきの笑顔は不意打ちだったので、マータもちょっと驚いたが、会話の流れで自然に出る笑いなら別にどうということもない。
「じゃあ、行ってきます。11時過ぎには戻るから」
「ちょっと待って」
マロが立ち上がった気配に、振り向くと、
「携帯の番号を教えてくれる?連絡を取りたくなるかもしれない」
と言われた。番号を伝えて、かかってきた電話を保存する。仕事でもよくあることだ。ついでに確認したが、ミリアからは何も言ってきていなかった。
マータは父の家を出ると、徒歩15分ばかりのスーパーマーケットに足を向けた。昨夜からの雨はようやくあがって、陰鬱な雲が垂れこめている。母の入院のためこの町に引っ越してきたのは10年ほど前になる。それからというもの、週に二、三度はこのスーパーへ通ったものだ。闘病の合間の母と来たことも数回はあったはずだ。町内から外へは出られないような衣料品売り場もある。マータはそこで最低限の着替えをを購入した。後は食料品だ。牛乳と卵とパンと、鶏肉。果物とかチーズは好みがよくわからないから、ほんのすこし。人参とキャベツ。袋入りのフルーツケーキは、マータの好みでチョコレートでコーティングされたやつだが、いいだろう。ミネラルウォーター。この店で買い物をしていると、賞味期限にうちさい父にあれこれ言われて、ふくれながら買い物をしていた10代の自分がよみがえってくる。
レジに向かいかけて思い出した、そうだ大麦、これは父が嫌いだから、ここであまり買ったことがない。ミリアと暮らし始めて馴染んだ食べ物だ。




