脚踏み鳴らす
9月の末のその日、マータは朝8時に通りに出ると、唇を曲げて出版社を目指して歩き始めた。1時間ではたどりつけないかもしれないくらいの、結構な距離はあるのだが、バス代を使うのも腹立たしかったので、歩いてやろうと決めたのだ。ジャケットを羽織っているのは、朝霧を遮るために過ぎない。出版社の連中に、きちんとした格好で来て退職の挨拶をするつもりと思われたら悔しいが、万一そんなことになったら嫌味の一つも言ってやればいい。
マータは気負い込んでバスの経路である大きな道に沿って歩いていった。15分も歩くと、道路が少しずつ登り坂になり始めた。運河を渡るために、道路が高架になっているのだ。マータの足も自然に遅くなり、息が切れる。上着を着てきたことを後悔しかけたが、すぐに一番高いところについた。マータは汗を手で抑えて、道路の側壁越しに、運河に目をやった。かつて、水運で栄えた時代にはマージェレの誇りであったという運河は、今では使われていない。落葉やゴミを淀んだ水にただ溜めているだけ運河の眺めは、いっこうにマータの心を晴らさなかった。
運河を越えると、道路は普通の高さに戻って建て込んだ商業地区をすり抜けてゆく。狭い歩道で、街灯から身をかわした時に、マータの視野の端を、何か見覚えのある物がよぎった。見逃してはならない、そんな気がしてマータは足を止めた。今通り過ぎたばかりの街灯の柱に貼り付けられたポスターだ。マータは街灯に歩み寄って、じっくりと見つめ直した。素人くさいデザインで、来週に迫った教会のお祭りを告げている。マータの胸の奥が、ぎゅっと内側に引っ張られる。昔、このお祭りを見た感激をきっかけにマータは出版社で働くことを目指したのだった。そればかりではなく、ケイレブのこともある。ケイレブの一家は、教会ある地区で商売をしていて、何世代も前からの信徒だ。ケイレブは、マータが知る限りずっとお祭りに参加しているし、そもそも20年ほど前のお祭りの復活について、「あれは、うちの親たちが計画したってさ」と、こともなげに話したものだ。その話を聞いた時のマータは、ケイレブとの運命的なつながりが見つかったと思って、心の中で躍り上がったっけ。
マータは手を伸ばして、ポスターの粒子の荒い写真に触れた。お祭りの写真を見ると、どこかにケイレブが写ってはいないかと、マータはきまって隅々まで彼を探してしまう。けれども、もうそんな癖は直さなくてはならない。マータはため息をつくと、ポスターから手を引っ込めた。そして、向きを変えて出版社への道を再び歩きはじめた。
事前に見積もったとおり、9時の始業時間を過ぎてまもなくマータは出版社に到着した。経理部門の事務所のドアを開いて用向きを告げる。デスクに向かっていた女性社員がマータを振り向いた。中年にさしかかる年齢のその女性社員は、細く描いた両方の眉をぐっと、額にしわができるほど持ち上げてみせながら、
「あらあら、契約打ち切りになった方ね、伺っていますよ」
と頷いてみせた。
「私が、契約更新をお断りしたんです」
マータはそこを譲りたくなかったのでわざわざ言い返したが、相手ははマータの反論には耳をかさず、立ち上がってあちこちの引き出しをかき回し、書類を取り出した。
「はい、これとこれとにサインして、経費の精算があったら、今日絶対に片付けて下さいよ」
マータはむっつりと書類を読んではサインしていった。女性社員は傍らに立って、ペンの尻を頬骨に当てながら見ていたが、
「あなたのお名前は、私、よく覚えていたのよ」
と小声で話しかけてきた。彼女が顔を近づけてくると、甘酸っぱいような化粧品の匂いがして、マータは眉根を寄せた。
「ほら、この間、ヨナスさんがホテルで怪我をしたって、電話で知らせてくれたじゃない?」
その時のことは、マータのほうだってよく覚えている。ヨナスとマータの間柄を邪推して面白がるような口ぶりにひどく腹が立ったものだ。
マータは聞こえなかったふりをして、書類を束ねると相手に押しつけた。
「はい、これ、手続きして下さい。急いでるんで」
マータの声が高くなったので、相手は
「まあ、あなたも、大変よね」
と訳知り顔で頷いた。そして彼女はゆるゆると手提げ金庫の小銭を数えてマータに手渡した。マータはイライラして掴むように取り、それ以上何か言われる前に事務所を足早に出た。
建物の外に出てから、摑んでいた小銭を上着のポケットに流し込み、マータは出版社を後にした。大股で、心の中では地団駄を踏んで、奮然と歩く。大通りに出るとすぐに、後ろから特徴的なエンジン音が近づいてきた。駅の方に行くバスだ。マータは前方のバス停まで走った。少しでも早く出版社から遠ざかるためだ、このバス代は惜しくない。
バスに乗り込んだマータは、唇を固く結んで、バスのフロントガラス越しに進行方向を見つめ、ささやかな仕事をもらえることを有難がって何度も通った道沿いの風景に心を動かされまいとした。結局、ヨナスと顔を合わせることはなかったし、彼が本当にマータの能力を評価していたのかすら、わからないままとなってしまった。




