勢いづく
ミリアムが仕事に出掛けた後、部屋に残ったマータは、退職の準備を進めていた。退職といっても、もともとマータはマージェレの出版社の正社員でもなく、ただの請負だったし、有り体に言ってそれほど多くの業務を任してもらっていたわけでもない。かつて彼女の努力の結晶として、特別の紙挟みに挟んでおいた請負契約書を取り出して、マータはもう一度確認した。彼女の契約は月単位で、特段の事情がなければ更新することとされている。9月一杯でこちらから更新を断ればいい。そうして、とマータは奥歯をぎゅっとかみしめて心を決めた。あたしは堂々と無職、ていうかアルバイトになろう。これまでの努力を無駄にするのが惜しくて、くだらない野郎の機嫌をとるのは絶対にごめんだ。
9月中には、あと一度定例の打ち合わせの予定があったが、マータは二度とヨナスと顔を合わせたいとは思えなかった。向うだってそう思っているに違いない。彼女は締め切りのある原稿をまとめて書き終えると、同じ業務請負者であるバルトに、代わりに提出してほしいとメールで送りつけた。バルトには事情の一端を話したことがある。マータが自室のノートパソコンの前からまだ立ち上がらないうちに、彼から電話がかかってきた。
「バルト?悪いけどさっきの奴、代理で提出してくれる?急に退職して仕事に穴空けたとだけは言われたくないんだよね」
マータは電話に出るなり、性急に意思を伝えた。
「あ…お前、大丈夫…これから」
バルトは緊張しているのか、いつも以上に判然としない話し方をして、マータは苛立ちを覚えた。
「大丈夫なわけないでしょ。次の仕事の当てがあるわけじゃなし。それでも、首切られるよりましだわよ」
自室のデスクに置いたノートパソコンの前で話しながら、マータはキーボードの汚れを無意識に爪で引っ掻いていた。
「俺には、ヨネスクみたいに、割り切ることは、無理で…」
バルトは何かを釈明するような口ぶりになったが、彼の言葉の選択が、ますますマータの神経を逆撫でした。
「割り切るなんて話じゃないよ。何わかんないこと言ってるのよ」
噛みつくように言い返すと、バルトからの反応がなくなってしまった。マータは数秒待って、少し肩をすくめると
「…じゃ、打ち合わせ、よろしくね」
と電話をきりかけた。しかしその時バルトが声を出した。
「あ、俺がさ、こういうことができないように、変えていくから、職場を。そしたら、いつか、戻って来られ」
「はっ!俺が変えるって、やっぱり社員登用の話が来たんだ。」
マータはバルトの言葉を最後まで聞かずに遮って、強引に言葉を続けた。
「折角だけどお断りするわよ。あたしがやりたいのは、今週のお買い得商品の説明なんかを書くことじゃないってわかったし」
マータはバルトに話しながら、首都で出会った老人の、白っぽく濁った瞳や震える手を思いだしていた。あの人はやりたいことをやればいいと励ましてくれた。
「あたしね、観光学っていうの、勉強したいの。あんた、大学出なんだから、勝手がわかるでしょ。どうやって受講すればいいの?」
「え?」
「観光ガイドの資格を取ろうと思ってさ、調べたら、観光学の単位が必要なの。大学卒は必須条件じゃないみたいなんだけど、ネット見てもいろんなことが書いてあって、わかんないのよ」
「えっと、ちょっと、待って、観光ガイドってそれは、どういう、心境…」
「心境の変化とかじゃなくって、もともとガイドブックとかの仕事がしたかったの。御社ではそこまでたどりつけなかったから、別の方向から進むことにしたの、この機会に!」
「ああ、なんだ、そういう、それだったら」
バルトはぼそぼそした口調ながら、
「首都の公立大学になら社会人コースがある」と、マータが知りたかった情報を明確にしてくれた。
「この州には、無いのね」
「うんそうだな、そんな気の利いた大学じゃないから、ここのは」
マータは空中を見上げて考えた。マージェレから首都は遠い。マータの父の住むターエストまで、列車の乗り継ぎがどんなによくても1時間、首都はそこからさらに1時間以上かかるのだ。大学に行くつもりなら、少なくともターエストに移り住まなくては無理そうだ。
「ありがとう、そういうことだから、よろしく」
「うん、わかった。それじゃ…」
マータはバルトとの電話を切るボタンを力を込めて押し、スマートフォンを膝に下ろした。バルトと話したおかげで勢いがついた気がする。そのままパソコンに向き直ると、型通りの文面で退職の意思を伝える文を書き、管理者であるヨナスと、総務部門の同報にしてメールで送りつける。
「契約打ち切りのお知らせ」みたいなメールが入れ違いにとどいたら悔しい。マータはしばらくの間、メールソフトをリロードするたびに怯んでしまったが、結局は、翌日に事務的な返信があっただけだった。
退職に伴う精算のため、9月末日に出版社の事務所に来るように求める内容で、マータは思わず小鼻をうごめかして不愉快さをこらえた。ヨナスに会ってしまったらどうしようという不安は確かにある。だからといって絶対に弱みを見せたくないし、貰える経費をふいにすることはない。「行こうじゃない」と彼女はつぶやいた。




