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 ケイレブのこと以外にも、マータには気にしないといけないことがいくらでもあった。将来のことを考えるのはひとまず保留にして、まずやりかけの仕事だ。マージェレに戻ってきた次の日には、商店街の催し物の取材をする約束があったし、あのセクハラ上司に、駄目だしされた原稿の締め切りが迫っている。マータは数日を忙しく過ごした。


 一日に何度かミリアと顔を合わせるたびに、マータはできるだけいままでどおりに受け答えするように気をつけていた。だが、長い付き合いのおかげで、ミリアにはなんとなくマータの憂鬱が気取られてしまったらしい。


「ターエストで何かあった?お父さんとまた揉めてたりする?」


 夕食の後、マータが流しで食器を洗いながら、ため息をついたところに、ミリアが尋ねた。ミリアは先に食事を終えて、キャラメルの香りのするインスタントコーヒーを飲んでいたところだったが、マータのため息が耳に入ってしまったらしい。


「いや、『また』って、しょっちゅう揉めてるみたいに言わないでよ。今回は会ってないし」


マータの答えに、ミリアは首をかしげる。


「って、実家にいたんじゃないの?」


「父、しばらく出張だって。だから顔は見てない。でもその事でじゃなくって」


マータは皿をすすぎ終えて、しっかりと水道の蛇口を閉めてから、流しの前でミリアに向きなおった。ここでうっかり余計なことを口走らないように気をつけなくてはならない。


「実はあたし、無職になりそうなの」


マータはミリアの顔を見ながら告げた。ミリアはカップの縁越しに黒い瞳を見張った。


「え、何、急に、どうしちゃったわけ」


ミリアは咳き込みそうな勢いで尋ねる。


「実は上司とやりあってさあ」


マータは話しながら片手を振り動かして応酬があった様を示したが、急にその手を下ろして肩をすくめた。


「やっぱりオヤジと揉めてんじゃん、て話だけどさ」


「そうなんだ…確かにあんた、前から給料は良くないって言ってたけど」


マータは首を左右に振った。


「待遇の問題じゃないよ、詳しい話はできないけど。あたしにも悪いとこがあって、公にしない約束だから」


「え、それってなんか、大丈夫なの?会社にいいようにされてない?」


懸念で眉根を寄せるミリアに、マータははっきりとうなずいて見せる。


「仲介の人に入ってもらって、ちゃんと決めたから、それはいい、納得してる。仕事も、自分から辞めるつもり」


ミリアは唇を曲げた。


「あんたが決めたんなら、あたしが口出すことじゃないけど、その上司にムカつくっていうか、悔しいっていうか、ねえ、ほんとに辞めちゃっていいの?だって結構苦労してみつけた仕事じゃん?」


ミリアの混乱した言葉が、マータの心には温かくありがたく沁みた。ミリアとルームシェアをしていた数年の間、彼女はずっとマータを応援してきてくれたのだ。マータは流しから身を離すと、ミリアの肩に腕を回した。


「嫌な野郎のいるとこで働きたくないしさ、それだったら他を探すわ」


「なんか納得いかねー、って気もするけど」


ミリアは不満気な声を立ててから


「そのほうがいいのかもね」


と続けた。マータは親友を抱きしめて、勇気を出そうと深呼吸した。彼女のいつもの化粧品の匂いコロンと、ほのかなキャラメルの香り。そのまま、顔をあわせずに、心の奥の想いを口に出した。


「ずっと憧れてたから、『これしかない』って自分で決め込んでたところもあったんだと思う。本当に一生続けられるのかとか、考えたことなかったし、ある意味、いい機会だよ」


「あんなに頑張ってたのに」


ミリアはカップを持っていないほうの手で、マータの背中をぽん、ぽん、と慰めをこめて叩いた。あやうく、また涙をこぼしそうになったマータは、一度ぎゅっと目を閉じてから、


「ミリア」


と呼びかけた。大丈夫、声は震えていない。マータは身体を離した。


「ミリア、そういうわけだから、ルームシェアどうなるかもわかんない。どうしても仕事がなければ、最悪実家に帰らないと駄目かも」


『それとも首都に出るか』という案は、あまりにも大それたことに思えて、まだマータには口に出せなかった。


「そっか」


ミリアはうなずいたが、すぐにいろいろと考えを巡らせ始めた。


「でもそれって、今すぐの話じゃないよね、えっと」


天井を見上げて記憶を辿る。


「ここの契約、とりあえずは12月までだけど、それは早めなくてもいい、よね?」


「うん、たぶん、それぐらいなら」


マータの答えは頼りない。数か月、このまま家賃を負担しながら、職探しをすることはできそうだ。『物を書く』という職種にこだわりを捨てれば、アルバイトでもなんでもして、食つなぐことはできるだろう。


「ミリアは、大丈夫?もしか、あたしがルームシェアやめても」


今度はミリアのほうがマータの頸を引き寄せた。額をこつんと合わせて、いたずらっぽく笑う。


「ぶっちゃけ、ケイレブと進展したりして」


「ミリア」


こんどのマータの声には、非難の色があった。ミリアは


「冗談よ。まだ付き合い始めたばっじゃん」


と笑い飛ばしたが、マータの胸は密かに痛んだ。


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