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帰宅

 首都の通りを突っ切って、ざっくりと見物したマータは、鉄道を乗り継いで帰宅した。マージョレに戻ってきたのは初秋の日暮れが、すっかり夜になった時刻だった。


 親友のミリアとルームシェアしているアパートメントの階段を、マータは重い足取りで登る。マータが密かに憧れていたケイレブと付き合い始めたばかり、そんなミリアの顔を見るのが憂鬱だ。あれこれと理由をつけて先送りをしてきたけれど、いよいよ事態に直面する時がきてしまった。マータは誰もいない階段で、顔じゅうをぐしゃっと歪めて精一杯の不満を表明してから、できるだけ普段どおりの表情を保とうとした。ところがすぐに、ケイレブが一緒にいたら嫌だなあ、という考えが心に湧きあがってくる。マータは立ち止まって頭を垂れ、大きく息をついた。以前だったらケイレブに会えたら浮かれていた癖に、と自分に言い聞かせる。そんなふうに一人で百面相をしているうちに、5階についてしまった。さあ、ここからは感情を表情に出さないようにしなくては。


「ただいま」


マータがアパートメントの扉を開くと、


「あ、マータ」


と室内でミリアが立ち上がる気配がした。マータはこの期に及んでも、まだミリアの顔を見るのが怖くて、わざとゆっくりと戸締りをした。そんなマータを出迎えて、


「夕食、食べるよね。待ってたんだ」


と、ミリアはいつもと変わらない口調で言った。マータは


「うん。ありがと、助かる」


と適当に答え、扉の横の壁に貼ったコルクボードに視線を投げた。二人の予定や伝言、買い物メモなどに交じって絵葉書や片方だけのピアスまでが留められている。玄関を通るときにいつも目をやる習慣だけれど、先週から特に変わった様子がないのが、なんだか不思議な気がした。そのせいでマータは、


「ケイレブはいないの?」


とミリアの背中に問いかけてしまった。ミリアは肩越しに照れた目をちょっとマータに向けて、


「夕方帰ったよ」


と言葉少なに答えた。そしてテレビが見える位置で広げていたらしい爪やすりやオイルなどを拾い集めながら、


「マータさあ、こないだ一度帰ってきたでしょ、あの時は散らかしててさ、ごめんね。今日はちゃんと掃除したから」


と弁解するように続ける。マータは何と答えればいいのかわからなかった。息が詰まるような気がする。


「いや、ちょっと、あれだったわ、けどね、あ、そういえば私、お土産あるんだ」


唐突にマータは話題を変え、バッグを探って、首都で買った品の包みをミリアに手渡した。


「オレンジ、干しイチジク、デーツのお菓子と、それからコーヒー」


「おお、美味しそう。ねえ、今日これで飲もうよ?」


ミリアはイチジクの包みを掲げてマータに尋ねた。週末には時折、そんなふうに二人でワインを飲むこともあった。けれど、


「ごめん、なんか疲れちゃって、早く寝たいんだ。また今度」


そのままマータはうつ向きがちに自分の寝室に荷物を持って行った。好きだったケイレブと付き合いだしたからといって、ミリアのことを嫌いになることはできない。でも、今日はまだ、お酒を飲んで語り合うなんてできそうにない。


 残されたミリアは眉を持ち上げたが、何も言わずにキッチンで夕食の準備を始めた。ゆでておいたパスタにとろけるチーズをのせて、電子レンジであたためる。ジャージの部屋着に着替えて出てきたマータを椅子にかけさせて、総菜屋で買った肉詰めピーマンの皿を並べる。それからミリアもマータの向かいの席に着くと、


「さあ、食べよ」


とフォークを取り上げた。


「五日間も、マータに外泊させちゃたね。色々面倒だったでしょ」


ミリアは屈託なく会話を続ける。


「まあね、でも、仕方ないよ」


とマータは答えて、ピーマンを口に運んだ。口に広がる苦みと酸味は、ピーマンなのかマータの感情なか、うやむやになって、ちょうどいい。


「平日でしょ、仕事もあるじゃない、でもあいつと長く一緒にいられて」


ミリアは言葉を切って、照れ隠しに左手を上げて長い髪を耳に かけた。


「マータのおかげ」


小声でつけくわえる。マータは水を飲んだ。落ち着いて、何か適切なことを言わなくてはいけない。


「ケイレブって実家に住んでたよね。帰らないのまずくない?」


適当に、マータはそんなことを口に出した。


「そうなの、だから、ずっとここにいたわけじゃないよ。あいつの家、わりと堅いんだって、その辺」


ミリアは笑って答える。マータは、つい、いつもの習慣で親友の表情を見てしまった。その時気付いた。ミリアがとても幸せであることが、マータには理解できる。心の大部分を占めているのは憂鬱だけれど、それでもミリアの幸福について、喜んであげる気持ちが、マータの裡にちゃんと残っているのだ。


 マータも、少しだけ笑顔を作ってみた。


「大変だけど、がんばりなよ」


マータの相槌に気をよくしたように、ミリアは勢いこんで続けた。


「ありがと。私もあんまり印象悪いのは避けたいのよね。だってほら、今後、どうなるか分かんないじゃん。」


今後、それは結婚ということだろう。


「そっか。そこまで視野に入ってるんだ」


マータはつぶやいた。マータにとって結婚なんて遥か未来のイメージだった。でも、ミリアには割とリアルな話になっている。それもケイレブとだ。


「ほんとに、ケイレブのこと、真剣なんだね。ほんとにこう、なって、良かったよ」


マータは改めて、ミリアに向かって声をかけた。気をつけて、悲しい顔にならないようにする。ほんの少しだけ涙がにじんだのをジャージの腕で押し拭う。


「おめでとう、ミリア」

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