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頭を悩ます

 引っ越し先を決めて家を売り払ってしまえばすっきりするだろうと考えていたアンドレ・マロだが、まず、引っ越し先をみつけるところから、うまくいかなかった。不動産屋の店員の態度が、なんとなくアンドレのやる気を殺ぐのだ。改めて連絡しますとは告げたものの、勧められた物件はどれも気が進まない。だからと言って断りの文句を考えるのすら面倒で、アンドレは、住居探しには心の中で「検討中」の札を立てて放置することにした。


 そのかわりに、週明け早々に弁護士事務所に頼み込んで、マンションから貴重品を引き揚げる算段をした。事務員が水曜の午後に荷物を取りに行く、ということを事前に家政婦に伝えておいて、当日は彼の携帯に電話して指示をした。貴重品といっても、貴金属や腕時計などに興味もないので、わずかな書類程度だ。洋服もCDもカメラも、取り換えが利く。結婚祝いに貰った食器などもってのほかだ。流石にパソコンは中のデータを処分しなくては捨てられない。事務員にケーブルを外して発送できるようにまとめてもらえば、後は家政婦に頼める。


 作業はすぐに終わり、事務員が、


「ちょっと電話代わります」


と断ったかと思うと、家政婦が話し始めた。


「マロさん、お花、さっき届いたわ。どうもありがとう」


アンドレはわけがわからずに聞き返した。


「お花って?」


「いやだあなた、隠しても無駄よ。差出人がちゃんと書いてあるわよ」


「ちょっと待って、本当になんだかわからない。なんの花です」


「えっと、ガーベラと、カーネーション。カスミソウも」


一旦、アンドレはスマートフォンを耳から遠ざけて、ヨネスク家の壁紙の柄を眺めた。息を整えてから、おもむろに、問い直す。


「花束が、届いたんですか?いつ、誰が持ってきました?」


「今日の午後、彼が来る前よ。花屋の人が来たの」


「誰から、誰宛てですって?」


「どちらもマロさんになってるわね。何、もしかして、宛先を間違えて書いちゃったの?」


「違います。私が送ったんじゃないんですよ」


普通の贈答なら、差出人としてアンドレの名を書くことは考えられない。自宅に直接届けられていた、例の手紙を思い出して、アンドレは息がつまるような気がした。咳ばらいをしてから、


「なにかメッセージがついていたり、」


と問いかけると、家政婦が花を改めるらしい、がさがさという音が聞こえてから、


「何もないわねえ」


という答えが返ってきた。


「その花はちょっと、もう、捨ててください。気味が悪いから」


「あら、折角」


家政婦の反論を遮って、アンドレは


「すみませんが、彼と代わってください」


と一方的に告げた。今日来てくれた事務員は詳しい事情を知らないが、その彼に、花束の送り状をアンドレの担当の弁護士に渡すようにと頼む。何かの手掛かりになるかもしれない。電話を切ってすぐさま、弁護士のほうへも電話を入れたが、ちょうど打ち合わせ中ということで、面会の予約しかできなかった。


 アンドレは椅子の背においた肘に額を載せて考えをまとめようとした。これはいったい何だろう。花を送ってくるのも無料ではない。思い出したくもない相手のことを考えさせる目的で、わざわざ金をかけて、一見好意とも見える高度な嫌がらせをされているのだろうか。離婚のときに慰謝料を取ったことの逆恨み、という動機は、十分ありそうに思える。しかし、それならば手紙の時と同じように差出人として離婚相手の名前を書いたり、復縁を求めるメッセージを添えたりしそうなものだ。


 頭を悩ませても、何の結論も出ない。その夜はいつも以上に寝付くことができず、アンドレは夜中に一度寝室を出ようとして、廊下にある何かを踏みつけそうになった。驚いてよく見ると、毛布をかぶったキリヨフだ。彼は床から頭をもたげると、目をしょぼつかせながら、


「夢見たんかね?」


とアンドレに尋ねた。


「いや、まだ寝てない、だけど、あなたはここで寝てたの?」


キリヨフは気まずそうな笑い声を立てて立ち上がった。


「どうも、向こうの部屋からだと旦那さんの様子がわかりづらくてね」


伸びきらない腰を二、三度こぶしで叩き、キリヨフは毛布を畳みながら、台所へ入っていった。手近の椅子に腰を下ろし、テーブルに肘をついて額を支えている。アンドレは彼の向かいの椅子に座って、流しの上の吊戸棚に視線を投げた。


「あんなところで寝させるのは、心苦しいな」


「なに、仕事の内でさあ。給料分は役に立たなきゃあね」


「夢が、怖いくらいのことで、私は甘えすぎだと思う」


アンドレは手が冷たくて、両膝の間に挟んだ。キリヨフは


「旦那さん」


と呼びかける。アンドレが向きなおると、彼は顔の横を掌で支え、苦笑いしてつづけた。


「人間ってのは、つまんないことで調子を崩すもんでね。前に軍にいた医者から聞いた話ですが、同じ年頃で、同じように怪我をしても、一人だけどんどん悪くなる若いのがいたそうです。なんでかっていうと、そいつは歯が弱くてね。誰も十分に歯が磨けないが、そいつの歯は腫れてしまった。そうなると飯が食えない、夜も寝れない、怪我すると治りが悪いどころじゃないってね。怖い夢だって馬鹿にしたもんじゃねえでさ」

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