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意識する

 その日の午後、結局ネクタイをしないままに訪れた不動産屋で、名刺を渡すと、担当についたのはアンドレよりいくつか年下と思われる女性店員だった。


「こちらにご記入をお願いします」


と渡された用紙に向かうと、たちまち<住所>という欄が目について、アンドレは眉をひそめた。あの家の住所を書くのは止そうと思う。


「これは、連絡のつく住所でいいですね?」


と尋ねると、相手は意味がわからないという顔をした。アンドレは事情を説明する気になれず、黙って会社の住所を書いておいた。ヨネスク氏の家の所番地は思い出せないので書きようがない。記載した紙をカウンターの上で押しやる。


「確認させていただきます。ご家族構成はお独りで、賃貸で、家具付きのアパルトマン、をお探しですのね。駐車場はなし、で、ご予算は?」


相手はコンピュータにデータを入力しながら、各項目を確認してくる。


「月800まで、と考えたんですが、相場はどんなものですか?」


アンドレの学生時代よりは、ずっと値上がりしているはずだが、見当がつかない。


「ちょうど、大学の新年度の時期ですので、お安めの物件、一寝室で暖房が古いとか、日当たりがよろしくないですとかね、学生さんですとそのあたりは目をつぶられてご契約なさいますので、まあそういった物件が少なくなっておりますね」


店員は愛想よく答えてくれるのだが、べらべらと続く言葉を追い続けても、結論がよくつかめない。アンドレは理解を放棄して、適当に相槌を打つことに終始した。結局は紹介してくれる物件を見ればわかることだ。流れるような口上の果てに、数件の物件が提示され、そのまま内見に向かうことになっていた。プロに任せてしまえばなんと楽なものか、とアンドレは思ったが、実はそこからが大変だった。


最初に不動産屋から徒歩で連れていかれたのは、新築でアンドレの会社にも徒歩圏内というのが売りであったが、都心すぎてアンドレはすぐ断った。そこから店員の運転する車で2カ所を回った。一方はずいぶん安いと思ったら落書きだらけの古い建物の地下、もう一方は改装済を謳っていたが、やたら豪華な石材やブランド照明の割に間仕切りのないお洒落物件で、どちらも落ち着いて暮らせそうにない。


 あまり気乗りしないままアンドレは、最後に、と、ターエストの東端で山を切り開いた地区へと案内された。中古マンションの一区画が賃貸に出されたという。不動産屋の車を降りて、アンドレは周囲を見回した。街なかとは違って植物が豊かで、建物の並びからしてゆったりとしている。地下鉄はこの地区まで通っているので、通勤に支障はないだろう。


 ここはすこし古びた内装の二寝室の物件だった。ヨネスク家よりずっと面積は広い。


「東南がベランダになっていますので、眺めもよろしいですよ」


店員に誘われて、アンドレはベランダに出てみた。ここの建物を含め、町全体が低めに制限されているので、確かに視界が広い。街並みの向こう、わずかに色づき始めた森の梢の間に、マージェレから流れてくる大河が見えるはず、ということだが、雲か霞に覆われて流石にそこまでは見えない。


「これは、結構なお値段でしょう?」


室内に戻って、アンドレは店員に問いかけた。


「1000ユーロと、別途管理費になりますね」


なるほど確かに高いが、思ったほどは高くない。絶妙なところだ。


「ターエストの西側でお勤めなら、少しご不便な立地ですが、お客様でしたら問題ございません。こちらの地区で賃貸は滅多に出ませんので、もう本当にかなりのお勧めですね」


「そうだねえ、台所なんかがこんなに広くても、無駄だろうし」


アンドレはためらった。不動産屋の店員は食い下がる。


「お客様、今はお独りでも、今後ご結婚されたときのことを考えれば、このくらいの広さは十分必要になりますね」


他意のない発言だろうとは思ったものの、彼女のその言葉を躱すように、アンドレは身体の向きをさりげなく変えた。気に障ったと感じさせないよう、笑い声を立てたうえで、


「そんな見込みは、当面ないからね」


と、穏やかな口調で答える。そして、どう言い返されるかと身構えて相手を見つめたが、


「お客様ならいつ、素敵な出会いがあってもおかしくないですもの」


という持ち上げるような反応で、アンドレは力をぬいた。そうしながら、何でもなくできていたはずのことに、やけに疲れている自分を意識した。


「折角案内してもらったけれど、もう少し検討した上でもいいかな」


アンドレが遠回しに切り上げを求めると、不動産屋はなんとか気を引こうと、この物件がいかに人気があって他の客に奪われるかもしれないというような説明をし始めたが、アンドレにとっては軽く聞き流せる話だ。


「そうだ、いい機会だから、一度地下鉄で帰ってみることにしますよ。ですから、帰りは送ってもらわなくていいですよ」


急に思いついたというように、アンドレは宣言し、


「いや、どうもありがとうございました。改めてご連絡します」


と店員に手を差し出して、その場を収めた。

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