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話せる

 夕方、介護サービスから来てくれたのは、キリヨフという中年の男で、昼間は近くの老人施設で働いていると自己紹介した。発音に訛りがある。東欧からの移民か、出稼ぎかもしれない、とアンドレは考えた。


「大の男が、情けないことをお願いすることになるが、夜、私が魘されていたら起こして欲しいんだ」


アンドレが説明すると、キリヨフは、顎を撫ぜた。


「入浴だの服薬だのの世話は不要ですかね。それだったら、明日からもっと遅くに来てよろしいかね?朝も8時ぐらいには出たいもんで」


「ひとまずそれで頼むよ」


 アンドレはキリヨフを狭いほうの寝室に案内した。相手は荷物を床に置いて、軽く見まわし、


「こりゃ結構なことで」


と感想を述べる。アンドレが廊下の反対端の、大きいほうの寝室でやすむことを説明すると、


「そばで寝なくて大丈夫かね」


と尋ねた。


「これまでいてくれた人は、ここから起こしに来てくれたよ」


というアンドレの答えに、キリヨフは、ちょっと肩をすくめた。


「旦那さん、食事の方は大丈夫なんで?」


「一時全然入らなかったが、かなり普通に食べられるようになったところ、かな」


「そりゃあ何よりですがね、食事の支度はどうです。なんなら、追加で自分がやれますが」


アンドレはキリヨフのごま塩頭の、後退しつつある生え際を眺めて、返す言葉を探した。


「あなたは料理もできるのかい、万能だね」


「できる、といっても煮るだけ焼くだけですがね。何しろ独り暮らしが長いもんで、なんでも自己流でさあ」


そうだねえ、と言葉を濁して、アンドレは台所へ引き返した。キリヨフもその後についてくる。彼は台所の煮物の匂いを嗅いで、感心したように目を細めた。


「とりあえずお茶でもというところだが、コーヒーしかない」


ヨネスク氏の娘がやたらとコーヒーを淹れていた様子を思い返しながら、アンドレはコーヒーの粉を探し出し、もたもたとセットして、なんとかコーヒーメーカーを動かした。


「本格的ってやつだね。旦那さん、コーヒー党ですか」


「いや、この家の人がそうなんだ。私は一時的に住ませてもらっているだけでね。だから使い慣れてない」


 アンドレはカップを出そうとして食器戸棚に向かい、そこで手を止めた。この家の食器は実に不揃いだが、コーヒーカップばかり、数が多い。彼女はいつも黄緑色の柄がついたずんぐりしたカップを使っていた。アンドレは、手前に出ていた黄緑のカップを、食器戸棚の一番奥に押し込めてから、いくつも同じのがある白いカップを二つ選んで、キリヨフと自分のためにコーヒーを注いだ。


「私も、料理をできるようになろうと思ってね」


台所のテーブルについて、コーヒーを飲むと、アンドレの口からそのような言葉が出てきた。


「そいで、これですか?これだけできるんなら、自分はお呼びじゃないね」


キリヨフはカップを持ち上げて、鍋のほうを示してみせた。アンドレは、それについてはうなずくにとどめた。


「キリヨフさんは、今も一人暮らし?」


相手はまた肩をすくめた。これが彼の是認のしるしらしい。


「田舎には嫁と嫁の親がいるがね」


「なら、うちに来る前に自宅に戻って夕食を拵えるのは面倒かな?なんなら、ここで食べるようにしますか。私は料理に自信がないから、あなたも何か買ってきてくれたら、合わせてなんとかなるんじゃないかな」


「それじゃあ介護じゃなくってお客に来てるようなもんだね」


キリヨフは笑った。その笑顔で、アンドレは一気に気楽に話せるようになった。


「その代わり、味は保証できないよ。買ってきた分は割り勘だ。あと朝はパンとコーヒーぐらいになる」


「旦那さんがお好きでコーヒーっていうんじゃないなら、紅茶にしてもらえませんか。そしたら文句なしで」


二人は手を握り合った。


 キリヨフは、近所の総菜屋へ出かけて行って冷肉やピクルスやらを買ってきた。それとヨネスク家の煮込みとで、男二人の夕食となった。キリヨフが煮込みをほめたので、アンドレは決まりが悪くなり、実は残り物を温めただけだと告白した。


「前にいた人が作っておいてくれたんで、私の腕前じゃないよ」


「なるほど。それだったら明日っからこの鍋にね、洗ったりせずに、また具を足して煮込めば、そこそこになりまさあ」


「牛肉じゃなくてもいいのかな」


「ああ、構いません。安いワインとね、あとは人参や玉ねぎでどうとでもなる」


アンドレは、思わず自分だけの理由で笑みをうかべて、


「それはいい。玉ねぎならたくさんあるんだ」


と答えた。


 その夜、アンドレの夢は、普通の悪夢とは少し違い、ひどく無味乾燥だった。何か四角ばった概念的なものがいくつも並んで、力強く息づいている。同時に別の世界では誰かの平和な話し声が続き、聞き逃すのがなぜか恐ろしい。何をどうすれば正解なのかもわからないが、とにかくどちらも切迫してくるのがわかる。同じ展開を繰り返して、何度も何度も追いつめられる。そのうちに、これから追いつめられるのだという予感だけで涙が出そうになって、目が覚めた。マータはいない。

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