悪びれない
アンドレ・マロは職場の近くのカフェテリアで簡単に夕食を済ませた。ビルの正面入り口は施錠済みの時刻なので、裏口から入った。フロア全体の扉は、鍵がかかっていなかったが、オフィスの中には人影がない。最後まで残っていた電算チームの社員も帰宅済みらしい。
アンドレは、鍵の保管場所を確認した。他の部署も退勤済みだった。後で文句を言われないように、オフィスの鍵をかけないまま、鍵を管理会社に戻しておかなくてはいけない。その前に一度自分の席につくと、パソコンを立ち上げながら上着を脱いでネクタイを緩めた。急ぎの仕事があるわけではないが、何もせずに座っているだけでは、夜はあまりにも長い。アンドレは、地下のビル管理会社の事務所まで出向くのが億劫で、なんとなく仕事のメールの整理などを始めた。
廊下に足音がして、ドアの開く音がしたので、アンドレはモニターを見たままで耳だけを澄ました。警備員かなにかなら、会釈くらいはすることになるだろう、と心構えをする。しかし、パーテーションの戸口から顔をのぞかせたのは、人事部長のザルチ氏だった。
「アンドレさん、また残業ですか」
と、彼が尋ねた口調は穏やかだったが、マロは急に自分の周りだけ空気が薄くなったかのように感じた。答えるまえに荒い呼吸をする。
「いや、そ、それが、お恥ずかしい、先日も注意されたばかりですが、どうしても仕事が間に合わなくて」
「社長から、そんなに急ぎの仕事はないと、私は伺いましたよ。アンドレさん、遅くまで一人で何をされているんです」
アンドレには返す言葉がなかった。実際何をしているというわけでもないからだ。アンドレの沈黙はザルチ氏の懸念を深めた。
「あなた、社長や私たちに話せないような、困ったことになってるんじゃ」
問い詰められたアンドレは、机上で握りしめていたマウスから手を引きはがして、咳払いすると、椅子にかけたまま、ザルチ氏の深刻な顔を見上げた。
「会社にいたからって、そんなに悪いことじゃないでしょう。それに残業手当も貰っていませんよ」
アンドレは冗談を口にしたが、ザルチ氏は頭を振っただけで、机上のパソコンに手を伸ばすと、いきなり電源をOFFにしてしまった。
「人事部長として、私には社員の心身の健康に責任があります。あなたが役員だからといってこんなことを見過ごすことはできません。私のオフィスで説明していただきます」
アンドレは目を逸らしたが、再度ザルチ氏に促されて、しかたなく椅子から立ち上がった。
ザルチ氏はアンドレを人事部の一番狭い会議室へ通して椅子に掛けさせ、自分は休憩コーナーで紙コップのコーヒーを買って、両手に一つづつ持って戻ってきた。一つをアンドレに手渡すと、空いた手で椅子を引き寄せて腰を下ろす。アンドレはコーヒーを受け取ってぼそぼそと礼を口にした。ザルチ氏はコーヒーを啜って、アンドレの様子をみることにした。アンドレはコーヒーを一口飲んでから、紙コップを机に置いて、その手前で両手の指を揃え、口を開いた。
「本当に、何をしていたわけでもないんです。ご心配をおかけしてすみません」
「しかしねえ、なにか紛失でもおきていたら、疑われるのはあなたですよ」
アンドレは、悪びれなかった。
「そうですが、私にやましいことはないですから」
ザルチ氏は具体的なことを尋ねた。
「どのくらい、会社に泊まってるんですか」
アンドレは顎をこすって、数え始める。
「8月の、ザルチさんから注意された時で3回、いや4回ですね。9月は今日が2回目」
「あきれたもんだ、10日ほどのうちに6回とは。そこまでして、『別に何もしていない』なんて話が通用するもんですか。アンドレさん、あなたは前社長の息子さんだ。今の社長を追い出そうとして、夜中こっそり会社の秘密を漁っているとかなんとか、世間の人が聞いたら、どんな話でもでっち上げられますよ」
「私は社長の器じゃないし、そもそも、そういう地位に興味がないことは皆さんご存じでしょう」
アンドレはザルチ氏の義憤を、あっさりと受け流した。
「それにしても、もう少しご自分の立場というものを、考えてくださいよ。私は、あなたが子供の頃から知っていますから、つまらない不正なんてなさる人じゃないのはわかっています。それならいったい、何のために会社に泊まり続けてらしたんですか」
この問いに、それまでむしろ無表情だったアンドレは、唇をゆがめて、
「いや、」
と口ごもる。ザルチ氏は水を向けるために、適当に思いついたことを付け加えた。
「家賃が払えないとか経済的な問題なら、会社に相談してくださったら、お力になれることもありますよ」
これは、トラブルに巻き込まれた社員にかける決まり言葉だなと、口にしてからザルチ氏は考えた。アンドレは少し苦笑して、
「ありがとう。父のことで、良くわかっています」
と答える。もう10年近く前になるが、アンドレの父が倒れたときに、手術の費用を緊急で会社から融資させたことがあった。ザルチ氏は念のため、
「もしかして、そのことで遠慮されていませんか?前社長は会社を創った人なんですから当然のこととして、アンドレさん自身の問題は、また別口で頼っていいんですよ」
と水をむけたが、帰ってきたのは
「幸い、お金に困っているわけではなく、むしろ逆というか、家を捨てたくなって」
という意外な答えだった。




