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不在

 落ち着かない気持ちのまま、ザルチ夫妻は勘定を済ませて店を出た。このあたりは繁華街とオフィス街の中間ぐらいで、夜の人通りは少なめだが、金曜日の夜のことだ、点在する飲食店には客の出入りがそれなりにある。食堂の外に持ち出されたテーブルで、ビールを前に一週間の疲れを癒す人たちもいる。二人が通り過ぎるところに、ちょうどどこかの店からテレビのサッカー中継らしい歓声が上がった。


 ザルチ氏の妻は、うつむきがちに夜の歩道を歩いていたが、交差点で立ち止まった機に、夫に向けて、


「アンドレさん、今頃会社に戻ってたり、しないわよね」


と語り掛けた。


「まさか」


と答えたものの、ザルチ氏自身もうっすらとそんな顛末を思い描いていたことは確かだ。


 二人は暗黙のうちに、地下鉄駅へ降りる口を通り過ぎると、会社のあるビルの方に足を延ばした。ただの事務所などは、もうほとんどの灯りが消されており、マロ商事の入っているビルも例外ではなかった。通りからオフィスがある3階の窓を確認したザルチ氏は、妻に


「暗いし、誰もいるはずがないよ」


と伝えた。彼女は肩をすくめて、


「考えすぎたわね。でも、気をもみ続けるくらいなら、来てみてよかったじゃない」


と答え、二人は向きを変えると、地下鉄で帰宅した。


 その夜、寝る前に歯を磨いていたザルチ氏は、妙なことに思い至った。ザルチ氏が会社の灯りを確認した場所は、夕方にアンドレ・マロが会社を見上げていた位置とほぼ同じだったのだ。アンドレも街路から、オフィスの窓がどんなふうに見えるのか確認していた?そう、外から見つからないように夜のオフィスに忍び込むために。

 

 ザルチ氏は頭を振ってくだらない想像を追い払うと、口を漱いだ。


 休みがあけて、彼が出社したときには、もちろん何の異状もなかった。管理会社からも、鍵の異状は報告されてこない。ザルチ氏はアンドレ・マロを見かけると、それとなく様子をうかがった。どことなく活気がないようでもあるが、もともとが大人しい男なので、なんともいえなかった。やはり、妻がいったように、自分たちの考えすぎなのかもしれない、とザルチ氏は結論づけた。


 数日のうちに9月となっても、普段通りの日常が続いた。人事部門でいう日常には、社員からの多種多様な要請を処理するという、突発的な対応も含まれる。ある日の午後、遅くなってから部下が、困った様子でザルチ氏に相談してきた。


「海外長期出張中の社宅の扱いについて、社員から苦情があるんです。長期出張するなら家賃を払いたくないと言っておりまして、どう納得してもらえばいいものか」


 社宅といっても、会社が賃貸住宅を契約して、社員からは一般の相場より幾分安い家賃を徴収しているものだ。ザルチ氏は眉をひそめた。


「家賃を払いたくないなら退去してもらうのが筋だが、出張が終わればどうするつもりなんだか。どれくらいの期間の話だね?」


「それが、一か月なんです」


「一か月?それぐらいの負担に文句をいってくるとは、困ったもんだね」


あきれたザルチ氏に、部下はうんざりした表情で補足した。


「本人は会社の命令なら退去すると言っていますが、退去を命ずる以上、引っ越しにかかる費用は会社が負担するべきだと」


ザルチ氏は眉間を押さえて考えをまとめようとした。


「本気で言っているのか、それとも駆け引きのつもりなのか、いやはや、たいしたもんだ。

うーん、まずは契約の確認だな。社宅貸与時の契約では、長期に居住できない場合をどうすると決めていたのか」


部下はその点は確認済だった。


「契約にはそのような条件を記載してないんです。これまでは長期出張といっても、家族が引き続き居住されるのが普通でしたし、単身者だとしても引っ越しの面倒を考えたら、長期出張のためにいちいち退去するのを選ぶとは思えなかったもので」


「もっともな話だね」


しばらくの相談ののち、《もともと社宅の家賃については一部会社側も負担しているうえに、出張中の滞在費用も出すわけだから》と人事部長から言い聞かせる方針とし、日程の調整などをしていると就業時間を過ぎてしまった。他の仕事もあり、ザルチ氏は久しぶりに人事部門の最終退勤者となって夜を迎えた。


 遅くなったついでに、フロアをひとめぐりする。ザルチ氏、鍵が気になって、経理部長のオフィスの横、フロア全体の鍵の所定の保管場所に、きちんと置かれていることを確認した。鍵の横にあるノートからは、ほとんどの部署が退勤済で、電算チームだけが残っていることがわかった。


「遅くまで大変だね」


電算チームを覗きこんで、ザルチ氏が声をかけると、


「私たちも上がるところです」


と答えが返ってきた。彼らが片付けている間に、ザルチ氏は、奥のコーナーのアンドレ・マロの席に目をやった。照明は電算チームと共通なので点灯しているが、本人の姿はない。ちゃんと帰宅しているようだ。ザルチ氏は肩の力を抜いた。


 電算チームの連中と言葉を交わしながらオフィスを出たが、彼らは鍵の保管場所に向かわずにそのまま出口へと向かう。


「鍵は?」


と尋ねたザルチ氏に、


「ああ、アンドレさんが管理会社へ持っていくそうです。そのままにしてくれと頼まれて」


という答えが返ってきた。


「彼は帰宅したんじゃないかね。見かけなかったが」


「いいえ、ちょっと食事に出られて、20時までに戻るからと」


ザルチ氏は腕時計を見た。19時過ぎである。


「ちょうど副社長に用があったんだ、私は少し待っているよ」


ザルチ氏は断って、自分のオフィスへ戻った。

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